篠崎陽名莉 8
五式清一郎に会うのはこれで三度目になる。いつものジョギングコースの折り返し地点、鉄塔の袂に小さな影を発見する。コンクリートの土台に腰掛け、山肌を眺めている。面倒はごめんとばかりに通り過ぎようとする私を、蚊の嘶くような声で呼び止める。足音を聞きつけすぐに振り向いたところをみるとどうやら待ち伏せをしていたらしい。
香月には悪いがこれ以上身元を偽るのはさすがに気が引けたので、これはいい機会とばかりに姉の方であると宣言しようと五式清一郎の方に歩み寄る。
夕日が逆光になり、遠目にはその表情をうかがい知ることはできなかったのだが、近づいてみると泣きはらした腫れぼったい顔がそこにはあった。唇の端に紫色の痣を作り、服装もどこかで転んだような乱れと汚れがある。
「この前はごめん」と五式清一郎は言った。それから視線を逸らし黙り込む。
近頃の香月は五式清一郎についてなにも話さなくなった。原因は痴話喧嘩かと溜飲を下げている場合ではない。
「そのことについてなんだが」と一刻も早く誤解を解くべく口を開く。すると五式清一郎は右手に持っていた何かを目の前に差し出す。
「女の子の気持ちはよく分からない。だから謝る以外に何を話していいか分からないんだ。だから、これ」古ぼけた小ぶりなオカリナだった。「僕の一番大切なもの。受け取ってほしい」
呆気にとられつつも、そんなものは貰えないと両手を挙げつつ、話の順番がおかしいと気づく。
「怪我しているね」
「今日はましな方だ。つい人目につく場所を殴ったもんだから躊躇したんだろう。怪我の功名って言葉はこの場合はいい得て妙だ。本当は香月が来るまでに格好を整えたかったんだけれど、香月はそういうのが嫌だったんだろう。だからこれが偽ざる僕の姿だ」五式清一郎は弱弱しく両手を広げた。「だからこのオカリナは君に持っていてもらいたい」
途中から意味が分からなくなった、と正直に述べる。レコードの針が跳んで第二楽章が抜け落ちた。
「部屋に置いておくとあいつに見つかって壊されると思うからいつも持ち歩いていた。でももっと確実なのは他の誰か……、香月が持っていることだ。そいうことなら貰ってくれるね」
そう言って半ば強引に私の手の中に押し付けてくる。つき返そうとすると既に五色清一郎は公道を駆け出していた。