ありのままの自分
◇
ずっと、涙を零していた。
悲しくて。辛くて。
「もう、五十鈴文歌。君はまだ泣いているの?」
もう一人の私が、そう問いかけてくる。
ずっと憧れていた、理想の私。
どんなに願っても、決してなれなかった私。
「どうして、『私』が助かるの?」
悔しい。苦しい。
「『私』じゃなくていいじゃない。あの人の隣にいてあげるのは、あなたでいいじゃない……!」
もう一人の私は、呆れたようにため息をついた。
「あのね、私は所詮君の理想が生んだ偶像でしかないの。現実にはどうあっても存在しない、君の空想の中にしかいなかったような、そんな曖昧な存在。……あそこにいたのは、最初から君一人なんだよ」
「……ッ! だったら! 『あなた』が存在しないのなら、私がどうやっても『あなた』にはなれないのなら! 私なんて、尚更いなければいい……!」
私では、きっと無理だ。
救えない。
救われない。
高山君に、あんな結末を強いてしまった。
最後まで、彼を救う事など出来なかった。
こんな私に、本当にいる価値などあるのだろうか?
……消えてしまいたい、このまま。
「『私』なんていなくていいの! 弱くて誰も救えない『私』に何の意味もないの! こんな『私』なんて、もういらないよ……!」
止まらない。
自分を傷付けるだけのその言葉は、口から溢れ続ける。
「救えないのなら……弱さなんていらないよ……。強く……なりたいよ……!」
すると、もう一人の私は微かに笑った。
「別に、弱くたっていいじゃない。強さや正しさが全ていいだなんて、私は思わないけれどな」
「……え?」
「君の言う『強い私』は考えたの。弱さが、必ずしも間違いでは無いって。だって、強さでも全ては救えない。強さだって、時には間違える事もある」
そんな言葉を私は信じる事が出来ず、思わず強く言い返す。
「何で……そんな事が……!」
「ねえ。君から見て、この私はどう写ったかな? 全てを上手くこなして、君も、『あの人』を一切傷付ける事の無かった、そんな完璧な存在だったかな?」
だが彼女が即座に被せてきたその言葉に、私は目を見開き、黙ってしまう。
彼女も、傷付いていた。
たくさん迷って、たくさん悲しんで。
彼女は強い、とても強かった。これが私の理想だったのだから。
――でも、それだけ強くても、確かに救えなかったものもあった。
「……じゃあ、最初から答えなんてないのかな……? ヒーローなんてものはまやかしで……人は、誰も人を救えないのかな……?」
俯いてしまった私に、だが彼女は首を振って答える。
「ううん。違うよ、その逆。確かにどんな人でも、人の全ては救えない。……でもね、誰だってその誰かの、どこかは救ってあげられるんだよ」
顔を上げた私に対し、彼女は微笑んで言葉を続けた。
「君だってそう。……本当に、『理想の私』だけがあの人の救いになっていた? あの人は、君には楽しそうな笑顔を向けてはくれなかった?」
「……!」
「ねえ、気付いて。誰かにすべての道を示してあげる事だけが救いじゃないの。その誰かの傍にいて、一緒に悩んで、一緒に苦しんで、一緒に考えてあげる事だって助けになるんだよ」
また、私が笑う。ただ優しく。
「君が高山君を支えてあげるの。導いてあげられなくてもいい、二人共分からないのなら、一緒に迷ってあげて。二人で、ゆっくり答えを出せばいいんだから。そうやって、他の誰にも変わる事の出来ない――なっちゃいけないただ一人の君が、ずっと高山君の隣にいてあげて」
その私は、この私の肩に両手を置き、おでこを合わせてくる。
――それは、一つの私へと繋がるかのように。
「君でいいんだよ。そのままの君で」
「だめ……だよ……。『私』じゃ……だめなんだよ……」
しかしその「私」を直視出来なくて、私は下を向いてしまった。
「だって――お父さんとお母さんを、私は救えなかった……! 守るって、救うって、私はそう言ったのに。大切な人を救えなかった私を、私は許せないの……!」
「……そうだね、五十鈴文歌。それが君の狂気とすら思える『理想』への執着の原点。幼い頃の悲しい経験が生み出し、ずっと君を縛り付けていた過去の鎖」
「もう一人の私」も、悲しそうな顔をしていた。
「……」
思わず自分の身体を抱き、縮こまる。
怖い。大事な人達を失ってしまう事が本当に怖い。
私の両親は死んでしまった。私が守りたいと思っていたはずの二人は、私を置いて先に逝ってしまった。
その時の悲しみが、深い後悔へと変わってずっとずっと私の中に残っている。
私が強ければ、私が二人を救えれば、二人が死ぬ事は無かったのではないかと。
いつか、亡霊を見た。
私を憎む声を聞いた、私を苛む声を聞いた。
でも本当は分かっていた。それは、両親ではないのだと。
それは、私だった。
あの日、二人を見送った日に、二人を救うと決めていた幼い私が殺してしまった、私の心そのものだった。
――ねえ、どうして救えなかったの?――
――いやだ、消してしまいたくない――
幼心で決意し、だがいつまでも果たされる事が無くなってしまったその願いは、いつしか呪いに変わってしまった。
私が「私」のままで幸せになる事を、きっと二人は許してはくれない。
そんな、強迫観念に変わってしまった。
だから、私は強くならなければならない。
強くならなければ、きっと二人は私を許してくれないのだから。……私が、私を許せないのだから。
でなければ私は、いつまでも私を嫌いなままだ。
「無理だよ、怖いよ……『私』のままでいる事が。この『私』が、幸せになる事を……私は望めはしないよ……!」
「……君は本当に、馬鹿だ」
震えて俯く私に、そうもう一人の私は呟いていた。
「君はいつまで過去に縛られているの? いつまで君は、両親の亡骸にすがり付いた日から進めないでいるの? ――それが、本当に二人が望んだ事なの?」
「……そんなの、分かるはずがない。だってもう二人はいない。二人がどう思っているのかなんて、今の私には……」
「違う。君は、とっくの昔に――両親が生きていた頃に、もう『思い』を貰っていたはずだよ。辛いものとなってしまった記憶を、ただ君の都合の悪いように書き換えないで。……ちゃんと、全部思い出してあげて。その記憶だって、君にとっては本物なんだから」
「……え?」
彼女の言葉と共に、突如記憶が蘇ってきた。
――自分を責めるあまりに、ずっと怨嗟のように断片的に回り続けていたはずの、両親との日々の記憶の全てが。
私は、ヒーローに憧れていた。
純粋にかっこいいと思ったからだというのもある。
でも本当は――そんな姿を見て喜んでくれる両親を、私が見る事がまた好きだったから。
私も、幸せだったから。
――ねえ、文歌――
昼下がりの庭、陽だまりの中。お母さんの膝の上でうとうとする幼い私に、お母さんは優しく語りかけた。
――お母さんも、お父さんも、今幸せなの――
――どうして? 私、まだヒーローにはなれてないよ? まだ、二人を救えていないよ?――
――ふふっそうね。でもね文歌、あなたに救ってもらえなくても私達は幸せになれるのよ――
――私は何も出来なくても、二人は幸せ? なんで?――
お父さんも、私の頭を撫でてくれた。
――文歌、今お前がこうして幸せにしてくれているからだよ。その姿を見るだけでも、私達は救われているんだ――
――私を見るだけで……救われる……? よく、分からない……――
――今はまだ分からなくてもいい。でもな文歌。私達の一番の願い、それはお前が幸せになってくれる事だよ――
――ねえ、文歌……私達の天使。あなたを、ずっと愛しているわ――
お父さんとお母さんが、それぞれ私の手を握ってくれる。
――だからお願いね、文歌。どうか、幸せになってね――
――例え私達がそばにいてやれなくなっても、お前だけはいつまでも、ずっとずっと笑って――
「……あ……」
それは、私が消してしまった本当の約束だった。
最後に二人が私に残してくれていたはずの、思いの真実だった。
愕然とする私に、またもう一人の私は語りかける。
「ね、分かったでしょう? 二人は君を憎んでなんかいない。二人が君に与えたのは『使命』という鎖なんかじゃない。それはただただ真っ当な――『君』への深い愛情だったんだよ」
――ああ、そうだった。それは確かに、愛だった。
どうして、忘れていたのだろう。
この「私」は、確かに愛され、そして願われていた。
「……あ……ああ……」
もう、言葉にもならなかった。
ただ私の中で長年ずっと冷たく固まっていた何かが、ようやく温かく溶け出していくような感覚だけがあって――
「わあああああああああああああああああああああああああああ!!!! ああああああああああああああああああああっ!!!!」
お父さんとお母さんがこちらに向けて微笑んでくれている。それも記憶なのかあるいは今見ている幻なのか、そんな光景が浮かび上がってきた。
二人に対し、私もようやく微笑み返す。
――私も、大好きだったよ。お父さん、お母さん。
ずっと、苦しかった。悲しかった。
あなた達は、「私」じゃない私を望んでいたのだと思っていた。
でも、あなた達はずっとずっと「私」を見ていてくれたんだね。
ようやくそれが分かった。
――さようなら。本当にありがとう、この私を愛してくれて。
これで私は、やっと……。
もう一人の私は、私の目の前からいなくなっていた。
微笑みと。もう大丈夫、そんな言葉を残して。




