最後の全力
◇
私のどうしようもない思いは、一つの世界を造っていた。
孤独と痛みに苛まれながら、それでも歩き続けていた私は、いつしかそんな場所にたどり着いていた。
そこは、私とあの人達だけのいる世界。まるで、もう存在しない「あの時間」の続きを永遠に引き延ばして見ていられるかのような世界。
そんな、「終わってしまった」世界。
何故、私はこんな選択を取ったのだろう。
話がしたかった。もっと彼らに触れてみたかった。
そんな思いも、もちろん強かった。
……でも。
……ああ、そうだね。
――これはきっと、私の決意であり、我儘だった。
◇
「最後にしたい事、本当にこんな事でいいの? コウジ」
怪訝そうな顔で、ココロはそう聞いてきた。
「うーん咄嗟にそう言われても、なんかこんな事しか思い浮かばなかった。でもまあ思い浮かんだんだから、きっと俺はこれがしたいんだろう」
そんな曖昧な答えを俺は返す。
俺達は最後に、河原へと移動していた。
嘗て俺と文歌と、そしてココロが毎日のように遊んでいた場所。
俺が、ココロと最初に出会った場所。
場所はきっとここでいい。いや、ここしかあり得ないと俺は思った。
しかし、ここで何をやろうかと俺が提案したのは——
「ええっと、私はこのボールをコウジの横目掛けて投げればいいんだっけ?」
「ああ、そうだ。そして俺はそれを打ち返す」
土手の前にいるココロが大きなボール籠から一つ野球ボールを取り出したのに対して、俺はその反対側――川を背にしてその手に持っていたバッドを掲げた。さっき学校の器具室に寄って取ってきたものだ。
俺達がここで最後の「解放」として提案した事、それはバッティングだった。
ココロがボールを投げ、俺はそれを打つ。ただそれだけの事。
「うーん。でも私、威力のコントロール出来るかは未だ怪しいよ? 球がコウジに当たる事は無いようにしてあるし投げる軌道の方には自身があるけれど、でも速度自体はきっとそんなに遅くは……」
「ああ、いいよ。……全力で投げてこい」
「え?」
バッドを地面に突く。驚くココロに対して、俺は更にこう言った。
「なあココロ。今からあの記憶のカケラにさ、バスケの時みたいに『条件』を付ける事は出来るのか?」
「え? うん、出来るよ。どんな『条件』を付けたいの?」
「そうか。じゃあ――俺がココロの全力投球を打ち返せるまで『解放』はされない、だ」
ぴくりと身体が動き、ココロはますます驚いたような顔となった。
「……本気、なの?」
驚くのも無理は無いだろう。
ココロの馬鹿力から放たれる全力投球。それは俺もここに来た初日に見せて貰ったが、本当に凄まじいものだったのだから。
鉄製のフェンスを易々と貫き、ボールそのものすらも摩擦熱で燃やし尽くす程の威力と速度。もちろん、あの時そのボールを目で捉える事すらも不可能な速さだった。
ましてや、それをバットで打ち返すなど――
だが、俺は頷いた。
「ああ、本気だとも。『最後の解放』なんだ。多少は難題の方がいいだろ?」
「……さっき楽な『解放』の方が良かったとか言ってなかったっけ?」
ココロがちょっとだけ恨めしそうな目で俺を見てくる。どうやらあのお説教は根に持っているらしい。
「それとこれとは話は別だっての。人ってのはな、最後は頑張っていたいものなんだよ。ラストスパートってやつだ」
「屁理屈な気が」
自分でもちょっとそう思った。
本音を言うのなら、もう少しだけ長くこの世界に留まっていたいから。今すぐに「解放」を終わらせて、もうこの世界とおさらばというのもなんだか嫌だと思ったのだ。
だからと言って手を抜くわけでは無い。この世界からはもう抜け出さなくてはならないのだから。それに最後を頑張った達成感、それが欲しいのも事実だ。
だからココロの豪速球、絶対に捕えてみせる。
「というか、そもそも私の全力投球を打っちゃったらそのバットとコウジの腕が砕けちゃうよ。いや、コウジの腕に怪我が無いように設定された世界だから、そんな事はないのだろうけれど。だから多分、球がそもそもバットに当たらないようになってしまうと思うの」
「じゃあ、そうならないように『設定』してくれよ。俺の腕もバットも折れないような、そんな細工をさ。お前なら出来るんだろ?」
「もう……注文が多いね」
「お前が俺に決めさせてくれるって言ったんだからな」
「まあ、それもそうか。……じゃあ改めて聞くけれど、『最後の解放』、本当にこれでいいんだね?」
「ああ。頼む」
あくまで考えを変える気のない俺に対して、ココロはとうとう観念したかのように溜息をついた。
「分かった。コウジの望みを叶えよう」
それから、笑顔になる。
「それに、確かにこれは楽しそうだしね。最後につまらない事をするよりは、二人で楽しめるほうがいいか」
そう言ってから彼女は右手を空に掲げると、そこから二つの光の球が発生する。
一つは遥か頭上にある記憶のカケラへ。そしてもう一つは俺の持つバットへと溶けるように吸い込まれる。
「ん、おっけー。これで記憶のカケラへの『条件』付けは完了。そしてバットの耐久と硬度大幅上昇とか、あと打たれた球がもたらすであろうバットからコウジへ伝わる衝撃の大幅カットとかの改造も終わったよ。これで私の球も打ち返せると思う」
「ありがとう、助かる。……本当になんでも有りなんだな。自分から言い出しておいてビックリだよ」
「ふふっ。何せこの世界の『マスター』なもので」
そんなやり取りをした後、俺はバットを構えた。ココロもボールを籠から一つ取る。
「じゃあ、始めよう。――私の全力、受け止めてみせて」
「ああ。――来い」
ココロは、ボールを投げた。
何が起こったのか、一瞬分からなかった。
ただ、物凄い突風と、風を切る凄まじい轟音がその自分の一瞬を支配する。まるで傍らをジェット機が通り過ぎたのではないかと思えるくらいの衝撃だった。
俺は、思わず目を瞑ってしまっていた。
その目を開ける頃には、もうココロはその手を完全に振り下ろしてしまっていて――でも、自分の腕はバットを振る事すら出来ていなかった。
「…………ッ!」
とっくに俺の脇を過ぎ去ったはずのボールは、摩擦熱に焼かれてどこかにぶつかりすらもしなかったようだった。振り返るも、その背景の川には何事も無かったかのようになんの被害も出していない。
だが、確かにそのボールはココロの手から放たれた。それを俺は打てなかった。
これが、彼女の全力投球。
目で捉えるどころの話ではない。その衝撃に気圧されて、俺は反応すら出来ていなかった。
「……ふふっ。どうしたの、コウジ? 『多少』の難題、なんでしょ? 捉えて貰わなくちゃ困るな」
完全なる全力を出せた彼女は、不敵な笑みをこちらに向ける。
俺の言い出したこの「解放」を、彼女が最初渋ってきた理由が分かった気がする。
これを、俺は打たなくてはならないのだ。
「……ああ、くそ。前に見たからもう大丈夫だなんて考えは甘かったな、これ」
一度はその暴威に晒されたからといって慣れるものでもなかった。それほど、この投球の速度と威力は凄まじい。
「どうする? 無理そうなら今からでも『条件』を解除して、別の『解放』にしてもいいんだよ?」
「ほざけ。絶対に打ってやるからな」
吐き捨てるようにそう言ってから、再び俺はバットを構える。
「……そう」
面白そうな様子で呟いてから、彼女もまた投げる。
「……っ」
また来る。あの暴威が、突風と轟音を乗せて――
「あ、あれ……?」
だが、ココロが少しだけ焦ったような声を上げて俺も我に返る。
その、さっきのような凄まじく速い気配が横を通り過ぎていくような感覚が無かった。もたらすであっただろう風も音もほとんどなく、そして近くで感じる事が出来なかった。
それはつまり、投げたボールが俺の所まで到達しなかったという事なのだろうか。
(外したのか……?)
そう思ったが、彼女が口にしたのはとんでもない事だった。
「あらら……。ボールがコウジの所に行く前に燃え尽きちゃったね。これは、ボールの方にも『改造』がいるかな」
と普通にそんな事を言ってみせてから、彼女はボール籠の方へも手をかざす。
「……」
俺の頬から思わず冷や汗が出た。さっきよりも早く燃え尽きたという事は、さっきよりも威力が高くなっているのだ。彼女自身もまだこれから更に投げる事に慣れていくのだろう。
……改めて、自分の提案したこの「解放」の難易度の高さを認識させられた。
「それじゃあ改めていくよ」
ボールに燃えないような「改造」を終えたのか、再びココロはボールを籠から取り出す。
(とにかく、ボールを見て打つのは不可能だ。ココロの手からボールが離れる寸前のタイミングで、このバットを振る……!)
運の要素も絡んでくるが、これくらいしか勝機はない。
ココロが振りかぶる。それとほぼ同時に俺はバットを振った。
先程と同じ、いや、それ以上に強く感じるボールからの圧力がまた俺の一瞬を支配する。
だが、肝心のバットからは何の感触も伝わってこなかった。
そしてさっきまでは無かった現象――ボールが後ろの川へ着水する。
破裂するような音。高く舞い上がる水しぶき。いや、最早水柱だ。その高さは向こうにある橋すらも余裕で超える。それが彼女の投げた全力投球の威力がどのようなものであるのかを物語っていた。
そして遅れて、その水が雨のように俺達の上へも降り注いでくる。
「……ぐ……」
その水に濡らされながら、俺は膝を付いた。
また、打つ事は出来なかった。
「バットは振れたみたいだね。でも、まだ全然遅かった。多分ボールの風圧に気圧されて動き自体が鈍っていた感じかな」
そうココロは冷静に分析してから、またこう言ってくる。
「……やっぱり、続ける?」
「当たり前だ。何度も言わせるな」
そのココロに、俺は少しだけむきになったようにそう言ってやった。
立ち上がり、またバットを構える。
「来いよ。例え怪我をしてしまったとしても、俺は止める気はないからな」
「……そっか。分かった」
そう呟いたココロの顔は、困っているようにも――でも、なんだかちょっとだけ嬉しそうにも見えた。
◇
あの日を、思い出していた。
それは、私とあの人が初めて出会った日。
私の命はその日終わるはずだった。もう、明日なんて来ないはずだった。
でも、あの人が私を助けてくれた。
そこから、止まっていた私の時間は進み始めた。
ずっと、孤独だった。
昼は生きるために、身を削って歩き続けた。
夜はその深い闇に怯え震えて、寂しさに押しつぶされそうになっていた。
そんな毎日の繰り返しだった。
生きる事が、辛かった。
でも、あなた達が目の前に現れた。
あなた達は友達になってくれた。
あなた達が、救ってくれた。
嬉しかった。
生きる楽しさを教えてくれたのは、あなた達だったんだ。
……だから、ね?
今度は、私の番なんだよ。