次へ捧ぐ贈り物
◇
ココロは、何回全力投球をしただろうか?
途中からそれを数える事を止めていた。だが、とにかくあれからもココロはたくさん投げた。何度もボール籠からボールをきらしては、また「影」で籠いっぱいボールを生成していた程だ。
だが俺はボールにかすりもしない。毎回、バットはただ虚しく空気を切るばかりだ。
でもバットを振る速度は、着実に速くなっている事は感じていた。
だんだんとココロの豪速球を見られるようになってきているのだ。それに伴ってその速度からの威圧にも抵抗が付いてきた。
まだ打つ事は出来ない。まだそのボールを見切ってはいない。これからも、俺は何球も空振りで終わってしまう事となるのだろう。
だが体力勝負ではない。休憩も幾度も取らせてもらっている。
そんな中、俺は着実にボールの速度、そしてボールが俺の横を通り過ぎるその刹那のタイミングを理解し始めている。
だから、このままいけばいずれは……。
そんな風に考えていた時、それは起こった。
「なっ……!」
「……あ……?」
俺は驚愕の表情で。ココロは呆然として。
その、ココロの手から投げられたゆっくりと飛ぶボールを見ていた。
まるで子供が投げたボールのようだった。
それは、気を引き締めていなくとも余裕で見える。いつバットを、どこに振れば打てるのかも一瞬で頭が把握する。
まさに絶好球。
それを――俺は見送った。
「……どういうつもりだ」
川に届く事すらなく、地面に落ちて俺の後ろを転がるボール。それを見ながら、俺は苛立ちの声を上げていた。
振り向くと、ココロはさっきと同じ呆然とした顔で自分の手を見つめている。その顔は虚ろで、何の反応も示していなくて。
それを俺は、彼女が俺の言葉を聞いていないのではないかと思えて、ますます声を荒げてしまう。
「お前、まさかこの後に及んで情けでもかけているつもりか? 弱い球を打たせて、この『解放』を終わらせてしまおうと? ……ふざけるな、そんなんで俺が満足するわけが無いだろ。大体、こんな球を打たせた所で設定した『条件』は――」
そこまで言った時、俺は思わず言葉を止めてしまった。
ココロが、呆然と自分の手を見つめたまま――涙を流していたからだ。
「……ココロ?」
名前を呼んだ瞬間、彼女ハッと我に返ったような顔になり、慌ててその涙を拭う。
「ごめんコウジ……! ちょっとぼうっとしちゃってた……」
「ど、どうしたんだよ、どこか辛いのか? ひょっとして、俺はお前に無理させていたのか? だからあんな球になってしまったとか。だったらすまん……! 俺は……なんて事を言って……」
さっきとは一転、俺はココロが初めて見せた涙に慌てふためく。自分の事ばかりで、ココロの事までよく見ていなかった自分に罪悪感を覚えながら。
「ち、違うの……!」
だが、ココロはそれを否定する。
「ごめんね。本当に、何でもないから。大丈夫だから……」
「……いや、でも。お前……」
彼女はそう言っているが、しかし明らかに様子がおかしい。
現に拭ったにも関わらず、まだ涙を流しているのだ。
「もう少しで、大丈夫になれるから……! だから……」
「……」
何故彼女が涙を零しているのかは分からない。やはり俺が泣かせてしまったのか、それとももっと別の理由があるのか。
それでも、俺の足は動いていた。
泣き止めないココロの前まで近づくと、そっと彼女を抱きしめる。
「……ッ!?」
華奢な身体が一瞬揺れるが、構う事なくそのまま俺は彼女の頭を撫で始めた。
その栗色の髪を、優しく、温もりで包み込むかのように。
「なに……してるの、コウジ」
「……君は、いままでもよく寂しそうにしていた。あの河原で会える時間も限られていたし、家にも連れていけなかったから、そこに置き去りにしていたからな。でも、いつも会うたびにこうやって抱きしめて撫でていたら落ち着いてくれただろ?」
彼女が今何を考えているのかは分からない。その涙の理由も。
でも何故かなんて聞かない。話したいと思ったら話してくれていい。
ただ……。
「俺は君に悲しんで欲しくない。だから、俺がいつだってこうしてやる。今までも、そしてこれからも。君が猫だろうが人だろうが、それは変わらない」
「……」
彼女は動かない。ただ、小さく何かを呟いた。
ありがとうと、そう言ったような気がする。
そしてしばらくしてから、ココロは俺から離れた。
「……ばか。コウジの女たらし。真面目そうに見えて、そうやってフミカも、マイもオトしちゃったんだよね」
「お前こそ何を言ってんだよ」
――その顔に、もうこれ以上の涙はない。
「……もう、大丈夫なのか?」
「……うん。今度こそもう大丈夫、ちゃんと投げられるよ」
ちょっとだけ赤い目で、ココロは微笑んだ。
「再開、しようか。バッティング……!」
ココロはそれからも投げ続けた。彼女の全力投球が途切れる事は、もうなかった。
だが俺は、それをまだ打つ事は出来ていない。
「……はぁ……はぁ……」
休憩もしたとはいえ、流石に疲れてきたかもしれない。
その場でバットと膝をつく。その様子をココロは心配そうに見ていた。
「大丈夫、コウジ?」
「ああ、まだいける。今度こそ打ってやるさ。だからココロ、次を……」
「……ねえ、コウジ。どうして、そこまでして私の球を打とうとしているの?」
「……」
何とも今更な質問を、彼女はしてくる。
「……理由なんて、そんな大層なものは無いとも」
バットで身体を支えながら、俺は再び立ち上がった。
「楽しいから、ただそれだけだよ。――今、俺は堪らなく楽しいんだ」
再び持ち上げたバットの先は……微かに震えていた。
「楽しみたいんだよ、俺は。今この瞬間を、この『最後』を、全力で楽しんでいたいんだ」
「……コウジ」
ココロは、心配そうに俺を見ていた。それもそうだろう。
俺の顔はその言葉とは裏腹に、きっととても悲しそうな顔をしてしまっているかもしれないのだから。
「……畜生。やっぱり、先は怖いよ。これから俺には何が待ち受けているのだろう。俺は、この『終わり』の先でどうやって生きていけばいいのだろう。それが、今の俺には何も分からないんだ」
……分からない。何も。
明日の俺はどうするのだろう? 次の俺はどうするのだろう?
それが分からないから、今の俺はただ不安で、怖くて。
「また、俺は取り戻す事が出来るのかな? また、俺は五十鈴と一緒にいられるのかな? まだ……俺はココロの友達でいられるのかな……?」
未来は見る事が出来ない。この先、どうなるのかなんて誰にも分からない。それは当たり前の事だ。
その当たり前の事が、今の俺にはどうしようもなく怖いのだ。
「ああ、分かんないよ。俺には、何も分からないよ。そうやって見えない未来に、やっぱり俺は怯える事しか出来ないんだ……!」
――でも、地面に付きかけたバットの先を、持ち上げて再びココロへと向ける。
不安で押しつぶされそうだけれど、消えてしまいたくなりそうだけれど。
それでも、俺は明日を見るって「ここ」で決めた。
だってどうしようも無く、俺は進むしかないのだから。
きっとこの先は――未来は明るい、俺にはそれを信じる事しか出来ないのだから。
「だからせめて、俺は今を楽しんでやる。それが、少しでもこれからの未来へと立ち向かえる勇気に変わってくれるのなら。――ただ、それだけのために俺はこのバットを振るう。それが明日からの記憶となる事、『思い出』となる事、ただ、それだけを信じる。今も、そして――これからも……!」
バットをゆっくりと後ろへと持っていき、構える。その目は、真っ直ぐにココロを見据える。
「……」
彼女は――微笑んでいた。
少しだけ悲しそうな顔をしながらも、それでも笑ってくれていた。
「……コウジ。もはや、この今がキミに残してくれるものは『思い出』だけじゃない。キミは覚悟を決めた。未来に希望を持った。明日に怯えていたキミは、明日を見ようと変わったんだ。きっとそれは――『証』だよ」
彼女はボールを投げる。
今までで一番速いと感じた。そこには、彼女の全てが込められているように思えた。
――でも見える。その球も、バットを振るタイミングも、全て。
「うおおおおおおおおおっ!!」
振る。全身全霊のその球に対して、俺も全身全霊で。
彼女の思いに、俺の思いに答えるかのように。
――そうして、それが最後の球となった。
◇
猫の目の前で、家が燃えていた。
そこは、大切な少女が住んでいた家。
そして――たった今大切な少年が飛び込んでいった家。
その光景の行きつく先は、絶望的な終焉。
……終わってしまう。
この燃え盛る炎に、少年も、少女も、その命がかき消されてしまう。
もう、彼らとの夢が、時間が、物語が終わってしまう。二人に会えなくなる。
猫は、まだ何も返せていないのに。
ここから先に未来など無いのだ。
二人は消えて、猫だけが残って。
だが猫も、もう彼ら無しでは生きてはいけない。大切な人達を失った後のこれからなど、猫にはもう見る事が出来ない。
だからその後には、もう何も残りはしない。
少年も、少女も、猫も。見る先はもう「無」だ。
これは、そんな全ての「終わり」。
……ああ、きっとそうしたら。
本当に、この世界は滅んでしまうのだろう。
――嫌だ。
猫の足は、動いていた。
その四肢は、真っ直ぐにその燃え盛る家へと向かっていた。
――生きていて欲しい。大好きだから。
火を飛び越え、潜り抜けていく。
熱くて、苦しくて。
自分もこの炎で焦がされていく感覚、それを感じる。
……でも、止まりはしない。
――あなた達は私を救ってくれた。だったら、今度は私があなた達を救ってみせる。
見つけた。
二人は炎の中で横たわっている。
その頭の上に、今まさに燃えるタンスが倒れ込もうとしていた。
次の瞬間には終わる命。滅ぶ世界。
そこへ、猫は救おうと前へ進む。
――今こそ捧ごう。あなた達へ贈ろう。この私からの――精一杯の贈り物を。
その直前の瞬間、その間へと、猫は飛び込んで――
◇
「どうかその世界を滅ぼす方法を、教えて欲しい」
私は淡く微笑みながら、「神様」に向けてそう言っていた。
しばらくの沈黙の後、神様は答える。
『貴女の望む方法であれば、どのような形にでも。貴女はその世界の神様なのですから、そのような事も可能です。維持を怠ったり、滅多にはありませんが何らかのイレギュラー要因で情報が枯渇した時にも、その世界は消滅を迎えますが。それほど、不安定な世界でもあります』
「……そう。そんな消滅はいやだな。一週間後だったっけ? 二人が戻られなくなっちゃうの。なら、ぎりぎり一週間後に、私は私の意志でその世界を滅ぼそう」
『よろしいのですか?』
神様の声に戸惑いはない。そもそも感情があるのかすら分からない。だが、多少なりとも以外ではあったであろう私のその答えに、そう聞き返していた。
「うん。ごめんなさい、あなたの意図からは外れてしまっているのだろうと思う。……でもね、その世界はだめだと思ったの。そこは確かに失うものは何もない。でも、得られるものも――未来も永劫にない」
『しかし、貴女達は永劫の安息を得られます。死に怯える生命にとって、それ以上の幸せはないのではないのでしょうか?』
「ううん。違うよ、神様。死は確かに怖い。……でもね、私達にはいつか来る死に怯えている暇なんてない。そんな事、最期を悟った時にくらいしか感じられない。だってみんな、必死に生きて未来に何かを残そうとしているから」
首を振って、神様のそれも確かな正論を、だが私は否定してみせる。
「私達生命は、永遠を生きられるほど気長な精神を持ち合わせてはいないの。みんなせっかちで、生き急いでいる。だって早く、誰かに認めて欲しいから。――早く、何かを次の誰かに託したいから」
生きていれば、誰かから愛を貰って成長する。
生きていれば、誰か愛する者を見つけて子を残す。
生きていれば、いつかどこかの誰かから希望を貰い、生きる理由を見出す。
生きていれば、自分の残した言葉が、思いが、どこかの誰かに希望を与える。
そうやって生命は生きて何かを残し、次へと繋げてきた。
「永遠を過ごせたら、どれだけ素晴らしいのだろうとも私達は考えるよ。でもね、ずっと自分達にしか巡らずに何も残せないのは、とても幸福だけれども……とても寂しいものだと私は思ってしまったの。そんなの、生命とは言えない、生きているとは呼べない」
結局は私の考えは一つの生命のもので。それが全てのものにとってそうであるのかだなんて、分からない。だから私は達観した神などではなく、今この命が思う事を口にする。
「――だから私は、その世界を否定する。私は、神様になんてならなくてもいい」
『本当に、それでよろしいのですか?』
神様は、もう一度念を押すようにそう聞いてくる。
『そうしたらもう貴女は、二度と彼らには会えなくなるのですよ?』
「……」
ああ、そうなのだろう。
この身体を借り受けている私の魂は、もうすでに元の世界には存在しない。
これからいくコウジやフミカと再会出来る世界自体が、そもそも奇跡なのだろう。
その世界が終わってしまえば、もう寄る辺を失った私そのものが消える。
それでも……。
「……うん、いいんだ。例えそこが私の望んだ世界でも、二人もそれを望んでいてくれたとしても、これからも生きていく二人を私は連れていけない。二人はこれからも生きて、色々な人に出会い、色々な事を感じて、いつか今の彼らですら知らないような何かを残していく。そんな未来を、私が断っちゃいけないの」
――コウジ、フミカ。
私の大切な、大好きな大好きなお友達。
だからこそ、私はあなた達に未来を託します。
頬に、何かが伝う。
それが人間の流す涙なのだと、初めて知った。
心はそんな正直な感情を抱いていても、私は笑ってみせる。
「私は、もういいのです。死にゆくはずだった私は、最後にとても素敵なものを彼らから貰ったから。だからもう、それで充分なのです」
そんな涙顔でも、私は決意も、葛藤も、覚悟も、あらゆる感情をごちゃ混ぜにして言い放ってみせる。
「だからこの奇跡の一週間は、彼らに『希望』を残すための最後の時間にする。この命が成し得てみせる、最後の使命にする。――これが、私の生き方だよ。わたしという命の答えだよ、神様」
またしばらくの沈黙の後に、神様は言った。
『私には、貴女のその決断に否定も、肯定の言葉も持ち合わせてはいません。私は生命ではないのですから。ですが、それでもあえてこう言わせてもらいます。どうしてこうも、生き物とは醜く、儚く、――美しいのでしょう』
その言葉の後に、世界は構築を始めた。
情報は溢れ、あらゆるものを生み出す。
時が生まれる。
空が生まれる。
街が生まれる。
思いが、生まれる。
『さあ、行きなさいココロ。それもまた貴女という生命の選択です。その一週間も、長い長い時を刻み続けてきた命の歴史の一部です。貴女が永遠ではなく、そのかけがえのない時で残してみせるものを、どうか私に見せてください』
背中を押されるように、涙を拭った私は前を向いてその世界への一歩を踏み出す。
――始まる。それは終末への物語。
私の選んでみせた、次への希望を生み出す物語。
その冒頭は、きっとこう始めてみよう。
――世界は滅んでしまいました、と。
◇
甲高い音が、この世界に響いていた。
それはまるで波紋のように広がって、一瞬だけ止まっていた時間を溶かしているかのように思える。
「……」
腕には、痺れるような確かな感覚が。
その視線の先には――彼方へと飛んでいくボールが。
とうとう、俺は打ち返せた。
記憶のカケラが降りてくる。
キラキラと虹色の光を瞬かせながら、それはこの世界を祝福しているかのように。
「……」
ココロは、振り返ってじっとそれを見ていた。栗色の髪と、白いロングワンピースをなびかせて。
雪のように降り注ぐ、虹色の光の粒を浴びながら。
少しずつ白ずみ始めた世界と共に、その輪郭をぼやけさせていきながら。
その姿は幻想的で、あまりにも綺麗で、美しくて。
「おめでとう、コウジ」
こちらを見て、彼女はそう言った。
――笑っている。
どこまでも、本当に嬉しそうに。
「終わった世界」に取り残された、不思議な少女。その使命を全うしたその子は。
――陽だまりのように明るく、ただ笑っていた。
「これで世界は――救われたよ」
その言葉と共に。
少女は、静かにその場で倒れた。




