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千年少女  作者: 長沢紅音
八重樫エリアナ
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八重樫エリアナ 9


 鍵は右手に握られたままだった。身につけたものは一緒に時間を跳べるのだと分かったが、利用方法は万引きくらいしか思いつかなかった。


 吊り橋の真ん中から渓流を見下ろす。急な流れが岩の間を滑る様を眺めてから自分の番号に電話をかける。繋がらないので確認してみると圏外の表示が映し出されていた。周囲は喬木に囲まれ、吊り橋の向こうにつづく山路は両側とも藪に遮られている。鉄塔が彼方にそびえ、日差しの具合から初夏の気候と知れた。小さく蝉が鳴いている。


 四十八分間、八重樫エリアナは急流を眺めつづけた。




 発電所では慌しさを伝える怒声が響き渡り、敷地内に佇む八重樫エリアナに気づいた作業員が駆け寄ってくる。マスクの下で渋面に涙を浮かべているのがみえた。臨界事故がおきたから逃げるよう指示して施設に駆け足で戻っていく。


 とてつもない危機にもかかわらず、八重樫エリアナは落ち着いていた。それから施設から漏れる煙を見上げ「ヨウ素か」と呟き電話を掛けた。


「最悪の結末がみえる」


「貴様にはなんとなく知られてしまう気がしていた」


「嘘を吐け」腹の底で太ったウナギが暴れまわっている気分だった。「全て知っているのだろう。きっとお前はこの町のあらゆる可能性、あらゆる時間を、まるで一枚の絵を鑑賞するように全部同時に観測しているんだ」


 別の施設からも煙が上がる。一度の臨界ではないとすれば未曾有の大災害になることは予想できた。


「そしてこの地獄も仮初めの時間に過ぎない。私や篠崎香月がどれほど時間を繰り返そうと、お前はたったひとつの正解だけを選んでしまえばいい。それは分かりきっている。問題はそこじゃない。私もいくつかの時間を飛んで追体験したからそれがどれほどうんざりするものかは分かる。だが、だからそこ聞きたいのだ。知っているならなぜ正解を教えない? 手っ取り早いだろう」


「教えたさ。だが無駄だった」


 本来ならこの体は被爆していることだろう。だがこの「時間」という概念自体が仮想に近いものではないのか。狂気に憑かれる少し前、羽虫によって自分の現在の時間を確認し、頼子が未だ首を切られていないと知ったあと、そもそもこの「時間」というもの自体が仮初めであることに気づいた。時間跳躍をしてから全く腹は空かず、眠気も感じない。リセットされているのだ。被爆した体も、全力で走りつづけてこむら返り一歩手前のひらめ筋も。身につけた衣服だけが劣化していく。


「邂逅したときに話したはずだ。教えてしまえば、確立は返って下がると」シナモンは滔々と語る。


「手足とは、何だ?」漠然とした物言いは疑問というより八つ当たりに近かった。


「本来知覚できない世界を一部観測できるようにした、我の感覚をわずかに分け与えた者たちだ。川辺の砂を手のひらで掬っただけでどれだけの砂粒があるか想像もつかんだろう。その砂粒がどれほどのさらに小さな粒でできているかも。手のひらの上にも永遠はあるのだ。しかし、その永遠の中にすら存在しない世界があるのだ。変質した生命が辺りを囲む中、人の住まない地と化したこの土地はほとんど歴史的定めだ。そこで起きた地獄は捨て置いたら回避できない。限定的知覚者たる手足に観測する機会を与えることで、新たな世界を創造する。それが手足の役目だ。——、これ以上は質問してくれるな。確立がどんどん下がる。我と同じ情報を共有することで貴様たちは我の立ち位置に近くなる。観測するだけで何もできない立ち位置にな。”知らない”ということで行動の枠が取り払われることもあるのだ」


「この四十八分の時間跳躍もお前のせいか」


「貴様は混乱している」


「答えろ」


 受話器の向こうから盛大なため息がこぼれた。


「百歩蛇の呪い。これは我が便宜的に名づけた呼称だ。百歩蛇とは咬まれると百歩歩く内に死ぬの言われている他国の蛇の名だ。貴様は呪いがはじまると一定時間経過した後、他の時間に飛ばされる。百歩歩いて死ぬように。おそらく手足の機能を封じるために仕組んだのだろう。手足は殺しても無意味だからな」シナモンの口調に苛立ちが混じる。「祠を壊した人物にかけられるよう仕組まれていたらしい。即座に呪いを発動させないあたりに性格の悪さが透けて見えるな。おそらく呪いを隠すためであろう。貴様が祠を破壊した瞬間に分かった。だから我は意識を閉じた。呪詛の対象が祠を破壊した人物か、我のみにかけられるか、その時は分からなかったからな」


「お前はこの町で起きる出来事の全てを把握しているんじゃないのか? なぜ祠を破壊する前に気づかない?」


「知れたこと、我はヒモロギノキミと呼ばれる源泉ではないからだ。全ては知らん。貴様は勘違いしておる。全てを知るのは源泉の者だけだ。ヒモロギノキミは数多に御霊遷しを行い、依代たる個体——例えば我のような存在がその時間を観測する。我はその依代のひとつにすぎん。全ての出来事を把握しているわけではない。そして、我は祠を破壊した時点で御霊の座を降りていたから祠の細工に気づけなかったというわけだ。いや、忘れたと言った方が正確か。仮に成功を観測したときにはただ分かるだけだ。”ああ、成功したのだな”と」


「御霊の座とはつまり神格のことか。いつ降りた? いつの話だ?」


「貴様が名付けたのだろうが」


 八重樫エリアナは言葉を失う。施設内部では作業員が走り回っていた。


「我は我の時間を気に入っておる。要するに独り占めしたかっただけだ。御霊でいることは特に楽しいことではないからな、貴様と同じ目線に立つことにした。とにかく、我は我の時間を失敗させたくない、折角独り占めできたのだから。貴様の呪いは考えようによっては事が有利に運ぶかもしれん。だが、それでも呪いは解かねばならん。そこで貴様がすべきことはただひとつ。どの時間にいるにしろ、あの家に帰ることだ」


 四十八分の間に廃墟に辿り着ける距離にいたことはない。無作為に転移させられる身ではそれがどれほど困難であることか。


「また連絡しろ」


 電話は切れた。シナモンの現状を尋ねる前に。自分の電話番号に電話して、なぜシナモンが出るのか分からないまま。


 しかし、八重樫エリアナには秘策とまではいえずとも、転移先から廃墟までの距離を縮めるための対策は思いついていた。混乱を続ける施設を尻目に、来客用と思しき建物に向かう。なぜか人は居なかった。臨界事故に人手を回したのか、いち早く逃げ出したのか。建物の奥の部屋にある事務机の引き出しをいくつか無断で開いた後、管理者の部屋らしき場所をみつける。応接間然としてソファや大きな机が部屋の中央にあった。ロッカーの中に工具箱くらいの大きさの金庫を見つける。それを手に建物を出たところで時間切れになった。



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