少年の答え
三十分ほどして、ようやく俺の気は済んだ。
「……しょうがない許してやる。最後に、ごめんなさいは?」
「……ごはぁ……ご、ごめんなさ、い……」
おい五十鈴と瓜二つの顔でそんな変顔すんじゃねーよやっぱまだ駄目、と言いたくなるような顔で苦痛に耐えながら、彼女は言葉を絞り出す。
「良かろう、楽にせい」
「ありがたき……幸せ……。あ……足が……足がああああああっ……」
そして正座の姿勢のまま、コテッと横に倒れた。凄い身体能力を持つ彼女だが、どうやら正座は苦手だったらしい。足が硬直したまま、凄く小刻みに震えている。ちょっとやり過ぎた……とは思わない事にしておいた。
「さて、次の場所に向かおうぜ。……何やってんだよココロ。早くしろよ」
「……お、鬼ぃぃぃぃ……」
足をプルプル痙攣させたまま、ココロは涙目で恨めしそうにこちらを見てくる。
「そうか鬼か、それもそうだな。じゃあ俺は鬼だからお前を置いて先にいくか。じゃあな」
「嘘です嘘ですっ!! 超嘘!! コウジは心優しい人ですーっ! 動けない私を待ってくれるような慈愛に満ちたお方ですーっ!」
「滅茶苦茶都合がいいなおい。……はあ」
しょうがないしばらく待ってやろうという気になった時、ココロが言ってきた。
「……それでその、慈愛に満ちたコウジ様」
「ん、どうした?」
ココロは横向きに倒れたまま、目を潤ませながらこちらを上目遣いで見てくる。さらに両手を胸の前で組み、全身から可愛いオーラも発生させ、一言。
「……おんぶ、して?」
「じゃあ俺先行くわ。またな」
「うわああああああああんっ!! ごめんなさい嘘ですーーーーっ!! 何もしなくていいから、お願いだから待ってええええええええっ!!」
歩き去ろうとする俺の背後から、ココロの泣き叫ぶ声が聞こえてくる。もし他の人がいたら俺は凄い痛い目で見られていた事だろう。
何というか。
この世界の創造主だと知っても。もう一人の五十鈴でもあり、あの猫でもある事が分かっても。
相変わらず、ココロはうるさかった。
結局ココロが回復するのを待ってやってから、また二人で歩き始めた。
「今度はどこに行くんだよ」
「まあまあ、着いてからのお楽しみ。今度はとっておきの場所だよ」
「……また俺は苦い記憶を思い出させられるのだろうか」
「や、やだなー。そんな事はないよー」
半眼の横目でココロを見ながらそう尋ねると、彼女はこちらを見ないまま冷や汗を流す。
そうしてしばらく歩いているうちに、そこに着いた。
木々や建物が急に辺りから無くなり、視界が広がる。
「……」
そこは、海だった。
明るい時に来るのはこれが初めてだ。白く広い砂浜の向こうには、灰色の海がさらに地平線へと続いている。
一昨日も聞いた、しかしどこか懐かしいとすら思えてしまう波の音が、聞こえてくる。
思わず立ち尽くしてしまった俺の手を、ココロは優しく握ってきた。
「見せたいものがあるの。来て」
ココロに手を引かれて歩いているのは砂浜では無く、砂浜手前で少し高くなって続く細いコンクリート塀の上。
そこをしばらく進むと、それは見えてくる。
塀から少し横に外れた、砂浜とは反対側――生い茂るクロマツ林の手前。そこには土が小さく盛られ、大きな木の枝が突き立っていた。
手前にはたくさんの花と、それに埋もれるように機関銃が供えられている。
これが、何を意味しているのかはすぐに分かった。
「……ココロ、お前……」
「……ここなら、海が良く見えると思ってね。夜中に作らせて貰ったの」
その「お墓」と向かい合った先に見える海を眺めながら、ココロはそう語る。
それから彼女はお墓の前にしゃがみ込むと、しばらく無言で手を合わせた。目を閉じて俯く彼女の横顔は悲しそうでも辛そうでもなく、ただ安らかで。
俺もその後で手を合わさせてもらう。きっとこの場所ならあの子も満足だろうと、そう思いながら。
彼女は、海が好きだったから。
「お別れは、言わなくていいの?」
「もう、済ませたさ。昨日な」
「……そう」
しばらくの沈黙。その墓前で、俺はただ静かに手を合わせ続ける。
「……コウジ、あの子は――マイは、確かに生きたよ」
やがてココロは、隣から静かな声でそう言った。
「生まれてから、色んなものに触れて、コウジにも出会って。それからもずっと、あの子はここで生きたの。あの日、コウジを眠らせてからも、あの子はずっと生きる事と戦っていた。最後まで、あの子は笑っていた。だからこそ、私はそう言い切ってみせるよ」
合わせていた手を降ろし、ココロの方を見つめた俺に対して、彼女は微笑む。
「『生きる事は、素晴らしい事』。その、マイの最後の言葉を聞き届けた私が――それを証明する」
「……っ!」
俺はしばらく俯いた後、しかし再び顔を上げ、ココロを見た。
「……生きる事に、意味なんか無いと思っていた。全部過ぎ去って、消えていくだけのものなんだって。でも、俺はあの子と出会ってそうじゃないんだって事にようやく気付けた。……ああ、忘れないとも」
忘れない。それは、本物だったのだから。
俺は、改めてその決意をココロに見せる。
「ここで俺と話をして、笑顔を見せて、俺の名前を呼んでくれて。そうして生きていてくれていたんだ。それは決して幻なんかで終わらせたくない。その記憶を、ずっとこの内に留めておきたい」
「……コウジ」
そんな俺に、彼女はまたしばらくの沈黙の後にこう聞いてきた。
「もう、見つけられたのかな? キミの失ったもの」
「……」
それは、一番最初の日にされた質問だった。
あの時は、ただただ過去が過ぎる事に疲れ、悲しみ、きっと大切な物まで見失っていた。だから、答える事は出来なかった。分からなかった。
「……今思えば、それもいじわるな質問だよな」
そう言ってやってから、俺は彼女を真っ直ぐに見据える。
「失ったものなんて無かった。何も、失くしてなんかいなかった。それは全部、この心の中にあった。この記憶の中にあった」
自分の胸に、俺はそっと手を当てる。
俺はただ怖かったんだ。思い出すと、それは返って俺の心を抉ってくるのではないかと。ただ、悲しいだけなのではないかと。
だから失くした事にしていた。失ったと思い込んで、その記憶を押し殺していた。
でもそれももうやめる。もう、自分の過去を否定する事をやめる。
友達との記憶も、父さんとの記憶も、五十鈴との記憶も。
だって俺はその時、確かに楽しかった。その思いも、間違いなく本物だった。
何も無くしてはいない、その言葉もまた嘘なのかもしれない。時間が経つにつれ、本当に無くしてしまったものだってあるのかもしれない。
でも、変わりゆく中で変わらない思いだってある。それに気付けたのだから。
「だから、俺はこれから前を向く。楽しかった日々が終わる事に、ただ悲しむことはもうやめる。後から思い出して、『こんな思い出を経て、今の俺がいるんだ』って笑い飛ばせるくらいの、そんな強さを俺は持とう。そうやって――今まで全てをこの内に大事にしまっておこう。もう、見失ったりしない」
笑ってやる。その終末に怯えるのではなく。
悲しんでいても何も始まらない。俯いていても何も見えはしない。
ただ笑って、過去も、未来も真っ直ぐに見据えていきたい。
そうやって、これから俺もまた人生という「旅」で見つけていきたい。
生きる事の、喜びを。
「……そっか」
ココロは、また微笑みそう言った。
でも今までのとはちょっと違う。静かな、とそんな風に表現するべき微笑み。
喜んでいる。安心している。
でも――
それが何なのかを考えようとしたが、ココロの言葉がその思考を遮ってきた。
「じゃあ、そろそろ行こうか」
「次はどこに行くんだ?」
「そうだね……一通り回って、もう巡るような場所はあんまり無いかも」
そう言って、ココロは上を見る。空の彼方向こうにある記憶のカケラを。
その虹色の光は、さっき見た時よりもだいぶ強くなっているように思えた。
「……あともう少しだね」
すると、ココロは明るい顔に戻って俺の手を取った。
「じゃあ、これが本当に最後の『解放』にしよっか。この世界に別れを告げにいこう。コウジに決めさせてあげる。――あなたは最後に、どこで何をしたいの?」
彼女はあの微笑みに、一体どんな思いを秘めていたのだろう。
彼女は、ここで本当は何をしたかったのだろう。
その本当の意味を。
彼女の、俺達への思いを。
小さな猫が抱いた覚悟を。
俺はまだ、知らない。




