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千年少女  作者: 長沢紅音
八重樫エリアナ
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八重樫エリアナ 10


 五式清一郎は賽銭箱の前でうな垂れている。


「またここか。まずは金だ」八重樫エリアナは石畳に金庫を叩きつけた。「できれば次は駅前が理想だが、まあのんびりやるさ」


 呆気にとられている、というのではない。大きな物音に顔を上げたが、五式清一郎のその目には何も映っていないのだ。


「開けてくれるならば山分けだ。私としてはタクシー代か自転車を一台買えるだけの料金があればそれでよいのだ。あくまで短縮するだけの方法なんでそれほどの期待はしていないがな。射程距離が少し伸びるだけというだけだし。しかし、やらないよりはずっといい。金庫だからそれくらいは入っているだろう。ちなみに後ろ暗い金ではない。少なくとも金庫を開けて有り金を残らず使い切ってもこの時間に困る人間は誰一人いない」


 そこでようやく気がついた。五式清一郎の手には乾燥して赤茶けた液体の跡が付いて、白いカットソーには赤い雫の染みが無数に広がっている。


「もっとすっきりするかと思っていた。でも、ただ取り返しが付かないという気持ちだけがある」


 そうか、と八重樫エリアナは呟いた。唾の飲み込み方を思い出しながら視線だけを周囲に巡らせる。


「完全に予定通りにはいかないものだね。きっと僕の失敗は念のために小刀をズボンに隠していたことだ。この期に及んで僕はまだ保身の可能性を信じている。だから反省なんてものをする。汚れきった思い出は僕自身をも汚れた人間に変えてしまったんだ。なのに、戻りたいなんて未だに思う。祥子先輩のファミレスで下らないお喋りをしたことや入れ替わった陽名莉さんとの短いデート、そして香月とのかけがえのない日々に。


 僕個人の汚い思い出のせいにしているのも体の良い逃げ口上だ。ずっと言い訳していたら僕はいつまでも汚れた人間に甘んじるに違いない。全部、忘れたい! 現に今も、心のどこかで香月のせいにしている。どうしてそんなことを僕に教えた? 知ってしまったら僕というシステムは逆行できない」俯いてズボンの腿の辺りを強く握り締めている。


「篠崎香月は幸せだったと言っていた」思わず呟いた言葉に内心驚いた。そもそも篠崎香月はそんな台詞は言っていない。だが私自身は少ない会話の中からそう感じたのだ。狼狽しながら八重樫エリアナは続けた。


「篠崎香月がお前に惹かれたのは葛藤のせいだろう。仮にお前が表面通りの人間だったとしたのならば、あの妖怪染みた女がお前に惹かれたとは思えない。正直、私にはよく分からんのだが、恋というものはパターン認識に近いものではないのか? どこぞのハンサムなお金持ち野郎が雌を惹きつけるパターンを持ちえていたとしても、たぶんあの女は靡かなかったと思う。お前のその葛藤が多様なパターンを生み出し、それによって篠崎香月は退屈しなかった、とは考えられないか? だから」


「今の自分を肯定しろと言うのか? 彼女の父親を殺した、この血みどろの姿で?」顔は下を向いたままだった。


「そんなことは知らん。しかし予想だが、あの女は一回目からお前に惹かれたわけではないと思う。繰り返しの中でのランダムなお前の行動がやがて篠崎香月の目にとまった。何かの本で読んだが、雌は群からはぐれた異性に惹かれるという話だ。どういう理屈かは忘れたがな。同じパターンを繰り返す人形のような連中に囲まれて、ひとり好き勝手に動く人形がいたら気に留めるのは道理だ。倫理的な話を抜きにして言わせてもらうと、お前の今のその姿も篠崎香月からすればまた違うパターンのひとつとして彩りを与えたことだろうって話」


「何の話をしている?」顔を上げた五式清一郎は憔悴しつつも目に光を宿している。


 八重樫エリアナは顎に手をあてて考え、それから携帯電話で時間を確認する。


「来い」五式清一郎の胸倉を掴んで無理やり立たせ、地面に投げ出した金庫を持たせた。


 連れだって階段を下りていくときに既視感に気づいて立ち止まり、尋ねた。


「ここの近所に一家心中した家はあるか?」


「あの山の辺りかな」と五式清一郎が指差す先は、走れば何とか四十八分以内に辿り着けそうな場所にあった。「噂だから、本当かどうかは知らないけれど」


 八重樫エリアナは声にならない叫びを上げた。二度も機会を逃していた自分の額を、手に平で何度も叩く。何度も叩く。


「もういいんじゃない」


「そろそろあの男が上ってくる頃だからお前の懲罰は後だ」


 分校の側を通る際には足音を忍ばせ、そのまま国道を北上し暫く歩いた。土留めと杉林に挟まれたアスファルトには車線の区切りがない。上り坂はゆったりとカーブし、側溝に落ち葉が溜まっている。夏場なら煩いほどの蝉の声が響き渡るであろうが、冬の弱い日差しが梢の隙間から注ぐだけで、ほどよく静かである。血まみれの少年を隣に従え、携帯電話の液晶画面を終始にらみ続けた。


「香月と知り合いだったんだね」


「気になるのか?」


「どうかな」


「お前はなぜ香月を選んだんだ?」


「八重樫さんの言葉を借りるなら、パターン認識じゃないかな。同じ部活動という限定された状態で、僕が意識せざるを得ないパターンを彼女が有していた。それが何かは思い出せないけれど」


「誘導されたんだな。無限の時間を持ってすれば造作も無い。お前が自分の意思だと思っているものは反射に毛が生えたようなものだ。オジギソウに触れたら葉が閉じるように」


「始まりは重要じゃないよ。無限の時間という言葉がどういう意味かは知らないけれど」


「人を好きになるとはどういう感じだ」


「何かを取り戻してゆく感覚がする」


「幼少期の追体験だ。母親のぬくもりをねだっている赤ん坊と変わらん」


「悪意満点だね」


「それは違うな。半身不随になった者に、医者が針を刺して感覚を確かめるようなものだ。来るべき面倒ごとに備えて事前情報を収集しているに過ぎない。私の場合、悪意や善意というものは動機に含まれないからな」


「寒くない?」


「お前ほどじゃない。どうして上着を羽織らないんだ」


「ひどい有様になったから捨ててきた」


「そろそろだ」


 五式清一郎の手を掴み、立ち止まる。坂の頂上にあるカーブミラーに写った二人は学校をサボってデートしているように見えなくも無い。握った手のひらが小刻みに震えている。


「交尾のサインではないから安心しろ。上手くいったらお前は誰でもない人間になれるから我慢しろ」


「僕は……」


「幼稚園に送り迎えする母親のようなものだと思っていい。一応、失敗したときに備え、金庫はこちらに渡してくれ」


 風景が白い粒子に分解される様を五式清一郎はどのように認識するのだろうか、八重樫エリアナは顔を覗きこむ。表情が消え、思考も溶けてしまっているように見えた。




 商店街のときと同じように、駅の構内という人目につく場所に現れたにもかかわらず、好奇の眼差しに晒されるということはなかった。可能性の世界の中での移動なので、人々の認識も突然に登場した異物に対して「はじめから存在した」という可能性にすり替えられたのかもしれない、と八重樫エリアナは予想した。手のひらの感覚は両方ともある。首を捻るとそこに五式清一郎はいた。


「成功だ。お前がここに残りつづけたのならばどういう結果になるか見てみたい気もするが、私はそれを観測することはできない。だが、あの場に留まるよりは遥かにましだろう。ここで生活するといい。当面は私が以前話した廃屋で暮らせばよかろう。その先は責任が持てないが、年齢を偽ってバイトすれば生活することも可能だ。ああ、それと、廃屋にいる少女への手土産はシナモンロールがいいぞ。あいつは甘いものが好物だからな。しかし、居ないことも考えられるな。今がいつなのかが分かれば」


「母さんは僕の手を握ってくれたのかな」


 五式清一郎は具合が悪そうに見えた。顔は青ざめて、呼吸が荒い。


「手を握ってきたのは今の母さんじゃないのか? それは母子の情ではなく、穢れた情欲の発露だったんだ。だって本当の母さんは僕を捨てた。僕が偽者の母さんに何をされているかも知らず、邪魔な僕を捨てて今の母さんのように欲の虜になって」


「おい、しっかりしろ」五式清一郎の支離滅裂な物言いに怖気を感じながら言った。「あれはものの例えだ。真剣にとるな」


 その時、電車が騒音を立てて向かいの線路を通過して、五式清一郎の呟きを聞き逃した。場内アナウンスが特急列車の通過を知らせ、八重樫エリアナの左手は感触をなくした。目の前を五式清一郎の背中が遠ざかってゆく。走り高跳びの助走のように大きく弧を描いてホームを通過し、電車待ちをしている少年の肩口を掠めながら、白線で蹴り足を強く踏み込み、特急列車の正面に飛び込んだ。


 大きな音が鳴り響き、五式清一郎だった肉体は弾け、ホームに居た何人かに肉塊が直撃した。通過音に混ざってそこかしこで悲鳴が轟き、ややあって行過ぎた列車が遠くでブレーキをかける音が微かに聞こえ、空には突風が吹き飛ばした桜の花びらが優雅に舞っていた。


 響き渡る悲鳴や怒声は耳に入らず、八重樫エリアナは呆然と息だけをしていた。


「私のせいなのか……」吐息とともに吐き出した言葉は誰の耳にも届かず、ひとりを除いて八重樫エリアナの姿は誰の注目も浴びなかった。


 少女は向かいのホームから微笑みを浮かべて八重樫エリアナだけを見つめていた。駅員と野次馬が雁首を揃えて惨状を眺めているなか、少女は長い髪を靡かせ、ほっそりとした首をまっすぐに伸ばし、直立していた。


 射抜くような視線に糾弾されているような錯覚を起こしかけたが、カゲロウを思い浮かべ、今ある状況から目を逸らした。目を逸らすと想像の中の惨状においてすら一際異彩を放つ存在に目が留まる。想像と現実を一致すべく再び視線を戻すと、そこに少女の姿はなかった。


 金庫を手にしたままふらふらと連絡通路を渡り、向かいのホームに辿り着く。混乱は未だ収まらず、人の流れはピンボールの球のように錯綜していた。黒いロングスカートにファーの付いた長めのランチコートを着ていた。幼い顔立ちのわりに洗練された格好をしている。見回すがそれらしき姿はない。あたりをつけて改札に向かうとそれらしき後姿を見つけた。追いかけるが距離が縮まらない。


 なぜ、私はあの少女を追いかける……? それどころではないはずなのに。五式清一郎は私の何気ない言葉で、精神のバランスを崩してしまった。人を殺したあとなのだ。不安定な状態にあるのは分かっていた。ママのこともそうだ。頼子を敵視するであろうことは分かりきっていた。全部分かっていた。それでも私は。


 追跡をしながら逃避をしていた。自らの咎から逃れ、名も知らぬ少女の姿を追って南口の改札まで辿り着く。切符がないので通り抜けられないと思ったが、飛び込み自殺の騒乱が幸いして改札は一時無人になった。素通りして駆け足で駅を出る。南口は北口のような商店街はなく、線路と平行して進む公道の向こうには畑が広がっていた。少女は農道を歩いている。追いつくにさほど時間は掛からなかった。


 砂利道を駆けていくと必然的に足音がする。側に辿り着くまでに少女は振り向き、八重樫エリアナの到着を待っていた。


 何か用ですか、とその眼差しは語っている。近くにきてはじめて自分より頭ひとつ分小さいとわかった。


 そこで八重樫エリアナは自らの愚行に気づいた。かける言葉が見つからない。


「あまり思い出したくないものを見てしまいましたね」と少女は言った。


「そうだな」と内心安堵しながら八重樫エリアナは答えた。


「見間違いでしたらごめんなさい。電車に飛び込んだ方はあなたのお連れさんではありませんか?」


「……そう、見えるか」


「そう見えました」


 二の句を告げずにいると少女は笑みを浮かべ、冗談です、と言った。


「もしそうなら、こんな所にいるわけありませんものね」


「ああ、その通りだ」八重樫エリアナは目を逸らしたいのを必死で堪えた。


「世をはかなむにしても、周りの迷惑も考えるべきです。……なんて言ったら不謹慎でしょうか」


「いや、同感だ」


「彼は絆を見失ってしまったのでしょう。絆といっても目に見えないものですからね。思い込みが暴走してしまうと記憶すら改ざんされてしまうものです。それがどんなに大切な繋がりでも、絆なんて目に見えないものは容易く見失ってしまう。目に見える、そうですね、なにか代替物のようなものがあればあのような行為に走らなかった可能性もあります」


 胸の深奥が冷めていくのを感じた。この少女は何を言っている? 向かい合うホームで目があっただけで追いかけてきた変な女に、何を?


「そろそろ時間ですね。ではまたいずれ」


 息を飲んだ瞬間、周りが白い粒子に包まれていく。少女は手を振って、何か口ずさんだが八重樫エリアナの耳には届かなかった。



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