君のいない世界
◇
――ありがとう。あなたが大好きでした――
――さようなら。大切な人――
――どうか私の分まで、これからも生きて――
残された言葉が、意識の水面で静かに波紋を広げる。
思いが、心の底へゆっくりと沈み込む。
その最後に、その猫は一つの世界を造ってまで俺達といる事を願ってくれた。
その終わりを、ただ悲しいだけではない、尊いものであって欲しいと足掻いて。
そして全てが終わった時、猫はたくさんの気持ちを俺に伝えてくれた。
ありがとうと、言ってくれた。
大好きだと、言ってくれた。
俺も、大好きだった。君と過ごした時間は、本当に幸せだった。
君から、俺はたくさんのものを貰った。
君のおかげで、俺は救われた。
――生きて。
なあ、ココロ。君は、なんと残酷で――優しい願いを託してくれたのだろう。
一番初めに感じた感覚は、自分の頬を伝う涙の雫だ。
頭はまだろくに働いてはいなかったのに、まだ目すらも開いていなかったのに、何故かそれがはっきりと分かった。
ただただ悲しくて、そして夢から覚めてしまうのが怖くて、不安で。
辛いのなら、嫌なのなら、俺はこの目を覚まさなくても良いのではないのだろうかとも思う。
でも……。
――――――――。
何か、聞こえたような気がした。
優しく、温かく、包み込むかのような。
その何かに導かれ――俺は、黒い海から浮かび上がるかのようにゆっくりと意識を取り戻していった。
「……」
白い天井。麻色のカーテン。
そして横の窓から見える――青い空。
涙を零したまま、俺はぼんやりとその「色」を見つめる。
その視界の端で、若い看護婦が驚いたようにこちらを見ていた。
◇
「良かった……目覚めたんだね」
すぐに駆けつけてきた、ベッド前に立つ白衣の初老の男性が、安堵したような表情を見せた。
「……ここは……」
「病院だよ。君達は火事の中救助されて、ここまで運ばれたきたんだ」
その男性は、自分を医者だと名乗った。彼が火事で負傷した俺達の治療を行ってくれていたのだと。
上体を起こして更に広がった視界で、辺りを見渡す。
黄色、茶色、白、青、緑。
そこは色のある、元の世界だった。
あの灰色の世界から帰ってきた、現実の――
「……ッ!」
弾かれたように目の前の男性に詰め寄ろうとして、しかしすぐにベッドの上で崩れ落ちてしまう。
その時初めて、自分の身体の至る所に包帯が巻かれている事に気が付く。
慌てた様子を見せる男性に、だが俺は尋ねずにはいられない。
「ココロは、どうした……!? あの……猫は……!」
男性はしばらく気まずそうに顔を逸らした後に、答えた。
「……亡くなられたよ」
「……」
身体が一気に重くなったかのようだ。
取り戻したはずのその意識が、再び揺らいでいる。
「猫……ココロちゃんと言ったか。あの子はね、君達を助けたんだよ」
そう、彼は切り出した。
「消防隊が君達の元に駆けつけた時には、その子は炎に焦がされながらも君達の上に倒れ込んで来ていたタンスを支えていたそうだ。そして君達が救助された途端に、安心したかのように静かに息を引き取ったと……」
沈んだ声でそう語る。言うのも辛いという風に。
「助けてあげられなかったのはとても悲しい。だが、あの子は君達を助けるために命を落とした。とても、猫が出来る事とは思えなかったよ。……あの子は、君の飼い猫なのかい……?」
「……違い……ます……」
押し寄せる感情を堪え切れないまま発した言葉は、酷く震えていた。
一人と一匹は、まるでお互い足りないものを求め合うかのように出会った。
短い間だったが、いつも一緒に遊んだ。
隣にいて、そばにいて、ずっと俺の心を支えてくれた。
ココロは――
「――友達、だったんです。ずっと一緒にいたかった。失いたくなんて無かった。そんな、大事な……大切な……かけがえの……無い……ッ!」
シーツを掴む手に、力を込める。悲しさも、悔しさも、色んな感情をごちゃまぜにして。
「……そうか」
男性も小さい声でそう呟き、俯いてしまう。
「……俺は、どのくらい眠っていたんですか……?」
「……一週間だ」
一週間。
それは丁度、俺が「あの世界」にいた――
「その猫が守ってくれたとはいえ、君達は重体だった。身体のあちこちで火傷、煙を吸った事による一酸化炭素中毒、気道熱傷……手術は終えたが、酸素が供給されなかった脳へのダメージも懸念された。――正直、本当にこの一週間君達はいつ命を落としてもおかしくはない状態だったんだ」
でも、と医者は少しだけ声を優しくして続ける。
「君達は一週間生き延びてくれた。高山君、君に至っては今日こうして目を覚ましてくれたんだ。よくぞあの火事の中を……奇跡のようだ。……いや」
そこで少しだけ思案するような素振りを見せてから、彼はこう語った。
「現代医療に携わる者としてこんな事を言ってはいけないのだろうが――まるで君達は、この一週間『見えない何か』に見守られ、命を繋いでもらっていたように私は思えたよ」
「……ッ!」
シーツを手繰り寄せる。
その上に、数滴の雫が零れる。
泣いちゃだめだと言われたが、こんなの無理だ。
君から貰った贈り物は、あまりにも大きすぎる。
そのまま涙に沈んでしまいそうになった俺だったが、一つ大切な事に気付いて顔を上げた。
――もう一人の私を、どうかお願い――
まだ、約束は残っている。
「先生……五十鈴は……? 五十鈴は……どうしてるんですか……!?」
すると、また医者は顔を曇らせてしまう。
言いたくは無かった、という風に。
「五十鈴君は……」
その様子を見て、俺の中で嫌な何かがじわじわと這いあがってくる。
その時、タイミングを図ったかのように慌てた顔で看護婦が飛び出してきた。
「先生! 五十鈴文歌さんの容態が……!」
どうしても付いていくと言って聞かなかった俺を、医者――先生は車椅子に乗せて看護婦に運ばせてくれた。
五十鈴の状況もその時に教えてくれた。
彼女の負傷は、俺よりもずっと深刻なのだったと言う。
長い時間高温に晒されていた事。何故か頭部を強く打ち付けているという事。
手術も治療も行っているのだが、容態が安定する兆しは一向に見えないのだと。
この一週間何とか命は繋いでいるものの、彼女は今、目を覚ますどころかその生死すらも危ういのだと。
ピッ…………ピッ…………。
集中治療室のベッドに、人工呼吸器と点滴が取り付けられた彼女が横たわっている。その目は硬く閉じられ、開く気配は無い。
繋がれた心電図からは、感覚の長い今にも消えてしまいそうな弱々しい電子音が聞こえる。
「……これが、峠だね。高山君、覚悟はしておいた方が良いかもしれない」
先生は、重々しくそう告げた。
「やめて……くれよ……」
車椅子から落ちるように降り、五十鈴のベットの端に縋り付く。
俺は、また終わりを見ている。
また、大切なものを失くそうとしている。
「お前まで……お前までいなくなってしまうのか……五十鈴……。また……俺は失うのか……!」
怖かった。どうしようもない現実に堪らなく怯えるしかなかった。
ああ、やっぱり目なんか覚まさなければ良かったんだ。
そうすれば、こんなにも悲しい現実を見ずに済んだのに。
終わりなんて、来なかったのに。
だったらもうこのまま、俺も彼女と共に……。
その時、ベットに縋り付く俺の手を、何かが優しく包み込んでくれたような気がした。
「……!」
何も見えない。でも、確かにその温もりを感じる。
――――――――。
大丈夫だよ。諦めないで。
そう言ってくれているような気がした。
顔も何も見えないのに、その子は微笑んで俺に手を添え、励ましてくれているのだと思った。
――ねえ。忘れないで。始めたからこそ、今があるんだよ――
――ねえ。思い出して。誰かへの思いは、決して幻なんかじゃない――
――ねえ。あなたは、その終わりに何を望むの?――
……そうだった。諦めちゃだめだ。
まだそう終わると決まったわけではない。こんな終わりを、俺は望んでなんかいない。
今度こそ、俺は最後まで足掻いてみせると決めたのだから。
――ありがとう、ココロ。
「……ッ!」
五十鈴の手を取り、俺の両手で祈るように包み込む。
「ちょっと……!?」
看護師がそれを見て非難の声を上げかけるが、先生はそれを制止した。
「我々は手を尽くしたんだ。……後は、彼に託してみようじゃないか」
「先生……」
小さな希望に縋るように祈る。少しでも、この思いが彼女に届きますようにと。
――お願いだ、五十鈴。帰ってきてくれ。お前は一人なんかじゃない。俺がいる。例えお前自身が望んでいなかったとしても、俺だけは、他でもないお前の帰りを待っている。
誰も愛せないと思っていた。誰からも愛されないと思っていた。
誰かとの繋がりなんていらない。
どうせ皆同じで、皆同じようにいなくなっていくのだと。
そんなもの、見せかけの嘘でしかないのだと。
でも、そんな俺にでもまた誰かと共にいる時間を嬉しく思えた。
ココロ。
マイ。
五十鈴。
ちゃんとその誰かに踏み込み、かけがえの無い「誰か」を好きになれたんだ。
――俺は、「五十鈴」を好きになったんだよ。お前は何者でなくてもいいんだ。そのままのお前でいいんだ。
理想に縋りたい、と彼女は願っていた。
自分では何も出来ないから、何でも出来るような、そんな違う自分に憧れていたと。
でも、違うんだ、五十鈴。
俺は、「お前」がいい。
お前が好きなんだ。
もしもお前が自分を嫌になってしまったのなら、なりたい自分になれなくて悲しんでいるのなら。
俺が、お前という存在を全力で肯定してやる。お前が自分の事を好きになれるまで、俺がお前を「好き」だと伝え続けよう。
俺も、もう逃げないから。俺も、頑張って俺を好きになってみせるから。
だから――
「――お願いだ、生きろ。生きてくれ……五十鈴……っ!!」
思いが、生まれた。
それは、誰かを愛する気持ち。これからも共にいたいと、生きていて欲しいと。
それは、終末を迎えて尚も折れる事のない強い願い。
思えばいつだってそうだ。
心とはよく分からない。
誰かへの思いが、不可能とすら思われた事を実現してみせた。
一途な信念が、歴史を変えるような信じられない何かを残してみせた。
時折それは、生命の機構からすらも外れた事象を起こしてみせたのだ。
だがそうやって、運命からすらも零れ落ちて形を成したものを――きっと俺達は、「奇跡」と呼ぶのだろう。
ピッ……ピッ……ピッ……ピッ……。
心電図の音が、速さを取り戻していた。
「……」
呆然とした後に、急に色々なものが込み上げてくる。
手が、震える。目が、熱くなる。
後ろで先生が看護婦達に次々と指示を出し、ばたばたと動き回る音が聞こえてきた。
だが俺は、すぐには動けない程にそれらが胸の内から湧き上がり続けて――
無駄なのではないかと、意味など無いのではないかと考えると本当に怖かった。
このまま逃げてしまった方が楽なのではないかと何度も考えた。
でも、最後までこうやって彼女のそばにいて良かった。
諦めなくて本当に良かった。
俺は、ずっと五十鈴の手を握りしめ続ける。
もう二度と手放したりはしないようにと。
――守れたよ。今度こそ。
そう、心の中で呟いていた。




