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千年少女  作者: 長沢紅音
八重樫エリアナ
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八重樫エリアナ 12


 少女の予言通り、旅は終わらなかった。


 いつ果てるとも知れない跳躍に対し、八重樫エリアナは遂に完全無視を決め込んだ。目を閉じ、胎児の姿勢で横になり、いかなる物音にも、いかなる苦痛にも反応を拒否した。幾つかの時間が過ぎた。




「全て忘れたいか」


 ああ、そうだ。


「世の中にはそういう人も沢山いる。俺はそのために研究をつづけている。外科手術で都合の悪い記憶を失くす方法をね。統合失調症の治療としての電気痙攣療法には副作用として前向性健忘や逆行性健忘を伴うこともある。その逆行性健忘に焦点を絞り、ほぼ確実な形でそれを引き起こす方法を見つけた」


 そりゃあご立派なこった。


「だが困ったことに、そういう人たちからの要請ではなく、もっと胡散臭い企業からの出資でこの研究所は成り立っている。それでも俺は成果を出したいと思っている。上司は反対しているがね。できるだけ研究を長引かせて金だけ引っ張り、裏では他の研究を開始している。次の出資元も粗方リストアップ済みだ」


 大人の事情ということか。


「理念は分かる。だがやはり成果は出したい。それを出資元に知らせなければいいだけの話さ。そしてほとぼりの冷めた頃に、本当に必要としている人のためにこの技術を使いたい」


 八重樫エリアナは目を開けた。神社で五式清一郎を迎えに来た男が白衣を着てそこにいた。


「道端に落ちている女の子を拾って持ち帰るのは犯罪だ」


「保護だよ。発見したときは死体だと思った」


 内部構造からは古い西洋風の民家を改造した病院のような印象があり、男の説明によると事実その通りであるらしい。研究施設といっても病院からの払い下げのような大型機材と理科室を合わせたような内観である。


 診察台から起き上がり、窓の外を見た。白樺の林にくたびれたハンモックが掛かっている。男はマグカップを寄越して、インスタントでよければ、と言った。


 珈琲をちびちびと舐めながら周囲を観察する。


「今日は他の所員はいない。明日以降ならば全て忘れさせることができるが」


「保険は利くのか?」無意味な問答とは思いつつも質問した。


「検体を志願してくれる人からお金を取るつもりはないよ」


「私がそれを望むとどうして分かる?」


「君を発見したときの状況を知りたいのかい?」


「まさか未だ一人の成功例もない状態ではあるまいな?」


 男は壁をノックし、得意げな顔で呟いた。


「隣の部屋に第一号がいる。今はまだ検査をつづけているが、ほぼ成功とみて間違いない。彼はもろもろの事情により顔を変える必要があるから、まだ表には出せないけれど。ここを出る前にもう一度施術する必要がある。記憶を失くした経緯も忘れさせた方が混乱がなくて良いと思うんだ」


 予感ではない。男の制止を振り切り、八重樫エリアナは部屋を飛び出し、暗い廊下の板張りの上で滑りそうになりながら隣の部屋のドアを開ける。


 髪の毛をそり落とした五式清一郎は診察台の上で眠っていた。こめかみと耳の間くらいに醜い縫合痕があるが、髪の毛の伸びてしまえば容易に隠してしまえるだろう。


「起こさないであげてくれるかな。混乱するといけないから」背後で男の声がする。「今後の面倒もみるつもりだよ。すでに書類は揃っている。彼は新しい顔と名前で全ての過去を断ち切り、全く新しい社会生活を始めることができるんだ」


「ずっと監視下に置くつもりか?」


「三年ほどデータを取ったら後は彼の人生だ」


 八重樫エリアナは振り返り、男の顔を凝視する。


「篠崎香月は知らないんだろうな」半ば独り言のように呟いた。


 男の表情にはじめて焦りのようなものが浮かぶ。視線を逸らし、白衣のポケットから煙草を取り出すが、口に咥えたところで患者の前であることを思い出したのか、ポケットにしまう。


「知り合いだったとはね。極秘にしてもらえるかな。色々と大変なんだ」


 五式清一郎が篠崎香月の父を殺した/見殺しにした件にこの男が関わっているとみて間違いない。八重樫エリアナはこの状況の意味するところを掴みかね、今はただ傍観する意外に選択肢がないことを思い知った。


「刑事事件になるだろうな」


「親族には含めてあるよ。というか酷い話だが向こう方もそれを望んでいて便宜をはかってもらった。それに、仕事としての責任や知り合いとしての個人的感情を抜きにしても、彼にはこの方が良かった。彼は医者にかかってはいなかったが、とっくに入院してしかるべき状態だった。俺は器質専門だから精神医療の方は専門外だが、よくも自我を保っていられたものだと思うよ」


 五式清一郎の顔に苦痛はない。当たり前か、寝ているんだものな。


「ここの住所を知らない」


 明日、再び来訪するために住所を教えろというと男は少しだけ躊躇するが結局折れた。


「このまま泊まってもらった方が俺は安心できるんだが」


「私の言葉は誰にも届かないさ。それに」すっと鼻を啜り、匂いを確認する。視界が白濁する前に、前兆としてその場の匂いが消えるということを発見したのだ。医療施設特有の消毒臭が消えた。「時間だ」


 目を見開く男の顔が最期に見えた気がする。自分も記憶を消したいと思ったが、無駄なことだと次の時間が告げていた。




 モラトリアムから脱した理由は分からない。


 拡散した時間の中で拠り所をなくした状態でも、人の気持ちの中に因果は残っていた。それがもしかしたらきっかけになったのかもしれない。そのように八重樫エリアナは考えた。


 ならば目の前にいる鬱陶しく泣きじゃくる子供にも何かしらの因果の萌芽があるのだろうかと戯れに考えたがすぐに無関係と割り切って興味をなくした。


 知らない場所であった。水田とあぜ道と取り囲む山々に郷愁を覚え安心したが、この時間のこの場所に廃屋へと辿り着くための手がかりがあるとは思えない。束の間の安らぎを得ようと、木陰に移動して腰を下ろした。


「泣くのを止めろ」


 子供は八重樫エリアナの方を振り返ったが、再び泣き出した。


「うるさい」


 左右に田園が広がり、強い日差しが轍の表面の土を白く乾燥させた。次の木陰は遠い。


「泣いたって誰も救ってくれない。エネルギーの無駄遣いだ」


 子供は一層大きな声で泣き喚いた。逆効果を悟り、そのまま沈黙することも考えたが、耳障りな声音にあらゆる思考が中断され、ついに八重樫エリアナは腰を浮かした。


 百メートルほど歩くと舗装された道に出た。T字路の突き当たりに鉄塔がある。土台に寝転ぶと日光で焼けたセメントの熱が冬服の厚い生地越しにしだいに伝わってきた。それでも時折吹く風が気分を洗う。遠くで蝉の鳴き声と鳥の囀りに混じり、冷えた空気が転がるような、川のせせらぎが聞こえた。そこに雑音が加わる。


 子供は八重樫エリアナの後を追ってあぜ道を歩いてきた。変わらない声量に八重樫エリアナは呆れた。


「どうして欲しい?」半身を起こし、土台から見下ろす。


 子供は上目遣いに様子を探り、少しだけヴォリュームを下げた。八重樫エリアナはポケットからオカリナを出し、子供の方へと放り投げた。子供は受け損ねて、地面に落とす。青草の中のオカリナは妖精の蛹だ。実によく似合う。


「それだけの声量があれば何だって吹ける」


「くれるの?」と子供は初めて日本語を話した。


 土台から降りて、地面に落ちたオカリナを拾い、子供の手に握らせる。


「確か、こうだったか」


 指を穴が塞がるように導くが、子供は一向に口をつける気配がない。


「吹かないと音は鳴らないぞ」


「地面に落ちたからばい菌が付いている」


 子供からオカリナを引ったくり、癇癪を起こしながら制服の裾で磨いた。それから”ラブ・ミー・テンダー”を吹いた。父がよく口笛で吹いていたのを思い出した。


 子供は目を丸くしている。もう一度裾で擦り、子供に渡す。


「泣きたくなったら吹いてみればいい。世間的にはその方が喜ばれるだろう」


「今の曲はどうやるの?」


「自然にできたから教えろと言われてもな」


 代わりに口笛で奏でる。「こうだ」


「お姉ちゃんは口笛もできるんだね、凄い! 服は汚いけれど」


「余計なことはいうな。それにお前にはオカリナがあるから吹けなくてもいいじゃないか」


 口角が上がり、子供は何かを言おうとしている。八重樫エリアナはそれを無視して”ラブ・ミーテンダー”の吹き方を教えた。選曲は古いが、少なくとも子供は泣き止んだ。残りの時間をオカリナの演奏法を指導して過ごした。




 廃屋にあっけなく到着したときに、オカリナを失くすなと言われていたことを思い出した。それでもその場にシナモンがいるわけではない。当面は白を切るつもりで電話をかけた。


「捨てるなと言ったはずだ」開口一番にシナモンは言った。


「捨てたんじゃない。あげただけだ。それに隣町のデパートには楽器店がある」


「まあいい。それより時間が惜しい」


 淡白な態度にひっかかりを覚えつつも八重樫エリアナはシナモンの指示通り、家の中に入り、神棚の前へと移動した。


「まさか本当に掃除しろと言うんじゃなかろうな。ご機嫌をとるならカロリー高めの食い物の方がいいだろう。今更見栄を張ってどうする」


「神棚の中を調べてみるがいい」シナモンは無駄口には付き合わず、事務的に述べた。


 ミシン台の椅子を部屋に運んだ。その上に乗り神棚に手を伸ばす。巾着袋があった。


 椅子から降りて片手で包み込むのように手にする。八重樫エリアナはそれが何であるか、おおよその察しがついた。綿生地越しにでもその異様な感覚は感じとれた。


「黄泉戸喫か」


「かくり世とうつし世はそもそも互いに隔絶した地ではない。すぐ隣にある他界とでも言おうか。神とはその境界を行き来できる存在であり、手足とはその感覚のみを分け与えた者たちのことだ。いくつもの時間は初めからすぐ隣にある。常人は観測できないだけでな。黄泉戸喫と呼称しておったが、正確には違う。本物では完全にあちらに行ってしまう。いくつもの時間はあちらではなく、拡散したうつし世に過ぎない。ただ、時間から時間への移動にはどうしてもあちら、つまりかくり世の側を通らねばならない。その為に感覚のみを他界の住人にする必要があるのだ」


「二重国籍のようなものか」


「そして手足はやがていつくもの時間を"同時に"観測できるようになる。その時、肉体は用を成さなくなり、やがて」


「お前のようになる、ということか。時間の確定条件が肉体の消滅というのはつまり現世から三下半を叩きつけられることだな。お前はここの住人ではないと」


「百歩蛇の呪いはそれを応用したものだろう。一定時間の経過でその時間から異物として排除される。ならば再び黄泉戸喫(に似たもの)を食し、かくり世とうつし世の臨界に身をおくまで。そして新たなる真名で肉体との契りとするのだ」


 胡散臭い伝奇小説のような言い草に八重樫エリアナは気持ちが冷める。


「新たなる真名とはつまり誰かにあだ名でも付けてもらえということか?」


「お前の本名を我が知らないとでも思っていたのか? そちらに戻せばいいだけの話だ」


 八重樫エリアナは言葉に詰まる。それから大したことでもないという風に笑みを漏らした。


「ここで黄泉戸喫を食ったら私はこの時間に置き去りにされるということか? 八重樫エリアナは二人になってしまう」


「お前と我の過ごした時間は125868通りある。お前が見たのはその内の一回に過ぎん。今の時間は篠崎香月が作る時間で、お前がそれを食したところで確定条件の権利を持っているのはやはり篠崎香月だ。そしてもうすぐ、この時間が終わりを告げる」


「奴は失敗したのか。といってもここは私が元いた時間とは違うのだったな」


「終わる時間の中で、貴様が二人に増えたところで何ほどのこともない。黄泉戸喫は時間を発生させるためのものではなく、手足に異なる時間を観測できる感覚を与えるだけのものだ。そしてそれは百歩蛇の呪いを断ち切るにも有効である。呪いの上書きと言ってもいいだろう。真名はそれを確実なものにする保険のようなもの。さあ、食せ」


 携帯電話を畳に置き、巾着を開く。現物を肉眼でみるのは二度目だ。相変わらず、薄汚れて美しい食べ物だった。距離感を逸するようなめまいを感じる。手を袋の中に入れ、冷たくも熱くもない感触を抱いた。圧縮した空気を掴んでいるような感覚だった。躊躇いはある。だが八重樫エリアナに選択肢はなかった。


 最初のときは死の境にあり感覚が鈍磨していたせいでわからなかったが、再び食べて初めて五感の混乱を感じた。混乱はあるが全能感のようなものを感じる。偉そうな言葉遣いになるわけだ、と八重樫エリアナは思った。やがてそれらの感覚は消え、再び自分の体に戻った気がした。


「真名を名乗れ」


「八重樫レオナ」携帯電話を持つ手に力が入った。


「レオナか。ふん、洋菓子から昇格か」


「この名はお前だけにしか名乗らないつもりだがかまわないな」


「理由を聞こうか」


 舌打ちして顔を顰める。どうせ知っているくせに。


「気が向いたらな」


 篠崎香月の時間が終わりを迎えるまでこの家で過ごせと言って電話は切れた。八重樫エリアナは携帯電話の時刻を確認する。あと五分。縁側に座りその時が来るのを待つ。喉が乾く。二人分の言葉を話したのだから当然か、と納得した。電話は繋がっていなかった。シナモンの言葉は全て自分が話していたのだと随分前に気づいていた。


「おい、シナモン」


 戯れに声をかけるも反応はない。この身の内に神の座から落ちた者を宿しているのだと考えてから、自分は気が変になったのかもしれないと思った。


 庭木の中に小ぶりな桜の木がある。散るにはまだ早いが、突風が吹くと控えめに花びらが舞う。気が付けば四十八分は既に経過していた。嘆息して立ち上がり、食料品の在庫を確かめに行った。



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