篠崎陽名莉 14
歩くという行為は哲学の領域である、と誰かが言っていた気がする。
放課後の散歩が日課になって既にずいぶんと経つ。祥子先輩とはあれから何度か話した。乗り気でない部活がどういうわけか活気付いてしまい、時間に追われているという。
ある時、一人で時間を過ごすなら図書館がよかろうと思い足を運ぶも、半時ほどで落ち着きがなくなりすぐに表に飛び出した。本を読むのが苦痛なのではない。時間帯が私を活動する方に駆り立てるのだ。家での私はそれなりに本を読む。
はじめの頃は無目的に緩慢に歩いた。妙な男に声を掛けられ、交番に逃げ込んだこともある。同じ時間帯でまっすぐ家に向かうときにはそのようなことはなかった。つまり私の行動は群れからはぐれた小象を連想させるのだ。サバンナにはサバンナのルールがある。
目的地を定めると散歩の楽しみが半減する。しかしサバンナのルールでは目的地のない者は獲物の判定を下されてしまう。歩き方を変える。腕を大きく振り大股に歩いた。表層だけルールに従えばよいと気づいたのだ。
ダイエットでもないのに必要なく歩くのは生産性に欠ける。時間の消費であり、魂の浪費である。ポール・オースターの小説の中に散歩のルートでアルファベットを描くというものがあった。模倣して楽しめたのは最初のうちで、読み解く者のいない謎の行為は浪費というより虚無である。そういえばアルファベットを描いていたのは狂人であったと思い出した。
地図を作ろうと思いついたとき、さほど良い考えには思えなかった。しかし、実際に始めてみると制約がゲーム性を与えてくれた。見知らぬ道を歩かねば地図はできない道理で、具体的な目的地はないが未知の光景はその場で目的となる。分岐点に立つならば必ず知らない道を選択する。それが制約になった。ゲーム性とは娯楽であり、娯楽の有無は判断基準を大きく左右する。
無論、地図とはいっても実用のためではない。ドライブインや書店に行けば獣しか通らない林道までこと細かく記されている正確なものが入手できる。
生産性のない行為を正当化するための地図である。いわば口実である。もしかしたら、子供が何にでも名前をつけたがるように、所有欲や独占欲の発露であると心理学的に解釈できるのかもしれない。だとしたら、私はこの地を独占したいのであろうか。
漢字を変換して「知の独占」と心に思い描いたとき、最初に浮かんだのは化身であった。化身は今も山の中で迷子の子供に不吉な食べ物を与えているのだろうか。私の地図が織物のごとく線でいっぱいになったとしても、きっとあの山だけは空白のままでそこにあるのだろう。それでも私は仮想の敵を化身と定め、「知の独占者」に対し「地の独占」を企てることにした。
空想は私の拠り所である。香月にとっての五式清一郎のように、五式清一郎にとっての映画のように。
「ジョン・レノンは想像しようと言った。誰かは想像が人を駄目にすると言った。だからジョン・レノンは悪だと。どちらが正しいのだろうね。こいつらは自分たちが他人に不快感を与えていることを想像できない」警官はドライブインの裏手にある路地で、倒れた若者たちを指して言った。「俺はこいつらが他人に不快感を与えていると想像してしまった。だから殴った」
どう思う? と警官は返り血のついた警棒をこちらに向けて私に聞いた。
「二者択一にして極論に走らせることが一番の悪だと思います」辛うじて言えた自分を誇らしく思う。「宙吊りにしたままの方がいいこともあります」
「仏教的だねえ」そう言って警官は若者のお腹を蹴った。若者は控えめにうめいて静かになった。「しかしバランスをとることで物事は静止してしまうこともあるんだぜ。前に進ませるためには極論から極論へと重心を移動させて、遠心力を利用して回転させる必要もある。政治家なんかがよく使う手だけどな」
国道付近のドライブインまで散歩の足を進めたのは、私の地図の空白を埋めるためではない。空想にとりつかれた私は、仮想の敵である化身について情報を探ろうと思った。アジトである山の正確な位置と、ついでながら化身に会った日に父が話した一家心中の家を調べようと思い立ったのだ。一般流通の地図が必要である。地図を作ろうと思い立ちながら地図を買う。この行為に矛盾はあるのだろうか。計算ドリルの答えを見ながら問題を解いているように感じて一抹のやましさがあったが、所詮は自ら作った制約である。そもそも私の地図は正確さを求めるためのものではない。可変的でかつそこには時間経過のプロセスも加味されるがゆえに地図でありながら音楽のように流れの中に悦楽を求めるものである。
様々な言い訳を吟味しながら書店に赴いたのだがたまたま売り切れていた。ドライブインまで足を運ぶのに躊躇いはない。なんとなれば未開発の道がそこからいくつも伸びていたのでいい機会である。
空振りに終わった買い物を終えて早速新しい経路として路地を選んだ。そして警官の暴行現場に立ち会った。
「君はこのまま通り過ぎても問題ない。すでに救急車は呼んであるから。——ああ、こいつかい? 動かないから心配しているんだね」そう言って警官は再び倒れている若者のお腹に蹴りを入れた。若者はうっとうめき声を漏らし小刻みに震える。「死んだふり。実に狡猾だ。本当に気絶していたら声も発さない。他の二人もそうだ。寝そべりながら耳を澄まして反撃、もしくは逃げるチャンスをうかがっている」
警官の声に銘々わずかに身じろぎするのが確認できた。船着場に打ち捨てられた鰯のようにも見えた。鰯の向こうを大型のトラックが三台通り過ぎた。
「原子力発電所ができる話は知っているか」
町外れの沿岸部を開拓し、発電所ができるかもしれないという噂は聞いていた。小規模ながら反対運動も起きたらしいが、そもそも噂自体がガセであると発表され、知らぬ間に沈静化したと聞いている。
「退屈な町だと思っていた。人も自然も多いが、どこか間延びしている。田舎だからというのではなく、幾つもの色が重なって印象がぼやけているみたいな感じだ。その霞の中に何人もの俺がいて、その全てが拡散しすぎていてひどく存在が薄く、すれ違ってもきっと分からない。時々、そんな幻想を抱くんだ。他所の町では感じられない。一応いうと頭は正常に機能している。まあ、ものの例えさ。そんな時に発電所の噂を聞いた。正真正銘に不思議なことが起きたよ。それまで分厚くたちこめていた霞が晴れ、薄い何人もの俺が綺麗さっぱり居なくなり、この土地の未来が発電所に繋がった。強制的に、と付け加えるべきかもしれん。この不思議な現象は俺ひとりに起きたただの幻想なのか? 真相は知ったこっちゃない。ただひとつ分かったのは、俺はこの町が好きだったんだなってこと」
警官は噂を鵜呑みにして、その結末を知らずにいた。公僕にしては変だった。怪訝な顔つきをしていたのだろう。警官は柔和な表情で言って手を振った。
背を向けて歩き出すと、背後から鈍い摩擦音とうめき声が聞こえた。心臓の鼓動が強く、息をするのが億劫だったが、不思議と駆け出したいようなスキップを踏みたいような心持になった。自制して通りをまっすぐに進み、坂を上って警官たちの居た位置から見えないところまで来ると、鼓動は落ち着いてきた。羨ましいな、と呟いて私は新しい道を進んだ。




