表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
千年少女  作者: 長沢紅音
近衛三霧
4/70

近衛三霧 4


 近衛三霧は寮に帰る途上に図書準備室で会った少女について考えていた。下駄箱にあった手紙の文面には待ち合わせの場所と時間しか明記されていなかったが、それでも何かしら色恋沙汰の含みのようなものがありはしないかと何度も読み返した。そんな放課後までの自分を恥じた。侮辱とまではいかないが、八重樫エリアナの態度にはどこか人を嘲ったところがあった。それが近衛三霧の期待を余計に打ち砕いたのだ。明日の約束を思い出しては、砕かれた期待を再び寄せ集め、組上げるにはいささかの躊躇がある、そのような思考の波に揺れていた。


 靴先にまとわりつく枯葉を蹴り上げ、校舎と寮の間にある遊歩道を仰ぎ見た。女子生徒がひとり、枯れ枝を手にベンチの後ろにしゃがみ、草むらをなぎ払っていた。


 どうかした、と自然に声を掛けた自分に驚いた。およそ積極的に他人との接点を持たないように学園生活を過ごしてきたこれまでの行動規範に外れた行為だったからだ。声を掛けてから、横顔が誰かに似ていると思った。誰かに似ているから声を掛けたのかもしれない。上級生でも同級生でも覚えのない顔だから下級生に違いないと考えた。「探し物?」と付け加えた。


 女子生徒は首筋までの短い髪を揺らし頷いた。「バスの定期券を失くしました」


 振り向いた女子生徒の顔は一瞬、あご先を糸で釣られたように固定した。やがて近衛三霧の喉元に視線を定め、呆然とした表情を浮かべた。


「寮には入らなかったんだね」と草むらを足で払いながら聞いた。


「家の人に止められて」


 昼食時にこのベンチで弁当を食べたという。教室には見当たらなかったのでここ以外ではありえない、と女子生徒は言った。小一時間ほど探してから女子生徒は「諦めます」と言った。


 半ば意地になっていた近衛三霧は、スカートに付いた埃を払い、帰り支度をする女子生徒の手首を掴み、事務室に行こう、と言った。「誰かが拾って届けてくれた可能性がある」


 女子生徒は怯んだ表情を見せてから思い直したように微笑み、頷いた。そして極自然に手を払った。既に日は傾いていた。



 事務室を出てから「はじめからここに来ていれば良かった」と女子生徒は言って眠たげに笑った。バス停まで送るというと不意に彼女は呆けた顔をして「一年B組の篠崎香月です」と言って頭を下げる。「お世話になったのに名乗りもしないのは我ながら失礼極まりないです」とおどけた。


 事務室で既に聞いていたので必要ない、と言おうとして止めた。校門を出る頃には宵闇となっている。篠崎香月は少し先を歩き、時折振り返っては他愛のない話をする。振り向く度に小さな影絵が揺れて、甘い匂いがした。バス停にたどり着くには校門を出てすぐの商店街を抜けて駅前まで行かねばならなかった。


「ジャクスン・ポロックがどんなに緻密な精密画が描けたとしてもあの”垂らし描き”を芸術と呼ぶことは私には出来ません。同じようにフリージャズも音楽と認めることは出来ません。作品は作品のみで判断しなければならないのです。記号の寄せ集めを芸術としたならば、その繋がりが相乗効果をあげて初めて芸術となるのです。解体され、記号が記号としての意味すら失われた時、それはどれほど視聴者の意識を揺さぶるものであってもガラクタに過ぎません。ある種の不響和音に心を揺さぶられたならそれは感動ではなく病です。プライベートな揺れを全て芸術とすれば、もはや人類全てが芸術家です」


 香月は芸術一般に関しての並々ならぬこだわりを披露したが、それは彼女の偏りを如実に示しているように思えた。商店街の灯りや対向車線からのヘッドライトに照らされた篠崎香月の顔は、時に嫌悪に歪み、時に恍惚の表情を描いた。近衛三霧はそれを芸術と呼んでもいいような気がした。


「艶のない話しかできなくて申し訳ない」と別れ際に近衛三霧は言った。「僕には趣味と呼べるものがないんだ」


 本心からそう思っていた。なにもない。ゼロの人間と話して何が楽しい。


「艶というのは磨けば自然とにじみでるものです」と篠崎香月は抑揚のない声で言った。ロータリーを回ってきた路線バスのヘッドライトが全身を包み、逆行になった彼女の顔は見えない。横付けされたバスの乗り降り口で篠崎香月の右手は宙を泳ぐ。


 握手を求められているのかと近衛三霧も手を伸ばしかけるが、眉根を寄せる香月の表情に躊躇い、混乱を覚えた。


 今日はありがとうございました、と早口で言って篠崎香月はバスに乗り込んだ。そのまま乗車口近くの椅子に座り、急ぎ窓を開け「今度、デートしてくださいね」と言った。


 バスが発車しても呆然としたまま近衛三霧は停留所に立ちつづけた。














評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ