失くしたもの
何とか形には出来るようになった。
ぱすっ! ぱすっ! という心地よい良いキャッチ音が、俺とココロの間で規則正しく響く。
これこそがキャッチボールというものだろう。ココロも嬉しそうにボールを取ったり投げたりしている。俺も夢中になっていた。
……だが、流石にずっと無言でキャッチボールを続けているというのも退屈だ。
丁度良い機会である。キャッチボールを続けながら、ココロに気になっていたことを質問することにした。
「なあ、ココロ」
「ん、なに?」
「仮にこの世界が救われたとして、人類――俺たちよりも先に消えていった人々はどうなるんだ?」
これはわりと知りたい事だった。もし彼らが戻らなかったら、世界が救われた後でも、俺たちはこの世界を二人きりで彷徨うことになる。俺たちの今後に関わる話だ。
半ば緊張してその答えを待っていた俺だったが、返ってきた答えは拍子抜けだった。
「うーん、ごめん。それは私もよく分からないや。そうだね、どうなるんだろ……」
「そうか……」
仕方がない。彼女は何故か「現状」を色々と知っているようだが、知らない事もあるというものだろう。
「じゃあ、コウジはどう思う? これはあくまで想像の話だけれど。もし世界が救われたら、人々は戻って来ると思う?」
会話を続けるつもりなのか、ココロは俺にそう聞き返した。
(そうだな。分からない以上、推測を出すか)
少しだけ考えた後、俺は答える。
「戻って来ないだろう」
ピクリ、とココロの眉が少しだけ動いた。
「お前は言ったよな、ココロ。この世界は形を保っているうちは救うことが出来るが、今から一週間後、世界は崩れさってもう救えなくなるって。それはつまり、この世界は形だけ残っているからまだ復元出来るが、形が無くなってしまえば復元出来ないという事じゃないのか? 形無きものに記憶を吹き込むことは不可能。無くなるとは、すなわち今のこの世界では永遠の消失を意味する、と。――そういうことだろ?」
彼女は何も言わない。俺は構わず続ける。
「だから、もう人々は救えない。なぜなら、すでに彼らの形はこの世界に存在していないから。彼らはもう――」
一呼吸おいて、締めくくるように言う。
「――この世界から、いなくなってしまったから」
「……」
ココロは、じっと俺を見る。
「やっぱりキミは凄いんだね、コウジ。まさか、この短期間でそこまで考えを纏めてしまうだなんて。そう言われると、そうなんじゃないかって思えてくるよ」
しかし、そこまで言うと、ココロは悲しそうな表情を作った。
「でも、コウジはどうしてそうはっきりと断定しちゃうのかな? 人々が元に戻る可能性もひょっとしたらゼロじゃないかもしれないよ」
「それこそ、根拠が……」
「……うん、ごめん。前向き過ぎる想像だとは思う。でもね、私は人々に戻って来て欲しい。だったらその方に考えが寄るのも自然じゃないかな。……言ったよ、これは想像の話だって。それなら希望だって混ぜてもいい」
躊躇うように一息おいてから、ココロは続ける。
「……ねえ。コウジは、人々が戻ってきて欲しくはないの?」
「……ッ!?」
その言葉に、俺は息を呑んで黙り込んでしまった。
その様子を見、ココロはますます悲しそうな顔をする。その意味は分かる。
想像が全て自身の希望というわけでもない。俺はあくまで客観的な意見を述べたまでだ。そう否定だって出来たはずなのだ。
でも、咄嗟にそれをする事が俺には出来なかった。
つまり、それは――。
(そうか、俺は……)
そうしてまだ自覚の無かった自身の本心を指摘され、やがて俺もまた自身への失望とも諦めともよく分からない寂しげな笑みをこぼす。
今のこの世界は明らかに異常だ、そんなことは分かっている。
誰もいない世界、そんなものがあってはならない。
しかし、俺はこんな状況を心のどこかで望んでいたのかもしれない。
俺は今のこの状況を……受け入れたいと思ってしまっているのかもしれない。
何故なら、俺は今こうして一人でいることが出来るから。
一人なら、もう誰も傷つけなくて済むから。
一人なら、俺ももう何も感じなくて済むから。
――許せない。いつも高みから人を見下しやがって――
――どうせお前は、私のことなど馬鹿にしているのだろう?――
――なんで、お前みたいなやつがいるんだよぉっ!!――
人は見る。彼らは見る。
卑屈な目で。恐怖の目で。怒りの目で。
バケモノで見るような目で。
「……なあ、ココロ。『誰かがいる』、必ずしもそれがいい事とは限らないのかもしれないな」
最初からそうでもなかった。
小さい頃は、彼らも俺を普通の人として見てくれていた。
「友達」と公園で遊んだ。鬼ごっこをしたり、かくれんぼをしたり。
きっと、俺は楽しかったんだ。触れ合えていたこと。無邪気だったあの頃。
誰かといる事、それが堪らなく嬉しかった。
でもいつの間にか、俺は彼らとは違うモノになっていた。
もう戻れない。
友達になれていたはずの彼らには憎まれる。
父と呼べたはずだった人からは疎まれる。
「たくさん裏切られた、たくさん裏切った。そうして、人が嫌いになった。自分が嫌いになった。ああ、分かっているよ。……俺にはそうなるしか、無かったんだ」
時間は過ぎてしまった。
全ては、終わってしまった。
もう、前を見る事も辛くなっていた。
「終わると、失うと最初から分かっているのなら、――そうして嫌いになってしまうのなら、最初からそんなものを見ないほうが、触れないほうがいい。だからもう、誰とも関わらない。……いつしかそう思うようになってしまったんだよ、俺は」
俺は、きっと一人になりたかった。
そこなら初めから何も終わらない、何も失わない。
だからこそ俺は今――こんな世界の終わりも悪くはないと思っているのかもしれない。
「……」
ココロは、俯いてしまった。その表情からは、明確な感情が読み取れない。
嫌われたのだろうか。失望されてしまったのだろうか。
見捨てられるのかもしれない。
「共にこの世界を救う協力者に値しない人間」として、彼女が救う世界から、たくさんの人が戻った世界から、俺だけが切り離されてしまうのかもしれない。
だったら、それでもいい。
答えが出てしまった。もう諦めが付いてしまった。
……ああ、そうだとも。そこまで一人で彷徨い続けたいというのなら。
きっともう俺には、生きている意味すらない。
だがやがて、ココロは顔を上げると、何かを振り払うかのように頭をブンブンと振る。そのままボールを持った右手をグローブに収め、投球の構えを取り困惑する。今の話を無かった事にして、いつの間にか止まっていたキャッチボールを再開させるのだろうか。
しかし、先ほどまでよりもなんだか溜めが大きいように思える。
(ま、まさか、さっきの剛速球を……!?)
一瞬それを危惧したが、そうではなかった。
ココロは大きく振り被って、ポーンと、ボールを空高くぶん投げた。とんでもない大暴投である。
「よーし、取ってこーいっ! コウジー!!」
ココロが大声で俺に叫ぶ。
「おま……馬鹿……!」
そう言いながらも、すでに俺の後ろの方に飛んでいきつつあるボールを追いかける。
何をやっているんだ俺はと思いながらも必死に走り、落下を始めたボールとの距離を徐々に詰めていった。普段あんまり走らないから息は辛い。
(間に合え……!)
落ちてきたボールに限界まで手を伸ばし……なんとかキャッチ。
……が、そのまま走った勢いを止めることもできずに、体勢をくずしてグラウンドをごろごろと転がっていき、後ろにあった頼り無く立っている残った最後のフェンスに背中から激突した。
「ふぐッ!?」
喉から珍妙な声が漏れる。フェンスは軋む音を立て、倒れた。これでグラウンドのフェンス、完全大破である。
「い、痛てて……」
ココロの大暴投のせいとは言え、我ながら馬鹿をやらかしたものだ。ボールを追うのに夢中になるあまり、後先の事を考えなかったとは……。
(あれ……?)
なぜだろう、この状況に少し覚えがある。
いつ? 最近は体育も無ければそんなことを出来る友達もいなかった。
だが俺は覚えている、この感覚を。
そんな俺の頭の中に、ぼんやりと記憶が浮かび上がってきた。
そうだった。それは……小学生の頃。
楽しそうに、俺と向かい合っていたのは――父さんだった。
(……ッ!!)
まだ、俺の「父」であってくれたあの頃の父さん。よく俺に優しい笑顔を向けてくれた父さん。
本当の父親じゃないとかどうでも良かった。俺は、「父さん」が大好きだった。
俺達はよく河原でキャッチボールをしていたのだった。
俺は力いっぱい投げたつもりだったけれど、全然速度が出なくて、さらにボールは大抵変な方向に飛んでいく。
だが、父さんはそれを器用にひょいひょいと取っていた。そのくせ、俺には取りやすい球を投げてくれた。
当時の俺には、それがなんか悔しくて、絶対に父さんのほうに真っ直ぐに投げてやるぞと、毎回日が暮れるまで夢中になってキャッチボールを続けていたものだ。
――全く、光司は負けず嫌いだなぁ――
父さんはよくそんな風に苦笑を漏らしていた。
ある日、父さんは珍しくコントロールを誤ったのか、ボールをあらぬ方向に飛ばしてしまう。
だが、父さんのようにボールを取りたいと思った俺は、やめなさい、という父さんの制止も聞かず、そのボールを必死に追いかけた。そしてボールを取ったはいいものの、そのままバランスを崩して、川に落ちてしまったのだ。
川の流れは速く、そして水は冷たかった。このまま死んじゃうんじゃないかと不安と恐怖でいっぱいだったが、それでも俺は手足を必死にバタバタと動かした。
そしてしばらくして、俺の腕は父さんのたくましい手に掴まれる。川から引き上げられた俺は、その場で父さんの怒声を浴びた。
――そんな危ないことをしたらだめじゃないか!!――
……本気で、俺を叱ってくれた。
俺は、助かったことへの安心、助けてくれたことへの嬉しさ、怒られたことへの悲しさ、そして、もう二度と父さんは俺とキャッチボールをやってくれないのではないかという不安、色々な感情がごちゃ混ぜになって、その場で泣きじゃくった。ごめんなさい、ごめんなさい、と。何度もそう繰り返した。
しばらくそうしていると、父さんは俺の頭に手を乗せた。
――分かった。反省したのならそれでいい。でも、本当に良かった。父さん、とても心配したんだぞ?――
そのまま、わしゃわしゃと俺の頭を撫でる。
――また明日もキャッチボールをしよう。もう二度と、あんなことをしちゃいけないよ?――
その言葉に、俺は泣き顔のまま元気良く頷いた。
そして次の日から、また二人でキャッチボールを始めるのだった。俺も、父さんも、本当に楽しそうに。
それは、俺にとってかけがえのない大切な記憶。
ずっとこうしていたいと、このままであって欲しいと、そう願っていた時間。
俺の成績表を、厳しい顔で睨みつける父を見る。
その顔には、あの優しい笑顔は一欠片も残っていない。
どこで間違えたのだろう。何がいけなかったのだろう。
もう俺の言葉は父さんには届かない。
もう俺の投げた球を、父さんは取ってはくれない。
どんなに願っても、叫んでも、もう、あの頃には戻れない。
ねえ、父さん。本当は、俺は何もいらなかった。いらなかったんだ。
ただ俺は、あなたとまた……。
涙が、ぽたぽたと滴りグラウンドの土を濡らす。
「コウジ……」
ココロが心配そうに俺を見つめていた。
「なんだよ……なんだよ、これ……! なんでこんな……今更……ッ!!」
グローブを外し、拭おうとする。でも、止まらない。それは溢れ続ける。
なんで。
涙など、とうの昔に捨てたつもりだったのに。
感情など、押し殺したつもりだったのに……!
そんな俺を、ココロはまた黙ってしばらく見つめる。
悲しそうな、今にも彼女も一緒に泣き出してしまうのではないか、そんな顔で。
しかし彼女は、やがて微笑んだ。俺にそっと近づくと、涙を拭い続ける俺の手を取り、両手で包み込む。
静かな声で、語り掛ける。
「……言ったでしょう? これは、失ったものを取り戻す旅。私達が、いつしか失くしてしまった『私達』を見つけ出す、そんな『最後』の旅」
優しげな笑顔で、泣きじゃくる俺の顔を覗き込む。
「ねえ、コウジ。あなたが失くしたものは、なに?」
「……失くした……もの……?」
左手――ココロに掴まれていない手の指をグラウンドの土に食い込ませる。爪の間に砂が入って痛い。
「そんなの……もう、覚えてるわけねえよ……」
だってそれは……あまりにも多すぎる。
何かを失い続けて、その失ったものを憂いる暇もなく、ただ忘れるしかなくて。
そうじゃなきゃ、きっともたない。きっと張り裂けてしまう。それだけ多いのだ。
だからそれが心を潰して、壊してしまう前に捨てる。
そんな風に忘れ続けて、今の俺はこんなところにたどり着いている。そんな生き方しか、俺は知らない。
――失ったものなんて、きっとただ悲しくさせてしまうものばかりだから。
俺のその返事は、また少しココロを悲しい顔にさせてしまった。
……彼女には、あるのだろうか?
留めておきたかったもの。取り戻したいもの。
それを探して、彼女は今ここにいるのだろうか。
やがて、しばらくするとココロはまた明るい顔に戻った。
「……キャッチボール、続けよっか」