記憶の欠片
◇
猫がいた。
それはもう名も無き、一匹の小さな雌猫だった。
その猫は孤独だった。親の事ももう覚えていない。
元々は人間に飼われていた。可愛がってもらえた。餌も貰えた。
でも、いつの間にか猫は寒い外に捨てられていた。
誰もいなくなっていた。
今日も猫は孤独に彷徨う。元は明るい栗色だった毛も、今はもうボロボロで泥だらけ。
野生を知らなかった猫には、外の世界はあまりにも過酷だった。食べ物を取る事が出来ない。
足が痛い。身体が痛い。心が痛い。――全てが痛い。
そんな苦痛を、ぼんやりと感じ続けながら歩く。
生きるもの全てには、生きる価値がある。
嘗て人間が、そんな事を語っていた気がする。
生きる資格があるからこそ、意味があるからこそこうして生きているのだと。
だが、その言葉はきっと嘘だった。
ならばなぜ、こうして意味もなく歩き続けている?
まだ、この無価値の命は生きている?
怖いだけだ。いつか永遠の眠りが来る事を考えると堪らなく怖いだけだ。
生きる意味などとうの昔に消えていた。それはただ、生に執着しているだけの亡霊だ。
誰か教えて欲しい。この「自分」とはなんだ。死すら怖がっているこの命は、なぜ生きている?
倒れぬ限り足掻き続ける。ただがむしゃらに気の遠くなる時間を歩きつづける。
――生きたかったから。
河原に着いていた。
今日も、他の猫の食べ物を取ろうとして引っ掻かれたり、捨てられたゴミを漁って人間に追いかけられたり。
でも、またほとんど食べる事は出来なかった。
足がふらつく。景色がぼんやりとしか見えない。
何故生きている。何故怖い。何が怖い。怖いとは、なんだったか。
生きるとは、なんだったか。
気がつけば、猫は石がたくさん転る河原の上に横たわっていた。
限界が、来たのだろう。
分かっていた。もう自分に未来など無い事。こんな風に力尽きて倒れてしまう日がそう遠くは無かった事。
無価値だった。最後まで醜かった。
何もかもが無駄だったではないか。
誰にも知られる事なく、この生は終わろうとしているではないか。
何故――。何故――。何故――。
問いかけは止まない。次第に薄れゆく意識は最後までそれを強いていた。
永遠に出る事はなかった、その答えを探していた。
「……」
永劫の眠りは、だが訪れる事は無かった。
何かの手が、触れている。
何かが、必死になって呼びかけている。
人間だ。
自分を追いかけまわしたり、石を投げてきたりする、人間。
昔自分を捨てた、人間。
「……良かった。まだ、生きてる……」
そこには、一人の人間がいた。
最後の力で抵抗しようとしたが、彼の顔を見て止めてしまう。
とても悲しそうな顔をしていたから。
でもそれでいて、心の底から安堵し、嬉しそうな顔をしていたから。
何故、そんな顔をする? 一体、何に向けて――
「何故」が、初めて違うものに対して向く。答えは明白なのに、それの意味自体を到底理解出来そうもない「何故」。
人間は暫く離れた後に猫用の缶詰を持ってきた。
「ほら、食べていいぞ」
昔もよく食べさせて貰っていた。それを、警戒すら忘れゆっくりと平らげていた。
懐かしい味。優しい味。
今にも消えそうだった命の灯は、また少しだけ強く燃え始める。
「君は、独りなのか?」
人間は、どこか寂しそうな笑みを猫に向ける。
「俺も……独りだ」
顔を上げ人間を見る。人間も、その頭を優しく撫でながら見つめる。
「本当はウチで飼ってあげたいけど……ごめん、それは出来ない。でも、またここに来るよ。必ず」
目の前の人間の目と、その目に映る自身の目と、自身の目に映る人間の目と――
それは合わせ鏡のように、永劫と「同じもの」を映し続けていた。
「どうか俺と友達になって欲しい。君の名前は……そうだな、じゃあ――」
それが、欠け落ちていた「意味」の始まり。
◇
夢を見ていたような気がする。
とても優しくて、嬉しくて、寂しい夢。
でも、それがどんなものだったのかを思い出せない。
頭の中に深い霧がかかっていて、その向こうがほとんど分からない。
違う。もうきっと、そんなものは最初からどこにも無いのだ。
どこかに置き去りにされてしまったのだ。
大切な事のはずなのに、どうして無くなってしまったのだろう。
――何を、失ってしまったのだろう。
ザーザーという音で、俺は目が覚める。雨だろうか。
濡れている天窓からぼやけて見える空はどんよりとしていて暗いが、もう日は昇っているようだ。
(……)
昨日はコンビニから取ってきた弁当を食べて、体育館のシャワーを使って、ココロと他愛のない会話を少しした後ですぐに眠ってしまった。……この秘密基地で。
ここは暑くもなく寒くもなく、(誰もいないから当然だが)外からの騒音もなく、ふかふかの保健室のベッドでぐっすりと眠れた。悔しいが、ここの住み心地は良い。
体力も回復したことだし、今日の「解放」も昨日のように頑張ろう。
そして俺は体を起こそうとしたが……動けない。
(ん……?)
視線を下に向けてぎょっとする。
俺の体にココロがぴったりとしがみついて、ぐーぐーと寝ていた。なんとも幸せそうな顔で。
ちなみに、俺のベッドとココロのいたベッドは一メートルくらいは離れている。こいつはそれを向こうからここまで移動してきたということになる。
(ば、ばかな……一体どんな寝相なんだ……!?)
寝相が悪いで片付く話かも怪しい。まさか夜這いか。わざとか、わざとなのか。
「と、とにかく、こいつをひっぺがさねーと……」
ココロの腕を取り持ち上げようとするが、全く動かない。
「寝ている時まで馬鹿力を発揮してんのかいこの怪力系おてんば娘ぇぇぇ……!!」
ならば第二の手段を取るしかあるまい。
少し悪いが、ココロを起こすという方法だ。
「おいココロ起きろ! 朝だぞ!!」
そう言って手でココロを揺する。ココロはうにゅ……と声を漏らした。
(よし起きるか……?)
そう思って手を離した瞬間……。
「うにゅっ!」
ココロはしがみついていた腕にさらに力を込めた。馬鹿力で。
ぼきぼきぼきッと俺の背骨が鳴った。
「ぺとゅあ!!!?」
「うにゅ……?」
ココロが起きた。
俺から体を離し、ぴょんとベッドから飛び降りると、うーんと背伸びをする。
「よしっ、パワーフルチャージ! おはよう、コウジ! 今日も元気に頑張っていこ……ってどうしたのコウジ!? なんかすでに瀕死に近い状態になってない!?」
「腰が……腰がぁぁぁぁ……」
「腰!? 何!? 誰に腰をやられたの!? はっ。ま、まさかまたジン!? まだ若いコウジの腰ピンポイントで襲っておじいちゃんみたいな言葉を言わせるなんて……おのれ卑劣な!!」
「ち、違う……。ジンなんて甘っちょろいもんじゃない……あれはもう、ラスボスだ……」
「ら、ラスボス!? ほ、本当なの、コウジ!? 黒幕の真の狙いはコウジの腰だったの!?」
「あとの、ことは、頼……ん……」
「え、嘘でしょ……? そんな……コウジ……コウジ? ……こおおおおおおおおおおじいいいいいいいいいいいいッ!!!! ……ん、『コウジちゃん』をやたら伸ばして言うと『コーじいちゃん』に聞こえる? つまりコウジはおじいちゃん。いやいや、この見た目でそんなことは。いやでも……うん?」
ココロの声を聞きながら、俺の意識は闇に沈んでいった。
そんな茶番はさておき。
何とか俺は意識を取り戻し、ココロと共に秘密基地の階段を昇る。出口まで出た時、外は思った以上に凄い雨だということに気が付いた。
ザーザーとおびただしい量の雨が降り、グラウンドは既に水浸しになっている。秘密基地までは浸水してきていないというのは、まさにココロの努力の賜物と言えるだろう。
傘もないので、校舎から取りに行くため走って何とか体育館までたどり着く。中に入れた頃には、二人ともずぶ濡れになっていた。
「うええ……気持ち悪いよー」
隣でココロがぼやく。それはこちらも同じ気分だった。
「シャワーでも浴びて来いよ。更衣室にあるだろ。俺も行くから」
「えっ……コウジ、私と一緒に入りたいの……? そんな大胆な……」
「アホか。俺は男子更衣室のシャワーに行くんだよ。覗くんじゃねえぞ」
「あー。それって普通私が言う言葉なんだよー」
そんな言葉の応酬を繰り広げながら、それぞれの更衣室へ向かう。
この学校の体育館は一年ほど前に建て替えられたばかりだから、設備は新しい。
もちろん更衣室も同じことで、シャワールームもかなり綺麗だった。帰宅部の俺にはあまり縁のない場所であったが。
服を脱ぎ捨て、シャワールームの中に入るとすぐにシャワーを出して雨を洗い流す。体温より少し高いくらいの温度のお湯が肌に心地よい。
元々来ていた服は更衣室にかけて干してある。そのうち乾くだろう。
着替えとしては、ココロとともに購買に置かれていた体操服を拝借してきた。ココロもそれを着るらしい。
その時一つ驚いたのは、白黒だった体操服に触れた瞬間、元の紺色に変化したという事だった。
確かに俺達が着ていた服にも色がある。俺達が触れた衣類に限って、こうやって元の色を取り戻す事が出来るという事なのだろうか。……まあ、色がついたからと言って何かあるというわけでもないのだが。
(しかしこの雨の中、記憶のカケラを探して、それの「解放」もしなくちゃいけないのか……)
今日もまた昨日と似たようなことをやらされるのか。今度は一体どこを這いずり回る事になるのだろう……このどしゃぶりの中。
そう考えると、少しだけ憂鬱になった。
シャワーから出、タオルで体を拭いてから傍らに畳んで置いてある体操服に手をかける。
ココロは多分もう少しかかるだろう。……一応女性なのだから。
せっかく体育館にいるのだし、気分転換に少しくらい体でも動かそうかと思い、更衣室の扉を開けた瞬間――俺の背筋が凍った。
体育館にジンがいる。しかも、五体も。
(な……!?)
突如訪れた絶体絶命の状況。
(なんでいきなり!? しかも、この数はなんだ……!?)
昨日コンビニに現れた一体にすら全く勝てそうにはなかった。ましてや、五体も丸腰で相手に出来るはずもない。
ココロはまだ更衣室から出てこない。
更衣室の窓から逃げようかとも思ったが、昨日のこいつらの身体能力を見る限りすぐに追い付かれてしまうだろう。何より、今隙だらけのココロを一人置いていくわけにもいかない。
そうこう考えているうちにも、五体のジンはいつの間にかこちらまで接近し、影を蠢かせて俺を取り囲みにはいっている。影の中の白い光に一斉に「睨まれ」て、シャワーで少しは温まったはずの俺の体の体温が一気に下がっていくのを感じていた。
手が震える。頭が真っ白になる。
(やられ……)
そして、一体のジンがその手を振り上げ―――
その手に持っていた、バスケットボールを掲げた。
「……は?」
一瞬思考が停止する。俺は今、囲まれているということすら忘れた。
状況がさっぱり掴めない。
なぜ奴らはこのタイミングでバスケットボールなど掲げるのだろう?
あれを俺に投げつける武器にでもするのだろうか?
……なんでバスケットボール?
というかこの近距離なら普通に殴ったほうが早い。
ではなぜ……?
そう考えていると、そのジンはバスケットボールを持つ手をユラユラと揺らしてきた。まるで、こちらにそれを見せつけるように。
(……)
奴らは相変わらず俺を「睨みつけて」いる。
だが、どうにもそれが「バスケやろうぜ」と訴えかけているようにも見えてきてしまった。
(えっと……もしかして、遊びたい……の……?)
……いや、いくらなんでもそれはないだろう。
こいつらは昨日、俺を襲った奴と同じような怪物だ。
見た目も禍々しい。黒い影を不気味に蠢かせ、まるで死神のようだ。
そんなような奴らに限って、ただ遊びたいだなんて事があるはずもないのだ。
そんなような奴らに限って――なんか今俺の周りで影をユラユラ揺らして、変な踊りまで始めるような馬鹿共であるはずがないのだ……!!
その時女子更衣室の扉が、バンと音を立てて勢いよく開かれた。
「大丈夫コウジ!? 今助けっ……えぇ……?」
カッコよく体操服姿で登場したココロは、だがその場で固まる。
無理もなかろう。
扉を開けて出てきてみれば、影どもが俺の周りを回りながらユラユラと(一体はボールを持って)珍妙なダンスを繰り広げているという光景が目に飛び込んできては、誰しもがそんな反応をするしかないのだろう。
「何、やってんの……?」
そして彼女はこれまたごもっともな疑問を投げかけてくる。
楽しそうに踊る五体のジンと、その真ん中で呆然と立ち尽くす俺。
その俺は、泣きそうな顔で「分からん」という意思表示のためにふるふると首を横に振るしかなかった。