崩壊への記憶
◇
地割れの谷と、ビルの瓦礫の向こうでココロ達は戦っているようだった。
時折瓦礫の山の上から漆黒の触手がはみ出して見え、今もなお建物や木々を破壊している。
そんな様子を、俺はただ呆然と見つめていた時だった。
「……?」
破壊された瓦礫から。上を失ったビルの断面から。様々な場所から薄く黒い霧のようなものが漏れ、俺の方へとゆっくりと漂ってくる。
「……これは……」
あちこちからくるそれに触れた瞬間、俺の頭に記憶が流れ込んできた。
◇
猫がいた。
それはもう名も無き、一匹の小さな雌猫だった。
いつもの空虚な日々の中。偶然にも見つけた、河原で倒れていた小さな命。
「君は、独りなのか?」
なぜ、助けようなどと思ったのだろうか。
なぜ、また始めようなどと思ったのだろうか。
それはきっと君が酷く、俺と似ていたからなのだろう。
「君の名は……そうだな、じゃあ――『ココロ』なんてどうだろうか?」
それが、失っていた「願い」の始まり。
それから俺は、その「ココロ」という猫に会いにいった。
雨の日も、風の日も。
そこに必ず、彼女はいたから。
「高山君……?」
「五十鈴……」
何とも不思議な縁にも、ココロは五十鈴とも仲良くなっていた。
「待って……!」
立ち去ろうとする俺に、だが彼女はしがみ付く。
「私はあなたといたい。もう止めてよ、こんな事……。いつまでもこうしていたって、私も――そして高山君も傷つくだけなんだよ……っ!」
「……ッ!」
「……学校だけでは、あなたのその優しさを受け入れる。でもお願い、どうかこの『ココロちゃん』のいる河原だけでは、私のわがままを受け入れて欲しい。ここでだけ、私達は共にいる事を許して欲しい……!」
結局は、変な意地だったのだろう。だがココロの前で、何故か俺はその言葉に素直にうなずいていた。
きっとココロのおかげで、俺はずっと大事に思っていた少女と共に過ごし始める事が出来た。
「幸せだね」
「ああ。幸せだ」
穏やかな、晴れた日の昼下がり。俺と、五十鈴と、そしてココロが寄り添いながら河原に座る。
俺達で、これからの楽しい未来も思い描いていく。
それは幻のようで。至福の、夢の一時で。
――ああ、いつまでもこうしていられればいいのに。
そう、願わずにはいられなくなっていた。
日々は過ぎ、最近はすっかりと寒くなっていた。
雪が降るのはまだもう少し先になるが、もう上着が無ければいられない程には空気が冷たい。
「本当にいいの、高山君? 私がココロちゃんを引き取っちゃっても」
「うん、頼む。そろそろ雪が降ってしまうからな。うちは……父さんが猫、駄目だから……」
「そっか……。ココロちゃんに会いに、いつでも私の家に遊びに来てもいいからね」
「ああ、ありがとう。そうさせてもらうよ」
そんな曇り空の夕方。街外れの道路を歩き、俺と五十鈴は今日の放課後もココロへ会いにいく。
「……ねえ、高山君」
「どうした? 五十鈴」
「私、ココロちゃんに出会えて本当に良かった」
こちらに微笑みながら突然そう言う五十鈴に、俺は驚く。
「だってあの子がきっかけで、私はまたこうして高山君と話せるようになったんだもん。それに、あの子と遊んでいる高山君が本当に楽しそうで、自然で。そんなあなたを見て私も嬉しくなるの。だからココロちゃんに感謝している」
「……五十鈴」
その言葉に対し、俺もまた笑っていた。
「俺も、ココロには感謝している。ココロがいなければ、こんな時間は過ごせなかった。……助けられて、出会えて、本当に良かった」
そこまで言うと、俺はまた真っ直ぐに正面を見据えた。
「この数か月。あっという間だったが俺にとっては大切な日々になった。……そして、これからもこの日々を過ごしたいんだ。だから五十鈴、これからもその……一緒にいてくれるか?」
「……!」
五十鈴が驚いたような顔になり、照れくさくなる。それでも、この思いを伝える事は止めない。
「お前がいてくれれば、この時間はもっと楽しくなる。あいつももっと喜ぶ。……もちろん、俺も。だから、俺はお前ともっと一緒にいたい。いい……か?」
「高山君……」
すると今度は、五十鈴は堪らなく嬉しそうな顔を見せてくれた。
「うん、うん。私も、高山君とこれからももっと一緒にいたい。だから、これからも一緒にいさせて。あなた達の時間に。もっとあなたとココロちゃんと一緒に、素敵な思い出を作らせて」
「……ありがとう、五十鈴」
俺もまた、嬉しそうに笑っていた。
――この時間は、俺達にとっては願望であり、夢だった。
これからも続けていきたいと、続くものだと。
そう信じて止まなかった。
河原が見えてくる。また橋の下にその猫はいるはずだ。
「おいココロー! 今日も遊びに来たぞ! 五十鈴も一緒だ!」
「ココロちゃん、こんにちは! 今日はいつも以上にもっといっぱい遊ぼうね!」
歩きながら叫んだ直後、すぐに土手の下の河原が見えてくる。
――その瞬間までは。
橋から少し離れた、河原に転がる石の上。
そこにはぼろぼろに痛めつけられ、所々血が滲み、ぐったりと倒れて動かなくなっているココロがいた。
ココロを医者に連れていき、治療をして貰った。幸い、命に別状はない。傷口を包帯で巻き、しばらく安静にしていれば治るとの事だった。
だが、多数のすり傷と痣――執拗に痛めつけられたような跡から、彼女が誰かの悪意で傷付けられた事に変わりはない。
なぜ? この猫が何をした?
いいや。理由の検討は付いている。ココロは何も悪くない。
悪いのは、きっと俺だ。
恐らく日頃から俺を恨んでいる「誰か」に、自分がココロや五十鈴と楽しそうに遊んでいる所を見られてしまったのだろう。
その腹いせに、その人物は彼女に手を出した。何の罪もない彼女は傷付けられた。
今度こそ、穏やかにいられると思った。平和に生きられる事を夢見た。
だが、化け物は結局どこまで行っても化け物のままで。
いつか、誰かを傷付けずにはいられない。
病院からの帰り。俺は五十鈴を彼女の家の前まで送ってあげた。
俺は弱々しく震えているココロを、隣で暗い顔で俯いていた五十鈴に差し出す。
「……高山、君?」
「さっき言った通り、五十鈴がココロを引き取ってくれ。……これからは、お前がココロの事を頼む」
「……え?」
その言葉を彼女も理解したのだろう。困惑と絶望の入り混じった眼差しを彼女は向けてくる。
それでも、俺は言葉を続ける。
「もう俺は、ココロには会わない。お前にも。もうこれ以上は駄目だ、お前達まで傷付けてしまう。だからまた、学校でのいつも通りの日々に戻ろう」
「……! ……い、や……」
次第に悲しみを滲ませてくる彼女に対して、今自分は上手く笑えているだろうか? それが心配だった。
「やっと俺は、誰かのそばにいられるのだと思っていた。でも、やっぱり駄目だった。やっぱり俺は……一人じゃないと駄目みたいだ。分かっていた、はずなのにな」
そっとココロを五十鈴に抱かせてあげ、俺は背を向けた。
「さようなら、ココロ、五十鈴。僅かばかりの時間だったけれど、楽しかったよ」
「そん……な……。待って……待ってよ……高山君……っ!」
声が、後ろから聞こえてくる。
「私が……私が強くなるから……。もう、あなたを悲しませないから……。お願い、離れていかないで……。――私を、置いていかないで……」
悲しみの声が。
必死に、俺を繋ぎとめようとする声が。
振り向くな。もう、振り向くな。歩き続けろ。
……もう、終わったんだよ。
五十鈴とココロを置き去りにした後、しばらく歩くと外はすっかりと暗くなっていた。もう、日が暮れる時間も随分と早い。
気温も昼より更に低くなる。その寒さは身体の芯にまで染み込んでくるようで、耐えがたいものだった。家の帰路への足も自然と速くなる。いいや、もう自分の心は既に冷えきってしまっているのかもしれない。そんな事を思いながら。
歩きながら一人考え込む。これから、どうしようかと。
……やはり復讐でもしてやろうか? 怒りを募らせる自身にその衝動が湧く。
ココロをあんな目に遭わせたそいつを、絶対に許せない。
どうせ学校内の誰かだ、すぐにでも犯人を突き止められる。学校が終わった後、ご丁寧に俺達より先回りするため早足で河原まで向かったのかと思うと更に怒りが湧いた。
そいつには、ココロが味わった以上の苦痛を味あわせてやろうか?
警察に捕まろうが知った事ではない。肉体的にでも、精神的にでも、どちらでもいい。今までに経験した事もないような絶望と恐怖を見せ、一生かかっても消えない傷跡を残してやろうか。俺になら、そんな手段いくらでも思い浮かぶ。
それで、ココロや五十鈴が報われるのなら。
「……報われる、ものかよ。そんな事で」
悔しさを滲ませた呟きが、寒く静かな空気に響いた。むき出しの冷たい両手が、痛いほど拳を握りしめていた。
そんなただ憎しみと怒りに駆られた自己満足な行動で、ココロを痛めつけた犯人と同類の事をして、それで彼女達は本当に報われるとでも?
そんな事をすれば俺と一緒にいた五十鈴にも更なる悪評が立ち、彼女がもっと酷い目に遭うかもしれないのに?
何とも、悔しい事だった。
俺は彼女達のために、ココロの仇すらも討てない。
もしもこれからの彼女達の平穏を――俺を犠牲にしてでも、それを望むというのなら。
――それは、運命の日ともなってしまった。
「……なんだ、これは?」
あれから数日後。リビングで読書をしていた父は、俺から突如差し出されたその書類を見て顔をしかめる。
「アメリカ留学」、と書かれたその書類を。
「……前々から先生にも勧められていて、考えてもいた事だ。だがようやく決心が付いた。勝手にで悪いがもう学校での手続きは済ませてある。後はあなた達の許可を取るだけだ。一か月後くらいにはもう向こうへ旅立つ」
そう語る俺の声は自分でも驚くほど落ち着いていて、躊躇いは無かった。
「渡航費も学費も、ある程度の生活費も、全て国から出る。足りなければ奨学金を取るまでだ。留学とは書いてあるが、そのまま向こうの大学に出て、向こうで働こうとも考えている。……もう、あなた達の世話にはならない」
「光司……!」
動揺して声を上げる母を、だが父は視線でのみ制してまたこちらを見る。続けろとの事なのだろう。だから俺は両親に対して、そして自分自身に対して言い放った。
「俺はこの町を出て行く。これでもう誰の迷惑にもならない。俺はこれから、一人で生きていく」
ずっと分かってもいた。これでいい。これで、何もかもが上手くいく。
父も、母も、五十鈴も、ココロも、クラスメイトも、誰も不幸にはならない。
俺だけがいなくなればいい。
俺一人が消えてしまえばいいんだ。
こんな道しか、無かったのだろう。
虚しさは残る。悲しさは消えない。
だがもう、後悔は無かった。
そんなもの、とっくにどこかへ置いてきたのだから。
俺の話を聞き、書類に目を通した父は、それをテーブルに投げ置き言った。
「……ふん、清々する。許可しよう、お前などどこへでも行ってしまえ。二度とその顔を私に見せるな」
そして彼は実印を取り出すと、何の躊躇いもなく書類にそれを押して俺に渡す。母はそれを悲しそうに見つめていたが、何も言えなかった。
「……」
分かっていた。父が俺に苛立っているという事くらい。
彼が、俺の事を妬ましいとすら思っている事くらい。
でも、本当はまだ少しだけ信じたかったのかもしれない。
それ以外にも、僅かでもいいから違う感情を俺に抱いていてくれていると。
別れくらいは、惜しんでくれると。
「……なあ。俺達は、なんだったんだろう」
そんな思いからだったのだろう、俺はそう呟いていた。
思い浮かんでいたのは、嘗ての幻影だった。
三人で囲んだ食卓は、いつも明るい話題が絶えなくて。
俺も、母も、——そして父だって、楽しそうに笑っていて。
あの日はいつからこんなにも遠くなったのだろう?
いつから俺達の間には、こんなにも大きな亀裂が走ってしまったのだろう?
「あなたは……父ではなかっただろうか。俺達は、家族ではなかっただろうか……?」
どうして「変化する」しかなかったのだろう。
どうして終わらなくてはいけないのだろう。
何も、変わらなければ良かったのに。
「何を言ってるんだ、お前は? 私はお前の父親なんかじゃないだろ、最初から」
父の言葉は、あまりにも冷たく、残酷に、リビングを支配した。
「だから私は、私より上の人種を気取っている『他人』のお前が大嫌いだった。妬ましいとすら思っていた。お前も、どうせそんな私も見下していたのだろう。……なあ、これが家族か? 笑わせるな」
「……」
そうか、と思う。
もう、彼はそんな幻影すら覚えてはいない。
元には戻れない。それだけ、変わり過ぎてしまった。俺という存在が、歪めてしまっていた。
だったらそれはもう、最初から嘘だったのと何ら変わりはないのだろう。
だから届く事はないのだろうけれど、それでも俺は言葉を残していた。
「……俺は、あなたが好きだったんだよ。あの頃の、俺に優しかったあなたが、明るかったあなたが。血が繋がっていないとか、そんな事どうでも良かった。『差』とかどうでも良かった。……あなたは、俺にとってたった一人の父だったんだ」
驚くように目を見開く父、心配そうにこちらを見つめる母を残し、俺はリビングを立ち去る。
「さようなら、母さん。――父さん」
俺は自分の部屋に書類を置いた後、すぐに玄関へ向かっていた。
少し、本当に一人になりたかったから。
◇
「……なあ、光司は一体何を言っていたのだろうか? この私の何を好きだと言ったのだろうか。私には分からない」
「お父さん。光司が欲しかったのはね、あなたの優しさだったのよ。昔の『父』としてのあなたが、また見たかったのよ、きっと」
「私……昔の『父』。……そうか。そんな風に、あいつに接していた時もあったかもしれないな。そういえばよく、小さかったあいつと遊んだ。あの頃はまだあいつも無邪気で、純粋で、あいつは私から離れる事はなかった。しかし今は……どうしてこんなに遠くへ。どうしてあんなに変わって……」
「光司は何も変わっていない、私はそう思うわ。……見たでしょう? 今のあの子。……お願い、お父さん。どうか気付いてあげて」
「……では、本当に変わってしまったのは……私だった?」
「……」
「……仕方が……無いだろ……ッ! 成績が良くなっていくお前を見るのが、私はだんだん怖くなったのだ……! もうお前は、私を昔みたいに『父』とは思ってくれなくなっているのではないかと、そう思えてしまって。そしてだんだん、お前といる事すら辛くなって。もうお前を、私達とは違う忌々しいものと見るしかどうしようもなくなっていた。最近では顔すらも見たくなくなっていた。私は、とっくにお前の父ではなくなっていたのに。それでもお前は、まだ私を父として見てくれていた? そんなの……そんな事……!」
「お父さん……」




