蛍に満ちる夜
本作品は、勉強会企画「とこしえの夏唄 小説祭(トコナツ祭)」参加作品です。
【ご注意ください!】
この作品には一部に
【集団暴行の描写】
【集団強姦(未遂)を連想させる描写】
が含まれています。
当該描写によってご気分を害される可能性がある方は、読まずにご退出下さいます様、どうかお願い致します。
夜の底が濡れて、ヘッドライトに青白く映っている。
山の麓に差し掛かる頃、昨夜から降り続けた雨は小降りになっていた。運転席側の窓を少し開けると、濃く湿った新緑の香りが車内に流れ込む。
微かな雨音に混ざって耳をくすぐる「りりりり……」という声はマツムシか。暫時、その鳴き声に耳を傾けてから、右ウィンカー。フロントウィンドウに映る対向一車線の道が、ゆるやかに流れ始める。
この峠は、週末の夜になると走り屋目当てのギャラリーが集まってお祭り騒ぎになるが、いまは平日の深夜。しかも梅雨の時期とくれば、シンと静まりかえっている。むしろ、平日のこの時間帯にしか、オレはここへ通わない。
冷たく濡れそぼった路面。タイヤが減らないのは有り難いが、路側帯に降り積もった落ち葉が気になる。いつもより使える道幅は狭い。普段より余裕を残したライン取りで、山頂の駐車場に向かって流す。
路面を撫でる湿ったタイヤノイズと、茂みに潜む夏虫の鳴き声に耳を傾ける。緩やかなコーナーを抜けて加速体勢に入ろうとした瞬間、ドリンクホルダーに立て掛けてあった携帯電話が振動して、メール受信を知らせた。
まだ電波がギリギリ届くのか。つい視線を向けてしまった刹那、眼の前の景色が何の前触れもなくズルリとスライドした。前輪、後輪のどちらかが滑ったのではなくて、車ごと綺麗に真横へズレた奇妙な感覚。
ステアリングを握る手が、反射的にラインを修正する。なんだ、いまのは。オレの錯覚か?
いや、確かに左へ十五センチほど引っ張られた感覚が、腰に残っている。シートに預けた背中に冷たい物が滲む頃、左手の雑木林の暗闇に紅色の影が滲んで映った。
あれは……鳥居? こんなところに神社なんてあったのか?
前方に視線を向けると、路側帯から境内へ繋がる未舗装の細い道が見える。さっきの妙な違和感と、気まぐれな好奇心がオレに普段とは違う行動を取らせた。
減速しながら車体を左へ寄せる。落ち葉を踏みしめるさらさらとした感触が伝わってくる。
外灯が届かない深夜の境内へと、オレは車を進めていった。
−−−−−−
頭上の鎮守の森から降り注ぐ雨滴が、不規則なリズムでルーフを叩く。
これは参道なのだろうか。ヘッドライトに浮かぶ未舗装路は、見通されることを嫌う様に曲がりくねっている。引き返そうかと逡巡するがUターンに必要な道幅を見つけられないまま、深い闇へと誘い込まれていく。
左右には柱廊の様に立ち並ぶ広葉樹。特に立派な幹には注連縄が掛かっていて、やはりここは神域なのだと辛うじて安堵を覚える。
やがて、ヘッドライトが照らす先に本殿らしき建物が浮かび、最奥に至ったことを知る。駐車スペースが見つけられなくて、境内の端にそっと車を寄せた。エンジンを切ると、途端に深閑とした静寂に包まれる。さっきまで聞こえていた夏虫の声も、いつの間にか消えていた。
さて、どうしたものか。携帯電話に視線を落とすと、いつの間にか日付が変わっていた。一つ溜息を吐いてからシートに身を沈め、フロントウィンドウに映る景色を見つめる。
目の前にある小さな建物は手水舎らしい。そして、向かって右手には本殿の黒いシルエット。本殿に上がる階段の両脇に設置された一対の石灯籠だけが、唯一の灯りだった。
意外に広がりがある空間らしいが、石灯籠の周囲以外は深緑の闇に溶けていてどこまで続いているのかわからない。夜半に参るのは作法としてどうかと思うが、せっかく来たのだから参拝だけでもしていこうか……
ドアロックを解除して、車外に出た。
初夏だというのに、じとりと湿った山間の冷気が二の腕を嘗める。手水舎で手を清めようと柄杓を取ったその時、耳が微かな異音を認めた。
ボォーッという野太い音が、一定の音程を保ったまま近付いてくる。
やがてそれに耳障りな音楽の重低音が混ざり始めた頃、さっきオレが辿ってきた参道に青いヘッドライトが浮かんだ。
真っ黒な車体のあちこちを赤や紫のライトで飾った、やや古い型式のミニバン。深夜の峠を走っているオレに言えたことではないが、あまりお近付きになりたいタイプの車ではない。
思わず、手水舎の影に身を潜める。
オレの車までの距離は約15メートル。だが、参道には二台の車が擦れ違うのに十分な道幅がない。つまり、あの車に道を塞がれたら終わりだ。
いま動く訳にはいかない。
息を殺しているオレの耳に、砂利をゆっくりと踏むタイヤの音が届く。手水舎を挟んでオレの車とちょうど反対側、境内の真ん中付近で無造作に停車するミニバン。オレの車の存在に気付いただろうか……
いますぐ闇に紛れて車に駆け寄りエンジンをスタートさせれば、この場を離れられる。そう判断して飛び出そうとした瞬間、ミニバンの扉が勢い良く開いた。車内から複数の人影が降りてくる。何人かの男の声に、女の悲鳴が混ざっていた。
再び物陰に身を隠して、視線だけを向ける。両側から腕を捕まれた若い女が、車内から引きずり出されるのが見えた。思わず、舌打ちする。
ミニバンの正面に無理矢理立たされた女の姿を、ヘッドライトが青白く照らす。はやし立てる男達の声。視認出来たのは四人。三人が女を動けないように押さえつけ、一人は少し離れた場所で何かを組み立てている。
それがビデオカメラを取り付けた三脚だとわかった瞬間、反射的に身体が動いた。自分でも何をしようとしているのかわからないまま、両足だけが意志を持ったようにミニバンとの距離を詰めていく。
ジーンズのポケットから携帯電話を取り出して、緊急番号をコール。ガタガタと膝を震わせているオレを、他人事の様に見守るもう一人のオレがいた。頭蓋の中で混ざり合う、激しい恐怖と醒めた冷静。
男達の一人が、女が着ているシャツに手を掛ける。生地が裂ける音の後に、一際大きな悲鳴と野卑な嬌声が続く。携帯電話の通話が繋がるのと、男の一人がオレに気付くのは同時だった。
その胡乱な視線を無視して足速に近付きながら、まずはビデオカメラを蹴り倒す。思いの外、派手に吹っ飛んでいった。
激昴して掴みかかってくる男を躱して、ミニバンの後方に回る。声を張り上げて通話の相手に現在地を伝え、続けてミニバンのナンバープレートを読み上げた。
そのまま身を翻して、男達を引き付ける。数十メートル走った辺りで、背中に強い衝撃を感じた。砂利道に転がりながらも、携帯に向かってすぐに来てくれる様に大声で叫ぶ。
それからは酷いものだった。
なすすべもなく地面に引き倒されたオレに、四人分の足が次々に繰り出される。背中を丸めて、頭部と腹部を守ることにひたすら意識を集中する。取り上げられた携帯電話は、二つに折られて転がっていた。
身体のありとあらゆる場所を痛めつけられる時間は数十秒に満たなかったのかも知れないが、アドレナリンで体感時間が間延びしているオレにとっては数倍にも感じられた。
境内を過ぎる夜半の夏風に、微かなサイレンの音を聴いた気がした。
リーダー格らしい男が「いくぞ、乗れ」と怒声を上げると、他の男達が慌ただしく従う。頬に吐きかけられる唾。砂埃を巻き上げながら、走り去っていくミニバン。
よろよろと立ち上がり、置き去りにされて呆然とへたり込んでいる女に近寄る。肩を貸して立たせようとするが、腰が抜けて動けないらしい。舌打ちしながら両腕で抱き上げて、自分の車へ向かう。
膝の痛みに耐えかねて危うく落としそうになりながらも、なんとか助手席のドアを開いて女を放り込んだ。
運転席に飛び込みながらキーを捻ってアクセルを踏み込むと、砂埃に煙る忌々しい境内をバックミラーから消した。
−−−−−−
車を停車させると同時に運転席のドアを開き、地面に向かって激しく嘔吐した。極度の緊張状態から解放された身体が、痛みに軋み始めている。
背をさする女の手を感じた。差し出されたミネラルウォーターのボトルを受け取り、幾度か口をすすいでから一息に半分ほど飲み干した。
口元を拭いながら、助手席の女を振り返る。
細身のパンツに合わせた水色のシャツは、前部が大きく裂けてはだけている。トランクから防寒用のウィンドブレイカーを取り出して、羽織らせた。
視界に入ったベンチに、どちらともなく並んで座る。
「アンタ、なんであんな車に乗ったんだよ」
「……ちょっとイロイロあって、お酒飲んでたんです。帰りに駅前で、蛍を見に行かないかって声を掛けられて」
「それで男だらけの車に乗ったのか」
「最初話し掛けてきた時は一人でした。年下みたいだったし、カワイイ顔してたからつい油断してしまって……」
「もう少しで輪姦されるところだった。最悪の場合、死体になってる」
「深夜の峠で訳わかんないスピード出してる人に言われたくないです」
「……まぁ、そうだけどさ」
駐車スペースに設置された自動販売機の人工的な光に、女の小さな横顔が浮かぶ。黒髪のショートカットに揺れる、シンプルなデザインのシルバーのピアス。気丈に尖らせた唇に視線を奪われている自分に気が付いて、目蓋を硬く閉ざす。
そのまま幾度か深呼吸を繰り返していると、ようやく手足の先まで血が巡っていく感覚があった。
「あの、痛いですよね、それ」
「なんのこと」
「唇、切れてますよ」
「痛むのはそこだけじゃないから」
「ごめんなさい、私がバカだったせいで……」
「あぁ、酷い目にあったよ」
張り詰めていた神経が弛緩して、つい口元を緩めてしまう。それを見た女もクスリと微笑を浮かべた。こんな深夜の山中で初対面の相手と笑い合っている自分が滑稽で、さらに口の端を歪める。
「なぜ笑ってるんですか」
「知らないよ。ほら、そろそろ車に乗って。交番と自宅、どっちか送っていくから」
「あ、そういうのは結構です」
「そんな訳にいかないだろ」
「いえ、そうじゃなくて」
「なんだよ」
「その、蛍を…… 見たいのですが」
「……本気で言ってるのか、それ」
女もようやく人心地ついて、すぐ近くから水音がしていることに気付いたらしい。確かに、この駐車スペースの奥から河原へ降りていけるようになっていて、幾度か蛍が舞っているのを見掛けたことがある。
しかし……
身振りでそちらを示すと、まだ青白さを残した表情に喜色を浮かべた。ヘンな女だ。
グローブボックスから取り出した懐中電灯で、足下を照らしてやる。手摺りを頼りに細い石段を降りて、二人で河原に立った。川幅はそれほど広くない。水流も緩やかで、昼間ならば水遊びに適した場所だろう。
水際の大きめの石まで女を誘導して腰を下ろさせると、懐中電灯を消す。
やがて。山中の暗闇に慣れた瞳孔が、川面を漂う仄かな光源を捉えた。さらに目を凝らせば、両岸の茂みにも幾つかの琥珀色の灯りが遠慮がちに揺れている。
女はただ静かな視線で、明滅する蛍の軌跡を追い掛けていた。オレが見詰めていることに気付くと、振り向いて軽く頷き返す。光源を宿したままの瞳に誘われて、オレは口を滑らせた。
「もう十年くらい前の話らしいんだけど、しばらく走れない時期があったんだって、さっきの峠道」
「……そうなのですか」
「当時を知ってる古株の人に聞いたんだけど、あの辺りでなんか事件があったらしくて。何週間もパトカーが巡回していて、とてもじゃないけど走れる雰囲気じゃなかったって」
「……」
「若い女の人が川に転落して亡くなったらしい。経緯はよくわからないんだけど、どうやら車で無理矢理連れて来られて、逃げようとして足を滑らせたって噂で」
沈黙する女の瞳孔に怪しい煌めきが宿り、周囲の茂みに無数の光源が滲み始めた。琥珀色のそれらは明滅するたびに数を増して、まるで茂み自体が膨張と収縮を繰り返しているかの様に映る。
川面では数を増した光源が群れとなって、長い尾を引きながら縦横無人に交錯する。明滅する弧はふわりと浮かび上がったかと思うと、次の瞬間には切り返して水面を目指し、中空に琥珀色の軌跡を残す。
急速に密度を高めつつある眼前の不自然な光景に、現身に宿ったオレの本能が鋭い警鐘を鳴らす。先刻、男達に向かっていった時とは別種の緊張が喉元をせり上がってくる。
「他にお話、ありますか?」
「……きっかけは携帯電話だった。圏外なんだよ、あの峠道。麓なら通じるけど、さっきの神社の辺りまで登ると確実に圏外」
「はい」
「さっきオレは警察に電話するフリをした。たまたま電波が届いただけなのかも知れないけれど…… あと、神社を見つける直前にも妙な違和感があった」
細い顎をつと持ち上げる女。
その視線を辿ると、いまや頭上を覆う広葉樹までもが琥珀色に揺れ蠢いている。夥しい数の蛍の灯りが、河原に満ちつつあった。
「つまり、そういうことなのかな」
「自分でも確信が持てないのですけどね。でも、たぶんそうなのだと思います」
「……」
「すみませんが、やはり一人で帰ってもらえますか」
「それでいいのか」
「さぁ。でも、蛍を見れたから。きっともう良いんです、私」
視線を逸らせた女の唇が、儚げに突き出された。光の弧を飲み込んだ水面は濡れて煌々と輝き、川の流れが琥珀色に染め上げられていく。
いつの間にか素足になっていた女は、河原の上を滑るように移っていって。
その透き通った爪先を、蛍の川へと沈めていった。
(了)