世界の真実
◇
孤独でもいいのだと思っていた。
寂しくなど無いのだと思っていた。
追い回され、叩かれ、泥をすすり、足を引き摺って歩き。
それでも、動けていればそれで「生きて」いるのだと。
自分には誰もいらない。
誰かに気持ちを傾けられる事も、傾ける事もきっと無い。
だからこのままでいいのだと。
そう、思っていた。
「ほら食べな、ココロ。どうせ今日もたくさん食べるんだろ? いっぱい持ってきたからな」
少年が、猫の前に猫缶を差し出した。
彼がお腹を空かせている猫のためにいつも持ってきてくれるものである。
「ココロちゃん。ほら、今日も持ってきたよ。お腹いっぱい食べたら、後でいっぱい遊ぼうね」
少女が、猫の前に猫じゃらしを掲げた。
今日もこれでいっぱい遊んでくれるのだろう。
彼らといると心が温かくなる。気持ちが緩まってしまう。
ずっと孤独でいいと思っていた。ずっと心を閉ざしていた。
だがそんな猫に、彼らは手を差し伸べてくれた。
その日から、世界には意味が灯っていた。
猫は不思議であった。
自分は彼らに何もしていないのに。彼らは損しかしていないはずなのに。
どうして、彼らはこんなにも自分に「くれる」のだろうか?
「ココロ。これはな、『贈り物』って言うんだ」
――贈り物?
「そうだよ、ココロちゃん。誰かに好意や感謝の気持ちを伝えたい時とか、その誰かに幸せになって欲しいと、喜ばせたいと思った時に渡すものなの。私達はココロちゃんが大好きだし、ココロちゃんを喜ばせたいから贈るんだよ」
「それは贈るだけじゃ終わらない。その贈り物で誰かが喜んでくれれば、こっちだって嬉しい気持ちになれる。いいだろ? これでいつも君が喜んでくれているから、俺達も嬉しいんだ」
――好意。感謝。
――嬉しい。
揺れる。猫の思いが、緩やかにその願望へと。
それは憧れなのだと気づき、猫は戸惑う。
「ねえ、ココロちゃん。いつか私達も、ココロちゃんからの贈り物が欲しいな。あなたの思いを、見せて欲しいな」
――ワタシ、は……。
◇
起きてから、すぐに目は冴えていた。
場所は秘密基地、ベッドの上。天窓から差し込む朝日を受け、俺は上体を起こす。
あれだけの破壊があったのに、学校とここは奇跡的にほぼ無傷で残っていたらしい。昨日はあの後、ここで静かな夜を過ごす事が出来た。
そうして今日。「滅んだ世界」は、最後の朝を今ここに迎えている。
異様な静かさと、秘密基地内に置いてあるものがいつも以上に気になっていた。どこも変わらずいつも通りのはずなのに、どこか違うと思ってしまう。
きっといつもと違うのは、俺の気持ちの方なのだろう。落ち着かないというわけではないのだが、何となくそわそわしてしているというか。
見渡すも、自分以外の誰かの気配は感じられない。今この場にココロはいないようだ。
「元々私は寝なくても大丈夫なの。明日までもたせるためにちょっとだけ世界の『復旧作業』やってくるねー」と昨日の夜、俺が寝る前にこの秘密基地を出て行ったきり、彼女は戻ってきていないらしい。
「……行くか」
俺も身支度を整えると、秘密基地の出口へと向かう。
出る前に、一度だけ振り返った。秘密基地内を見渡すために。
ベッドやテーブル、椅子や本棚。ココロが学校から拝借してきたものが整然と並ぶ空間。
ここも恐らくもう二度と来る事は無いのだろう。ココロに無理矢理住まわされた場所ではあるが、いざ今日で最後となると、どこか感慨深い気持ちにもなってしまっている。
七日間。ココロと、文歌と、マイと過ごした場所。
短いようで長い思い出が、ここには詰まっていた。
「世話になったよ」
それだけ告げ、俺はその秘密基地を後にする。
◇
「造られた……世界?」
「世界の崩落」を食い止めるための戦いを終えた直後の事。
瓦礫の山を背景にココロが告げたその言葉を、俺は戸惑いの思いも込めて復唱していた。
「そ。ここはね、滅んでしまった世界なんかじゃないの。それっぽく見えたから、そう呼んでキミ達を欺いていたけれど。ここはキミ達を元の世界から連れて、留めるために造られた――私が造っていた世界」
辺りを見渡しながら、ココロはそう答える。
「丸ごと世界を造ってしまっていたの、私は。元の世界とほとんど遜色のない、そんな世界を。……ちょっと色まで付ける事は難しかったから、不完全ではあるのだけれど。それにこの辺の地域の外までは造られていないから、外観だけ繕ってあるだけでそれ以上遠くには行けなくなっているし」
マイを連れて逃げていた時の事を思い出す。
俺はこの町から出ようとしたが、その先に壁のような物を感じて止まってしまった。
それは、あそこに壁があって阻まれたわけでは無く、そもそもあれ以上先には何もなかったという事で……。
思考を戻し、質問する。
「いや、でも。世界を造るだなんてそんなの、お前一人で――」
そう言おうとして、俺はこう言い直した。
「――君一匹で、出来るものなのか?」
何故ならこの世界は、色が無い事以外あまりにも俺の記憶通り忠実に元の世界を再現している。この広い町の辺り一帯を、彼女の身一つの記憶だけで再現したとはとても考えにくい。
「そうだね。『私』だけでは無理だった。勿論、この身と共にある『理想』にも記憶なんてものはない。――だから私はキミ達の記憶を借り、それを元に世界を構築した。起きたばかりのキミ達に『向こう』での最近の記憶が無かったのはそのせいだよ。……騙していてごめん」
「今更だな。なるほど……つまり、その記憶というものが『情報』って事なのか……?」
「その通り。この世界の全ては『情報』によって構成されている。地面も、ビルも、木々も、そして私達の身体も。全て私達の記憶を組み合わせて、それを『情報』として変換し、物質化させてこの世界を形作っているの。キミが記憶を取り戻せたのは、あの漆黒によって壊された情報が元の記憶に還元されてキミに戻ってきたからだよ」
その詳しいプロセスは本当に私にもよく分からないんだけれどね、と彼女は付け加え、話を続ける。
「でも時間を歩ませようと思ったら、経時的に『情報』が必要になる。かといってキミ達の記憶をずっと絞り出していくわけにもいかない。いつか完全な記憶喪失になっちゃうからね。そのために、記憶のカケラにも新しく『情報』を作らせていた」
その記憶のカケラのカラクリについても聞いた。視覚情報を世界の構成要素に変換する装置がそれだったのだと。世界を維持する事が、俺達の「解放」の本当の目的だったのだと。
「世界」というものの仕組みについては大体理解出来た。ここからが本題である。
「どうして、俺達を連れて来た? どうして俺達を欺いていた? どうしてそこまでして……この世界での日々を望んだんだ?」
「……」
一番聞きたかった事々を彼女に問いかけると、今まで即座に答えてきた彼女が初めて沈黙を作る。だが、その質問にもやがてココロは微笑んでまた答える。
「……一時的にでも、あの悲惨な結末を忘れて楽しく過ごしていて欲しかった。次に向こうで目覚める時、あなた達に少しでも生きる気力が湧いていて欲しかったから。だから私はフミカの『理想』と入り混じり、この何でもありな世界を望んだ。あなた達から、私と出会った頃からの記憶を奪い、私はあなた達と出会いからやり直した。……私も何というか、『あのココロが』って驚かれるのも何だか照れくさかったから」
「……」
そう本当に照れたように目を伏せるココロに対し、次に沈黙してしまったのは俺だった。
今なら分かる。記憶がだいぶ戻った今なら。
ココロは、猫だった。
それは、河原で衰弱していたところを助けた猫。
「ココロ」は、俺がその猫に与えた名。
彼女は、大切な友達だったのだ。
お互いが、お互いの孤独を埋めるような、そんな存在同士だった。
いつも日が暮れるまで遊んだ。人嫌いになってもう笑えないと思っていた俺は、また笑う事が出来た。
彼女がきっかけで、五十鈴ともまた時間を取り戻す事だって出来た。
それはとても楽しい時間だった。ずっと留まっていたかった、世界だった。
――それも、凄惨な結末で終わってしまっていたのだが。
だがその先で、こうしてココロに再会出来たのだと知って俺の顔は思わず綻ぶ。
「……嬉しいよ、ココロ。君とこうして話が出来るだなんてな。夢にも思わなかった」
「コウジ……」
ココロは少しだけ甘えるような上目遣いを見せて、ぴたりと俺に寄り添ってくる。その頭を優しく撫でてやると、今度は可愛らしく吐息まで漏らす。それは本当にあの猫のようだった。
「まったく。人になっても、一つの世界すらも掌握出来るようになっても、こういうところは全然変わらないんだな。君は……」
「うにゅ。コウジの……撫で方が上手くて卑怯なだけだし。そんな手つきで撫でられたら、誰だって骨抜きなんだからね。これはしょうがない事なんだからね」
「はいはい。……でも何というか、あんなに弾けて暴れまわる性格だっただろうか? もうちょっとこう、利口でおとなしめな猫だと思っていたんだが……」
「むむ、まるで人を……いや猫を馬鹿みたいに。それは何というか、これがフミカの『望んだ』人格だったからね。それと入り混じってしまうと、人の姿である分そっちの性格の方が強く出てしまうというか」
「……なるほど」
時折、ココロがとても冷静に、聡明そうに、そして包み込むような優しさを出して話す事があった。
ひょっとすると、あれが隠れ切らなかったココロの地であったのかもしれない。また一つ謎が解けた。
「でも、結局の所『理想』が私に託したのは願いと身体だけ。例え性格が変わろうと、この意志はちゃんと『ココロ』のもので、『ココロ』が望んでこうして話しているのは確かだからね」
「……そうか。じゃあ君は確かに、ココロなんだな」
念を押すようにそう言うココロを、また一層愛おしく感じる。
お互い言葉が交わせるだけで、思いを通じ合えるようになっただけで、こんなにも嬉しく感じるとは。
そうやって撫でながら、俺はまた次の質問をしていた。
「俺達はどうなったんだ? 君……何か俺も照れくさいからお前に戻す……お前は言っていたな、『次に目覚める時』、それに五十鈴は『生きている』と。それはつまり、俺達はあの火事から助かる事が出来たのか?」
「……うん。フミカどころか、キミも助かっているよ、コウジ」
気持ちよさそうに目を細めながら、ココロはそう答えていた。
「すぐにね、消防隊の人達が来てくれたんだよ。コウジとフミカはすぐに救出されたの。まだまだ、二人はこれからも生きていけるんだよ」
「……そうか。俺は……生きている。そして五十鈴も、生きていてくれている……」
思わず涙が出そうになる。
五十鈴は無事だった。俺にとって、特別な存在になっていた彼女が。
それを知って、自分が生きていたという事よりも嬉しくなった。
「でも意識はなかなか戻らなくて、『向こう』では今頃二人共病院で昏睡状態と言ったところかな。だからこそキミ達の意識をここに持ってこられたんだけれどね。……フミカに、再会したい?」
「当たり前だ」
そう聞いてくるココロに対し、俺は即答した。
「……そっか、良かった。あのね、もうすぐ『向こう』のキミ達も目覚められるはずなの。……そのために、今ここにあるキミの意識をこの世界から出さなくちゃいけないね」
「……!」
ココロは顔を上げる。
その目は、真っ直ぐに俺を見据えていた。
「さっきも言った通りだよ。キミがそれを望んでくれるのなら、明日この世界を出よう、コウジ。これが最後の『解放』。これでこの世界は終わり――また何もかもが始まるの」
◇
秘密基地を出た後、俺は学校の購買で朝飯のパンを拝借。食べた後にトイレ前の手洗い場で顔を洗っていた。
向こうの窓から漏れる朝日がこちらにまで照ってくる。無人の校舎がそれを受け、きらきらと輝いているように見える。
冷たい水の感触で頭がすっきりとしたら、蛇口を閉めてタオルで顔を拭く。
準備は出来た。これで、いつでも出発出来る。
決意は固めていた。
五十鈴に再び会いたい。未来を再び動かしたい。
五十鈴と、そしてココロとまた一緒にいたい。
だから、俺は――
「コウジ」
横から名前を呼ばれた。そこに顔を向けると、ココロが立っている。今日会うのは初めてだ。彼女も準備が終わったらしい。
「ココロ」
俺も彼女の名を呼ぶ。それで自然と自分の気持ちを引き締める事も出来た。
「行こうか」
「……うん」
――俺達の、最後の旅が始まる。
「ところでココロ。この世界を出たらその……お前はどうなる? やっぱり猫に戻るのか。まあ、別にそれでも全然構わんのだが」
昨日聞きそびれていた事を前で歩く彼女にそう尋ねると、一瞬だけ動きを止めた後に振り返った。
それはもう、とびっきりの笑顔で。
招き猫のような手つきで両手を顔の横まで持ち上げるという奇妙なポーズで。
ウインクをかまし、彼女はこう言った。
「――秘密だにゃん! ……なんちゃって、ね」