許されない悪
◇
――それは、運命の日ともなってしまった。
「……ただいま、ココロちゃん。もう、無理して来なくてもいいんだよ?」
家に帰ると、ココロちゃんは出迎えてくれた。
包帯はまだ取れない。だが傷は大分癒えてきており、ゆっくりとだがもう歩く事も出来ている。
彼女を抱きかかえて広いリビングに入ると、優しくクッションの上に寝かせてあげた。
私はそのリビングの奥に繋がっている六畳ほどの和室の畳へ上がると、その奥にあった仏壇の蝋燭に火を点ける。
そこには、お母さんの形見であるスタンド式の手鏡と、お父さんの形見である銀色の腕時計、そして幼い私を加えた三人が楽しそうに写っている集合写真が置かれていた。
さらにその上――両親の遺影に、私は手を合わせる。これが日課だった。
しかし手を合わせながら、私はいつもよりも更に暗い顔になってしまっていた事だろう。ここ数日はずっとこんな感じだった。
高山君は、もう私達に会わないと言った。
別れを告げられて次の日から、彼は学校で私を見ても辛く悲しそうな顔しかしなくなった。
もう私に冷たい態度を取る事すらもしなくなったが、そうされていた以上に私も悲しくなった。
「……私、どうすればいいのかな……」
誰に対して聞いて欲しいかもよく分からない呟きを、仏壇の前で漏らす。
どうすればいいかなんて、そんな事分かっている。
このままでいるしかないのだ。
このまま高山君の望み通り、ココロちゃんを守って、そして彼から離れて生きていくしか。
一年くらいの付き合いで、彼の考えは大体分かるようになっている。心優しい彼にとって一番悲しい事はきっと、私達の身に何か遭ってしまう事なのだろう。
だからこそ、私達から離れたのだろう。
高山君に関わらなければ、私達に危害が及ぶ事はない、それで彼は心を痛めない。ならば、このままでいる事がきっと今一番彼のためになる。
これが、彼をこれ以上悲しませない――彼を救うという事なのだろう。
「……なに、それ。それで、一体誰が救われるの?」
しかし、私にはそれがたまらなく嫌だった。
そんな「諦め」を、私は救いだなんて認めたくはない。
「こんなの……嫌だよ……! もう、お別れだなんて……。もう、これからずっと会えないだなんて……!」
今日、職員室から出てくる高山君を見てしまった。
その手に持つ、留学と書かれた書類を見てしまった。
彼はもう、覚悟を決めてしまっていた。
きっと彼はもうしばらくと経たないうちに、何も告げる事なく私の手の届かない場所へといなくなってしまうのだろう。
行かせたくなんてない。行って欲しくない。
どんなに高山君を救ってあげたいと願っても、彼のために何でもしてあげたいと思っても。それでも、私はこの気持ちだけは抑える事が出来なかった。
「高山君……高山君……っ」
その時、普段あまり鳴る事のないインターホンが鳴った。
「……!」
リビングでうずくまっていたはずのココロちゃんが、毛を逆立てて威嚇の姿勢を見せる。しかし私はそれを気にしている余裕は無かった。
(まさか……高山君?)
そんな僅かな希望にも縋りたくて、私は早足で玄関に向かう。
扉を開けると、しかしそこにいたのは高山君などではなく――
「――やあ、こんばんは。五十鈴さん」
「……ッ!? 金田……君?」
――下品な笑みを浮かべていた、私のクラスメイトの男子生徒だった。
「何をしに来たの……?」
「嫌だなあ、そんなに怯えないでくれよ」
男子生徒――金田君はその下品な笑みを崩さぬまま、私の横をすり抜けて家の中に無理矢理上がり込んでくる。
「金田君……!」
非難の声を上げるも、彼は止まらず廊下を進んでいく。私もその後を追うしかなかった。
彼は特に高山君を嫌っていた人間だった。よく彼に酷い言葉を浴びせていた。
この男が、何故今ここに?
突然の来訪者に対して疑問が膨らむと共に、まさかと胸の奥で嫌なものが溜まるのも感じる。
金田君は勝手にリビングに入り、そしてその中で弱々しくも威嚇の体勢をとっているココロちゃんを見て、その醜悪な笑みをより一層強くした。
「ああその猫、生きていたのか。良かった良かった。ちょっと強く殴り過ぎたかなと思ったからさ。こいつは『人質』だ。死なれても困る」
「……」
この男の言葉に私は大きな衝撃を受けた後、深い怒りが込み上がってきた。
「……あなたが、ココロちゃんを……」
笑みを、再び私に向ける金田君。
「その通り。この前、偶然君達が高山と仲良く遊んでいる所を見かけてしまってねぇ」
見られてしまった。あの大切な時間を、よりにもよってこんな男に。
「あの高山の嬉しそうな顔、あれを見て怒りが込み上げると同時、良い策も思いついたんだよ。この猫を傷つければ高山は大人しくなるんじゃないかって、さ」
――どこまで。
「いやあ上手くいったよ。実際この猫をボコったら、あっという間に高山は君達から離れたじゃないか。……ふん、偽善者め。だがいい気味だ。これで高山は君に近づけない。――君は、僕のものだ」
どこまで、この男は下衆なのだろう。
私は、拳を握りしめた。
だがそんな私の様子を気にした風もなく、金田君は私に迫ってくる。
「五十鈴さん、君はとても魅力的な女性だよ。これからは僕が君の隣にいてあげよう。僕が君の寂しさを埋めてあげよう。あんな男の事はもう忘れるんだ」
「……来ないで」
「つれないなぁ。僕は君を助けてあげたんだよ? 前にも言ったじゃない? あいつといても、君は不幸になるだけだって」
「……!」
いよいよ目の前まで来た金田君から私は逃げようと後ろを向いたが、その直後に腕を掴まれてしまった。
「嫌……離して……!」
「ねえ五十鈴さん。高山ならさ、きっとすぐ僕が犯人だって分かったはずだ。でもあいつ、その犯人探しも、復讐もしようとしなかった。とんだヘタレだったね、高山は」
「違う! 高山君は、あなたみたいな小さい男なんて眼中にもない! 高山君を、すぐに人に危害を加えようとするあなたなんかと一緒にしないで!」
「……ああ、うん。それだよそれ、その可能性も濃厚。そういう事だったらさぁ、凄いムカつかない? 意地でも高山を怒らせたくなるよね? ――だったら今度は、君かなって」
「……っ!?」
抵抗を試みたが、私の力ではどうする事も出来なかった。
身体も抑え込まれ、近くにあったソファーに押し倒されてしまった。
私の上に跨った金田君はその下品な笑みを更に強くし、鼻息も荒くしている。
「やめて……やめてよ……!! こんなの、犯罪だよ……!」
「ひひ、だから君にこの事を口外されないための脅迫材料もこれから作るんじゃないか。あ、それを高山にだけは見せるけれど。いやあ、彼の激怒する顔が目に浮かぶねえ。あいつは僕を見くびり過ぎた。ここまでやるだなんて、思いもしなかったよねぇ?」
左手で私の両手を頭の上で押さえ、右手で自身の携帯を取り出してカメラがこちらに向くように近くに置いた後、その手で私の上着のボタンを外しながら気持ち悪い口調でしゃべる。
「しかし前々から思っていたけれど、良い身体をしている……。君の羞恥と嫌悪と絶望に歪む顔を見ながら、ゆっくりと犯してやりたいなぁ……いひっ」
上着の下から現れた、薄い制服のシャツ越しから無遠慮に私の胸を掴んでくる手の感触に対し、おぞましい気持ち悪さによる寒気が背筋に走る。
どうしようもない状況。それでも私は抵抗し、必死に叫んだ。
「最低! あなたなんて本当に最低!! どうしてこんな事しか出来ないの……!?」
「おいおい、高山だって案外これが目的だったかもしれないぞ? どうせ君の身体しか見ていなかったさ。なにせあいつはクズだからな」
「違う!! 高山君はあなたなんかとは違う!! いつも優しくて、私の事もいつも大事にしてくれて……! 私は……高山君が好きなの! だから私は、絶対にあなたのものになんてならない……!!」
そこまで言った時、私は突然視界が眩むほどの衝撃を受けた。
金田君に頬を張られた、と分かるのに一瞬遅れるほどの力で。
「……なんだよ、どいつもこいつも。そんなに、あいつがいいのかよ!!」
彼はさっきまでの表情とは一転、激しい怒りを浮かべている。
頬が痛い。涙が出そうになって顔を逸らそうとしたが彼に頭を押さえられ、無理矢理こちらに向かせてきた。
「あいつのせいだ……あいつのせいで、僕は全てを奪われた。今までずっと一番だったのに、あいつのせいで僕は二番手になった。前まで僕をちやほやしてくれたパパとママも、僕の事を見てくれなくなった……! 今までへこへこしてた周りだって、いつからか僕の事を笑うようになりやがって……! 許せねぇ、いつも澄ましたような顔で僕から全てを奪っていったあいつだけは許せねぇ……!」
――違う、高山君だって苦しんでいた。
いつも誰かを傷付ける事を悲しんで、それでもどうしようもなくて、何も感じていないふりをしていた。
どうして、誰も気付いてあげられないの?
高山君はあなた達と同じ、普通の男の子だったんだよ?
だがそんな事を言ったところで、醜悪な憎しみに囚われた彼に届くはずがない。その目に狂気まで灯し始めた男は、唸るように叫んだ。
「だから僕も、あいつから全部奪ってやる!! あいつの女をここで滅茶苦茶にしてやる!! さあ大人しくしていろ!! これからたっぷりとお楽しみの……」
その時、金田君の横から何かがぶつかってきた。
ココロちゃんだ。ぼろぼろなその身体で、力を振り絞って彼に爪を突き立て襲い掛かっている。
「だ、だめココロちゃん……! にげ――」
「痛いなぁ。……くそがこの薄汚ねぇゴミ猫がぁ!! そんなにぶっ殺されてぇのかああああっ!!」
彼はココロちゃんを思いっきり蹴り飛ばし、小さな身体が痛々しく宙を舞った。
私は、自分の中の何かが弾けるような音を聞いた。
どうして、そんな酷い事が言えるのだろう。
どうして、こんな惨い事が出来るのだろう。
この人さえさえいなければ、ココロちゃんが傷つく事はなかった、私と高山君が悲しむ事は無かった。この人さえいなければ良かったのに、この人さえいなければ。
許せない、絶対に許せない。
……ああ、そっか。この人は、悪なんだ。悪が現れたんだ。
私達とは絶対に相容れない。放っておけば、ただ害をまき散らす。だから倒すしかないんだ。
なら、今度こそ私が――
「……あは」
ずっと募り続けていた虚しさと怒りは、歪な喜びへと反転する。
思いも、葛藤も、願いも。
私の全てを――漆黒のような泥でどろどろに浸し始める。
床に落ちるココロちゃん。それに向け、そのまま怒りに任せて襲い掛かろうとして金田君は、しかしすぐに失態を冒してしまった事に気付き青ざめる。
身体の離れた彼から、私は脱出していた。
「しま……おい待て! この猫が……」
そこまで言った金田君は、しかし今度はその顔に恐怖まで浮かべる事となる。
キッチンの方にまで移動した私は、その手に包丁を握っていた。
ココロちゃんを蹴り飛ばそうとしていたその足が止まる。直後、彼女はふらふらになりながらも空いていた窓から外へと逃げてしまった。しかし金田君はこちらを直視したままだった。
「お、おい五十鈴さん。それは一体何の冗談だ……?」
「……悪が、倒すべき悪者がいる」
その自分でもぞっとするほど低い声に、金田君の怯える様子が伝わってくる。
笑みを浮かべる私の胸中は、真っ黒な歓喜でいっぱいになってしまっている。
私は包丁を構えたままゆっくりと迫り、今度は彼の方が後退していくが、すぐに壁に当たった。
「ま……待て五十鈴さん、僕が悪かった。話し合おう? だから、な? その包丁を下ろし――」
薙いだ。
「……あ?」
横に裂かれた彼の制服。そこから見える彼の皮膚。
そこから滲み溢れ出す、彼の血。
「あ……ああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!?」
お腹を押さえながら、彼は絶叫した。
「ひだい……いだいいだいいだい……! ち、血が……血があああ……っ!」
今のは、確かに肉を切る感触だった。丁度お魚とか、鶏肉を捌くみたいな。でも、こんなにうるさくはない。
早く倒してしまいたかったし、耳障りな悲鳴が不愉快だったから、私は再び包丁を振り上げて二撃目を繰り出していた。
「た、たす……ぎゃああああああああっ!!」
今度は逃げようとこちらに向けた背中を裂く。また血が出てくる。
凄い、人にはこんなにたくさんの血が入っているのか。
だがまだ吹き出すような大量出血でもなければ、彼にはまだ悲鳴を上げている余裕はある。精々まだ「ただの怪我」である。致命傷を与えるというのは思ったよりも難しい。
やっぱり、もっと深く刺さないとだめだろうか?
「……あ、あひっ……ごぇ……! ゆ、許して……やめてぇ……!」
必死の形相で彼は逃げていくが、その先は袋小路の和室だった。
いい気味だ。痛めつけられたココロちゃんと同等か、それ以上の痛みと苦しみを味わえ。そして、私が倒してやる。
それが、悪者の定めだ。
「あなたを消せば……高山君も、ココロちゃんも、私も、きっとみんなが救われる。あなたが、この世界の悪なんだ。……あは、あはは。――これで私、立派なヒーローだよね……? これで、誰かが救われるよね……?」
そう呟きながら、私は彼へ再び接近していく。
今度こそ、□□す。
「な……なん……これぇ……? こここんなの……知ら……! ……イカ……れて……!」
……でも。そんな事したら高山君どう思うのかな?
折角今まで頑張って喜ばせようとしてきたのに、こんな事を知ったあの人はきっと悲しんでしまう。
仕方がないよね、こうでもしなきゃ私達は幸せになれない。
でもこれ、本当に幸せにつながるのかな?
……ああもう、いいや。何だか考えるのも疲れてしまった。
もう、何もかも終わってしまえ。
「あは、あはははは……っ!!」
包丁を腰だめに真っ直ぐに構え、私は彼に向けて突進した。
「ひいいいいいいいいいいっ!」
突進の刹那、ふと私は仏壇にあるお母さんの手鏡に目が移った。
そこに、私の姿が映っている。
それは、昔アニメでもよく見ていた者の姿だった。
とてもよく見慣れた――
身勝手な醜さと憎しみを醜悪な笑みから吐き出し続ける、『悪』そのものの姿だった。
「……あ、れ……?」
金田君が命からがらに突進の軌道から避けた事にすら気が付かない程に、私は呆然となり。
そのまま、仏壇に突っ込んだ。
「……!!」
絶句し、衝突した痛みすらも忘れ、私はその刹那を見る。
砕ける写真立て、遺影。転げ落ちる手鏡、時計。大きく揺れる仏壇。
大好きだった父と、母が――
そして畳の上に蝋燭が倒れ、そこから火が上がった。
火はすぐに畳の中で燃え広がり、大きな炎となる。周囲の温度がすぐさま上がっていく。
「な……!?」
後ろから誰かの驚く声が聞こえた気がしたが、そんな事はどうでもよい。
「いや……いやあああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
滅茶苦茶になってしまった仏壇に、私は必死に縋り付いていた。
「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! お願い許して、お父さんお母さん! そんなつもりじゃなかったの!! そんな……つもりじゃぁぁ……!」
なんて事を、私はお父さんとお母さんになんて事をしてしまったのだろう。
泣き叫び、必死に私は二人に許しを乞う。
「お、おい! 何やってんだよ燃えてんだよ、火事だ……! は、早く逃げ……!!」
それにもかかわらず、後ろで誰かが私を仏壇から引き剥がしてリビングにまで引き摺ってくる。
……誰だろう、この人?
ああ、そうか。お父さんとお母さんなんだ。
きっと私を咎めるために、姿を現したんだ。
「お前、私達を忘れるつもりなのか? 私達との約束を破って、弱い自分のままでいるつもりなのか?」って。
だから今度はそちらにしがみ付き、許してもらえるまで謝る。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!! 違う、違うの! お願い話を聞いて!! 許して許して許して許してぇぇ……!」
「ひ……やめろ掴むなあああああっ!! こっちにも燃え広がってくるやばいって動けよおおおおおおおっ!!」
ごめんなさい、二度と忘れません。
お願いします、どうかもう許してください。
「……くそ、離せえええッ!!」
だが乱暴に振り放され、私は勢い余って横へと飛ばされてしまう。
「あ……」
そうして側頭部への鋭く強い衝撃を最後に、私の意識は途絶えた。
――ねえ。もう何も救えないお前のような役立たずは、消えてしまえ。