流れ着いた思い
◇
壊れた街、終わりを告げる世界。
黒い記憶のカケラとの戦いが始まって、だいぶ時間がたった。
戦いは、圧倒的なものだった。
圧倒的に、私達が押されていた。
「……くっ」
黒い記憶のカケラから出る漆黒の触手が一本また振るわれる。
それを止めようと立ち向かっていった何体ものジンが、煙でも払われるかのように一瞬で消された。
先程からこの繰り返し。
物理的に相手を攻撃出来るだけのジンに、触れるだけで情報を喰らえるあれに勝ち目など最初からなかった。
その代償として得られるのが「『咀嚼時間』の一瞬だけその一本の触手を止められる」というだけのもの。
当然、その一瞬で無数の触手を蠢かせるあれをどうこう出来るものではない。ほぼ無駄な消耗だ。
周りを見渡す。巨大ジン二体は未だ健在なものの、ジン達は召喚してからかなり数を減らしてしまった。でもその間、記憶のカケラに対してほとんど攻撃を与えられていない。
このままだと、全滅する。
「……ッ! だからって、逃げるわけにもいかない……!」
食い止めなければ、全てが終わってしまう。私の目的は果たせなくなってしまう。
辺りを見渡すと、ビルは幾つも倒れ瓦礫の山をあちこちで築いている。道路には無数の大きな亀裂が走り、その下に深淵を覗かせていた。
「世界」はもう随分とぼろぼろになってしまった。「記憶」だってだいぶ漏れてしまっている。
それはきっともう、コウジの所へも……。
でも……いや、だからこそ。
終われない。まだ、終わるわけにはいかないのだ。
とにかくあれを止めるためには、中心の「記憶のカケラ」を破壊出来ればいい。それだけで私達の勝利となる。
一撃でも、あそこに攻撃が届けば……!
「こっちだよっ!!」
叫びながら、私自らがあれの前へと飛び出していく。
すぐさま無数の触手はこちらへと向けられたが、私はそれを横へと逸れていきながら全てかわしていった。私の身体能力なら何とかいける。
そうしながら記憶のカケラの後方へと目を向けた。
こちらに向けて、凄い速度で接近する黒い飛翔物体へ。
変形してもらった巨大ジンだ。今回は速度重視させたジェット機仕様。あらかじめビルの屋上で待機させ、私が出来るだけ多くの触手を引き付ける間に、手薄になった後ろからあれを叩いてもらう。
「この物量なら、確実に……!」
だがそこへ至る前に、飛んでいた巨大ジンの上半身が一瞬で消し飛んでしまった。
「な……!」
その周囲には、すでに無数の触手が蠢いている。
何という反応の良さだろう。引き付けたにもかかわらず、もう対応されてしまうなんて。
飛んだまま上半身を消された巨大ジンは、飛翔のバランスを失って記憶のカケラから逸れ、そのまま丁度反対側のこちらへと飛んできた。
「……! うあっ……!!」
触手を避けるのに精一杯だった私は、凄まじい速さを伴った黒い影の塊に直撃。
抑えきる事は出来ず、私は道路に何回も打ち付けられながらかなりの距離を吹き飛ばされ、街からも離れてどこかの木を何本もへし折って地面に落ちる。
身体のあちこちの痛みを堪えながらゆっくり立ち上がったが、顔を上げた次の瞬間には背筋が凍っていた。
視界を埋め尽くす程の凄まじい量の触手が、私の目の前にまで迫って来ていたのだ。
まるでどす黒い雪崩だった。私諸共ここら一帯を全て消し去ろうと言わんばかりの。
回避など、到底出来そうもなかった。
「……ッ!」
――しかし私を呑み込む直前、その雪崩は動きを止めた。
「え……?」
触手達はまるで見えない壁に阻まれているかのように、微かに震えたままその場から動けていない。
当然私は何もしていない。こんな事出来るならとっくにしている。
予想外の助けが入り一瞬呆けてしまったが、すぐに現在の状況は理解する。どうやら九死に一生を得たようだ。
雪崩の射程から逃れると、私はまた街の方へと逃げていく。再び動き始めた触手達もまたバラけて私の追跡を始めた。
「一体、何の力が……あれを……?」
逃げながら振り返り、さっきまで私がいた場所の後方を――触手の雪崩が蹂躙しようとしていた場所を見る。
――その先に広がっていた、海を。
◇
もう、何度終われば良いのだろう。
何度諦めれば良いのだろう。
とても辛くて、悲しくて、悔しくて。
それでもまた、足掻いて、迷って、後悔して。
諦めていたなんて嘘だった。心を押し殺していただなんて嘘だった。
願っていた。待っていた。
それは本当に……嬉しかった。楽しかった。
終わると分かっていながらも、それでも待ち望むしかなかったのだ。
だって「幸せ」は、その時間一瞬一瞬があまりにも尊くて、愛おしくて。
このまま、ずっとこうしていられたらいいのにという思いが抑えられなくて。
――だからその分、終わりは途方も無く気持ちを沈ませた。
波の音を、聞いていた。
優しく、心に穏やかに響くその音を。
足が、白い砂浜に埋もれていた。
優しく包み込んでくれるその感触が気持ちよい。
見えるのは、一面薄く蒼い海と空。
その境界の、彼方まで続く地平線。
色があるのに、全てがどこかぼんやりと薄く見えた。
ここはどこだろう? これも記憶? それとも現実?
砂浜の向こうで、誰かがしゃがんでいるのが見える。
赤い髪。
小柄な体躯。
あの日着ていた、可愛らしい服。
懸命に砂浜を覗き込んで、その子は何かを探している。
「……」
走っていた。
頭で考えるよりも先に、体が、心がひきつけられるかのように。
「……マイ」
呼ぶ、――実際は短いのに、凄く長い間会えなかったようにすら思える――その子の名前を。
早くこっちに気付いて欲しかったから。もう見失ってしまいたくなかったから。
「マイ……! マイーーーーーー!!」
叫びながらその前までたどり着いた時、その子はようやく立ち上がってこっちを見た。
その顔は嬉しいような、でもちょっとだけ困ったような、そんな表情をしている。
「マ……イ……!」
会いたくて、言いたい事だってたくさんあったのに、多すぎて何を言ったらいいか分からない。
だから彼女の名を呼ぶ事しか出来ない俺に、その子は――マイは何かを言った。
でも、聞こえない。音が伝わってこない。
「何……? 何で……!?」
どれだけ耳をすませようとも、彼女の声が分からなかった。その事に俺は悲しみと苛立ちを募らせる。
それを見てマイはまた困った顔になる。
だがキョロキョロと辺りを見渡して――急にぱっと表情を明るくした。
そして俺の手を掴むと、その手を引いて彼女は砂浜を走り始める。
「ちょっと……マイ……!?」
二人で砂浜を走っていた。砂に足を捕られながら、ぎこちなく進んでいく。
ゆっくりと流れていく木々やビルの反対では、ほとんど姿を変えずその雄大さを見せる海。
前を走るマイの髪が潮風になびいて、その甘く爽やかな香りがこちらにも漂ってくる。
時折微かにかかる海の水しぶき。
波と風の音。
握られた彼女の手から伝わってくるぬくもり。
このまま、世界の果てにまでだって行ってみたくなった。
ずっと、こうしていたかった。
でも、マイは止まった。
多分そんなに長い距離も走っていなければ、あまり長い時間でもなかった。
俺の手を放したマイは、その場にしゃがみ込んで何かを拾い、そして空いた手で俺の右手を持ち上げると手のひらにそれをそっと乗せる。
「……!」
それは、貝殻だった。
綺麗な薄い青の巻貝。中は薄く虹を帯びた白の空洞。
彼女はこれを探していたようだった。
「これを……俺に?」
マイは微笑みながら、こくりと頷く。
そのままじっとこちらを見ていた。反応を待つように。
「あ……えっと、ありがとう。凄い嬉しいよ、マイ」
そう言うと、マイは嬉しそうに顔を綻ばせた。
良かった。気に入ってくれて嬉しい、と言いたそうに。
――するとそのまま俺に背を向けて、歩き始めてしまった。
分かってしまった。これが、最後であると。
彼女は俺に分かれを告げにきたのだと。
これでもう二度と、マイには会えなくなってしまうのだと。
「行かないでくれ!!」
叫んでいた。
頭よりも、心が先に身体を動かしていた。
突然出してしまった大声に自分自身の喉もしびれる。
マイは立ち止まり、驚いたような顔でこちらに振り返る。
「頼む……行かないでくれ、消えないでくれ……! もう、嫌なんだよ……! 目の前で終わってしまうのは……! 誰かと別れるのは……!!」
必死になって叫び過ぎて、身体から力が抜ける。砂浜の上で俺はへたり込んでしまう。
「みんな、いなくなるんだ……消えていくんだ……。俺を置いて……俺の知らない遠くへ……。なんでだよ……なんで、こんな結末しかないんだ……! ずっとそのままでいいのに、それ以上何も望まないのに……!」
父さんも、昔遊んでくれた友達も、――五十鈴だって。
みんな悲しむしかなかった。戻ってこなかった。
俺から離れるしかなかった。
そうやって、終わっていった。
終わりは、必ず来る。
どんなに一緒にいたいと願っても、ずっとこうしていたいと願っても、それは叶わない。
永遠に過ごしていくだなんて空想は、決して実現しない。
――それがどうしようもなく、時間を歩んでいくという事だった。
「何回も願った! 何回も夢を見た! 終わらないでくれって、永遠であってくれって! でも、結局は無理だった!! いつか必ず別れは来た!! 失うしか……なかったんだ……!」
五十鈴も俺も、そんな容赦のない時の流れの中で心を壊していくしかなかった。
目の前の少女だって、俺が足掻いた所で結末は何も変わりはしなかった。
これからも、俺はそうやって抗う事も許されず、理不尽に失い続けるしかないのだろうか?
だったら、最初から幸せに――生きる事に意味など無い。
そんなの、偽物だ。
人を終わらせるだけの、残酷な罠だ。
俯いて見ていた砂の上に雫が落ちる。俺の涙だった。
大切なものが終わっていくたびに、この心はずたずたに引き裂かれるかのようだった。この世界全てから見放されたかのように怖くなった。
そんな事を何度も繰り返してきた。何度も絶望した。
もう麻痺して何も感じなくなっていた? ふざけるな。どれだけもうこの精神は擦り切れ、摩耗していると思っている?
そんな状態でこれ以上、俺は失っていく事に耐えられるとでも?
……きっと、もう無理だ。
「だからお願いだから……! お前だけはいなくならないでくれ……俺を一人にしないでくれ……! ずっと……そばに……」
こんな思いをするのなら、やっぱり出会わなければ良かったんだ。
始まらなければ良かった。
別れはもう嫌だ。一人はもう嫌だ。
偽物になる事が怖い。無意味になる事が辛い。
自分が傷つく事が悲しい。
終わりなんて来なければいいんだ。結末なんて見たくない。
耳を塞いだまま、心を閉ざしたまま、現実からずっと目を逸らしていたい。
ずっとずっと、このままで――
涙にぬれた俺の頬を、マイの小さな両手が優しく包み込んだ。
「……!」
穏やかな温もり。柔らかくて、気持ちが落ち着く感触。
そのまま、そっと俺の顔を持ち上げる。
マイの顔が目の前に映る。
彼女は、穏やかに笑っていた。
「マイ……」
とても安らかで、満ち足りていて、でも今にも泣き出しそうにも見える、そんな笑顔。
あの時と同じ顔だった。
最後に見た、マイのあの顔と。
「どうして……お前はそんな風に笑えるんだ……?」
終わるしかないのに。失われるしかないのに。
それなのに、どうしてこの子はこんなにも綺麗に笑えるのだろう?
するとマイは、俺から手を離して目の前の砂に指でゆっくりと文字を書き始める。
――生きたから――
「……!」
言葉を、失った。
俺は、この子を救う事なんて出来なかった。
偽りの人間として生まれ、過去も記憶も無いまま世界を彷徨った少女。
やっと心が宿ったのに、その心が世界にとって脅威となってしまった少女。
結局は生きる事が許されず、彼女はこの世界を去るしかなかった。
彼女の人生は、あまりにも短く、酷いものだった。
でも、この子は確かに最後のその瞬間まで笑っていた。
その顔に後悔も、絶望もなく。
その心の感じるまま泣く事もあった。自分の存在が分からなくなって辛い思いをしていた事もあった。
それでも、この子の心は最後まで生きる事を願い続けていた。
彼女は彼女の意志で、最後まで生き抜いてみせた。
だから、否定など出来るものか。
その生は、紛れもなく――
――本物だったから――
マイの笑顔を俺は見つめる。そう書いてみせるこの子の決意を、意思を受け止めるために。
偽物なんかじゃない。
この子は間違いなく、あそこで生きていた。
あそこに確かにいて、色々な物を見て、笑ったり、怒ったりして。
誰よりも人らしく、様々な感情をその内に抱えて、この子は生きていた。
だから、誰もこの子の人生を否定なんか出来るはずがない。
この子の生は紛れもなく――本物だったのだから。
――だから、消えない――
そこまで書いて、マイは目に涙を潤ませる。
その目で、じっと俺を見つめて。
これは、彼女の願いなのだろう。
最後の、この子の望みなのだろう。
――ずっとずっと、あなたの心に――
「……っ!」
……ああ、そうか。そうだったな。
もう、「意味」ならとっくに貰っていたんだな。
消えるしかなかったこの子の定めに絶望した。次の日の世界を彩る朝日に、この子だけがもう照らされる事がないのだと知り嘆きたくなった。
でも、だからこそ。俺はこの子から最後まで目をそらさずに、その生を見つめ続けたのではないのだろうか。
ここで、この海で。この子が一番行きたがっていたこの場所で。
ただただ、ここにたどり着くために俺は足掻いていた。
そして、きっとこれは無駄なんかじゃなかった。
だってその分この子と長く過ごせた。二人で過ごした、たくさんの光景を目に焼き付けられた。
その笑顔も、時折見せてくれた可愛らしい仕草も、最後まで「生きる事」と戦い続けていたその姿も。
――全部全部、この内にある。
ああ、そうだとも。消えたりなんかしない。
この子は、俺の心の中で生きているんだ。
マイという一人の少女の姿は、確かにこの心の中に刻み込まれている。
それは、大切な思い出として。
それは、最後まで生き抜いてみせた少女との、共に過ごした記憶として。
時の流れで色褪せるものなんかじゃない。悲しみで塞いでしまっていいものじゃない。
これは決して――偽物なんかじゃない。
だから、失わない。失ってたまるものか。
マイを抱きしめていた。そうせずにはいられなかった。
「ごめん……っ! 俺が……馬鹿だった……!」
彼女もゆっくりと自分の腕を俺の背中に回す。その手で、優しく俺の背を叩く。
本物だった。
悲しみだけを残して、ただ過ぎていく終わりなんかじゃない――大切なものを、この心に残してくれた。
「忘れ……ない……! お前が、ここで生きてくれていた事……俺と共に居てくれた事……! 何年経っても、ずっとこの記憶は色褪せない……! ずっとずっと……俺のそばにいてくれ……!」
だから、誓う。この青空の下で、海の広がるこの光景で、マイの前で。
もう彼女と共に過ごした時間を、後悔だけはしないのだと。
この終わりを、決してただ悲しいだけの記憶として閉ざさないのだと。
「ありがとう、マイ……! 俺と共に生きてくれて、たくさんの思い出をくれて、本当に……!」
その言葉を聞いて、マイは嬉しそうに微笑んで。そして彼女も涙を零して――
全てが遠くなっていく。
俺の嗚咽も、海も砂浜も、マイの微笑みも。
それは散りゆく花びらのように、儚く、美しく舞って――
◇
悲しんで、後悔して、絶望して。
そんな終末の繰り返しの果てに見つけたその小さな芽は、憧れに近いものだったのだろうと思う。
それは、本物だったと笑ってみせる少女が、余りにも綺麗で美しかったから。
終わりの果てでもそんな風に笑えるのなら、どれだけ幸せで報われるのだろうと俺は思ってしまったから。
大切な思い出は、ずっと残り続ける。
そう、あの赤髪の少女は教えてくれた。
また生き続ければ、これからもたくさんの終わりを俺は見る事になる。
また、いっぱい悲しむ事になる。
これから俺はどうすればいいのだろう。どうすればそれらを受け止めて生きていけるのだろう。
そんな事、まだ分からなかった。
――それでも、いつか俺も最後にあの子のように笑ってみせられるのなら。
ならば、これからも足掻いてやる。彼女のようにただ全力で、終わりから目を逸らさず、諦めずに真っ直ぐに進み続けてやる。
そうすればきっとそれは偽物ではない。本物になるのだと、そう信じるために。
だから、俺は……。
◇
目を開けると、そこは灰色の壊れかけた世界だった。
あちこちに瓦礫があって、傾いたビルがあって、裂けた道路があって。
「……」
今のは何だったのだろう。夢だったのだろうか? 幻だったのだろうか?
手を開いて、驚く。
そこには貝殻が乗っていた。
この色の無い世界には存在し得ない、青い貝殻が。
「……そうか、そうだよな」
貝殻を優しく握りしめる。
ああ、確かに聞いた、見届けた。あの子の望みを。
ぼろぼろだったはずの心には、再び勇気と決意が湧いていた。
まだ立てる。まだ前を見られる。
「……なあ。俺、まだ頑張ってみせるから。だから見守っていてくれないか、……マイ」
そう、俺は呟いた。
貝殻と同様にさっきまでは無かったはずの、目の前に置かれたそれを見つめながら。




