理想の自分
俺はもう、何も考える事が出来なかった。
ただその場で、狂ったように取り乱して叫び散らす事しか。
五十鈴が、死んだ。
「なんで!? どうしてあいつまで!? 嫌だ、もう嫌だ! こんなの嘘だああああああああああああっ!!」
膝を付き、手を付く。
コンクリートの上で握りしめた拳は汗ばんでいるのに、驚くほど冷たく感じる。
絶叫を続ける喉は絶望と気持ち悪さが入り混じり、嘔吐感を酷く感じる。
身体の震えが、止まらない。
終わった。また一つ、終わった。
また、目の前からいなくなった。
俺なんかが、いたから。
「助けてくれ……誰か、あいつを助けてくれよ……! お願い、だから……」
一歩もその場から動けない。身体が動かない。
頭すらも地面に付き、俺はうずくまってしまった。
「危ない!!」
その時、鋭い声が聞こえて来たかと思うと、俺の身体が持ち上げられてその場から移動する。その一瞬後にさっき俺がいた場所に漆黒の触手がめり込んだ。
上を見れば、すぐそこにココロの顔があった。彼女は俺を抱えたまま跳躍している。
「何をしているのコウジ!? どうしてこんな所に!?」
彼女は余裕が無さそうに、俺をそう叱責した。
あちこちでビルが倒れ、地面はえぐれている。
あの「記憶のカケラ」が急に現れてから、あっという間にあたりは酷い惨状になっていた。この状況に今ココロですら対応しきれていないのだろう。
彼女は黒い記憶のカケラから離れた場所に着地すると、俺を降ろした。
「ココロ……。五十鈴が、五十鈴が……!」
「……ッ!」
その言葉を聞いて、ココロはその顔をより一層険しくした。彼女も見てしまっていたのだろうか。
「俺の……せいなんだ……。あいつは、俺を庇って……!」
俺はまだ、マイを諦めきれてはいなかった。あれの放つ「マイ」の気配に吸い込まれそうになった。
そのせいで、五十鈴は犠牲になった。
「俺があいつともっと早く逃げていれば……俺があいつを守れていれば、こんな事には。ごめん、五十鈴……ごめん……!」
懺悔するように、赦しを乞うように、俺はそう漏らし続ける。そんな資格、あるはずも無いのに。
もういっその事ここでココロに罵って貰った方が幾分かマシだった。
しかしそれを聞いて悔しそうな顔をした彼女は、こんな事を言って来る。
「フミカの……馬鹿……! 自分じゃコウジを救えないからって自分が消えて、それでコウジが喜ぶとでも思ったの? そんなに、自分が嫌だった? そんなに、死にたかった……っ!?」
それを聞いた瞬間、俺の中の絶望が、一気に怒りに変わるのを感じた。
こいつは今、何と?
彼女の決死の庇いを――「死にたかった」などと抜かしたのか?
「……黙れよ。なんで……そんな事が言えるんだよ……ッ!」
喉から漏れた自分の声は、自分でも驚く程低かった。
でも、ココロは言葉を止めない。
「ううん。弱いんだよ、あの子は。『誰かを救いたい』。そう思っているくせに、そうする事を怯えて何も出来ない。そんな自分にどうしようもなく絶望して、今キミを庇うという都合がいいていで自分を消したんだ。あの子は自分から……逃げたんだよ」
「黙れって言ってんだよ!!」
叫んでいた。
頼む、やめてくれ。俺の前で、今五十鈴の事だけは悪く言わないでくれ。そんな縋るような思いで。
「あいつは、身を呈して俺を庇ってくれたんだ!! こんな酷い俺を、情けない俺を!! いつもそうだった。あいつだけは、俺を最後まで見捨てなかった! ずっと、一緒にいてくれた……!」
学校で見せてくれたあの笑顔。
この今の世界でも見せてくれたあの笑顔。
俺はそれに、今まで何も応えてあげる事は出来なかった。
だが俺はそれに、どれだけ助けられて来たか。
「最後まで……あいつは笑っていた……! こんな俺に、『愛してる』とまで言ってくれたのに……! 俺は、あいつにまだ何もしてやれていないのに……!」
「……コウジ」
俯いた俺に、ココロは手を伸ばしてくる。しかし、俺はその手を弾いてしまった。
少しだけ彼女の身体が傾く。その拍子に彼女のポニーテールが解け、長い栗色の髪が下りる。
そんな彼女の顔を直視出来ないまま、俺は叫び続ける。
「お前に、何が分かる!! あいつが何を考えていたのか。俺が、どれだけあいつの事を思っていたのか!」
「コウジ」
「それとも何か!? 世界を操れるお前は、俺達の気持ちすら読み取れてしまうのか!? この世界のマスター様は、そんな事まで分かってしまうのかよ!! ふざけんな! そんな、覗き見るような真似で全部分かったように言うんじゃねえ!!」
俺は、最低だ。
五十鈴を見殺しにして、その悲しさからココロに八つ当たりして。
俺は今、彼女をとても困らせてしまっている。彼女にそんな事、やりたくはなかったのに。
でも、俺はもう俺を止める事は出来なかった。
「人の心なんて、誰にも分かるものか!! 俺だって、そしてお前にだって! あいつの事なんて、お前には何も……!」
「高山君」
声が、聞こえてきた。
ついさっきまで聞いていた、彼女が呼んでいた俺の苗字が。
彼女が、いつも親愛を込めて呼んでくれていた言葉が。
「……え?」
顔を上げ、俺は目の前の少女を見ていた。
今の言葉を発した、その少女を。
「分かるよ、全部。——だって、私の事だから」
長い栗色の髪をおしとやかに降ろすーーその髪と目の色以外、消えたはずの彼女に瓜二つのその少女を。
どうして気が付かなかったのだろう。
確かに、声は少し違う。雰囲気だって。
だが二人の口調も、顔も、こんなにも良く似ていたというのに。
「ーー五十鈴、なの……か……?」
「ううん、私はココロだよ。君達が大好きで仕方がなかった『ココロ』。それが名――君があの日、この子に付けてくれた名。……でもね、同時に私は五十鈴文歌でもあるの」
震える声でそう名を聞いた俺に対し、その少女は首を振って――肯定した。
「私は、五十鈴文歌の理想の姿。もう一人の五十鈴文歌。君を救いたいと、助けたいと、そう願って止まなかったあの子がいつしか生み出していた夢。強い『私』の姿」
彼女は狂気とすら感じられるほどに愛おしそうに微笑みながら、微かに震え動けない俺の頬に右手を優しく触れる。
甘く切なく、脳を溶かしていくかのように妖艶な、悲しげな声で、彼女は語り始める。
「五十鈴文歌という『私』、高山君に恋をした少女は気付いてしまった。自分では、高山君を助ける事なんて出来ないと。自分では、いつか高山君を傷付けてしまう事になると。だから彼女は、理想に縋った、願った。『私は今のままじゃ駄目だ。こんな弱い私じゃない、ヒーローのように大切な人を守れる、強い私にならなきゃ駄目なんだ』って」
「理想……願……い……? そこから……お前が……?」
彼女が振りまく激情に、五十鈴という少女の「真実」に俺はただただ振り回され、呆然とそう俺は呟くしかなかった。だが、容赦なく彼女の言葉は続く。
「うん、そう。そんな一途な理想から、いつしかこの『私』という存在が生まれたの。どう、強かったでしょう? 明るくて勇敢だったでしょう、この『私』? 弱虫で、愚鈍で、暗い私とは大違い。……ねえ、それはきっと高山君。君への愛故に、なの。嘆き続ける君に振り向いて欲しかったから。悲しみ続ける君を、救いたかったから。この『私』なら、それが出来ると思ったから」
彼女は更にその笑みを濃し――俺をゆっくりと抱きしめ、俺の耳元で呟く。
「ねえ。大好きだよ、高山君。世界で、誰よりも君が好きなの。君のためなら、私は何にでもなるんだよ」
「……」
彼女は俺から離れると、急に明るい声になった。
いつもの、「ココロ」の声だった。
「キミ達が大好きな『ココロ』は、二人のこれからの未来が心配だったんだ。そしてフミカの願いから生まれた『理想』は、キミと、フミカの心を癒し、救ってあげたかった。
そんな、不完全な存在でしか無かった両者の願望と目的はどうしようもなく一致し、組み合わさり——二つは、一つの『存在』となった。
それが、私。ココロの思いとーーフミカの願いが偶然にも重なって出来た存在」
ずっと何も言えず、ただ絶望に近い表情で彼女を見つめ続ける俺に、彼女はとどめを差すようように言う。
「ねえコウジ。私達はね、こんなものにでも縋らなくちゃどうしようもなかったんだよ。こうでもしないとーー大切なあなたを救えないと思ったんだよ」
「……違う」
ついに俺は崩れ落ち、その場に膝を付いてしまった。
「ココロ」という名はよく分からない。どこか懐かしいような、大切な言葉だったような。
だが、今は知ってしまった「五十鈴文歌」の苦悩についてでいっぱいいっぱいだった。
「本当は、弱いのは俺なんだ。悪いのは……全部俺だったんだ」
救えなかったのは、俺の方だった。傲慢にも助けになると思っていた行動は、もっと彼女を苦しめていただけだった。
「五十鈴、お前は本当に優しくて、気遣いも上手で、——そして、俺には眩しいくらいに強くて。でも、俺のせいで……お前はこんなにも思い悩んでいた……!」
「……」
「変わらなくていいのに。そのままのお前でいいのに。それなのに……違う、違う……っ!」
数々の事実を前に打ちのめされていた俺は、感情に任せるままに叫んでいた。
「お前は、五十鈴じゃない……っ!」
その時だった。
俺とココロの間の地面が、地響きを起こしながら割れた。
「な……っ!? くっ……侵略が、もうここまで……!」
ココロ動揺した声がどんどん離れていく。地震を起こしながら、亀裂は大規模な地割れとなり俺達の距離を離していく。
「コウジ……!」
ココロがこちらに手を伸ばす。だが、俯いた俺はその手を取る事は無かった。
もう、彼女に付いていく気力も、戦う気力も残っていない。
それに対して傷ついたように呆然とする彼女の顔がどんどん離れていく。やがて、その頭上に地割れに巻き込まれて倒れてくるビルを避けるために、彼女は断念して後ろに下がる。直後、地割れにより生じた深い谷の対岸が瓦礫に埋もれた。
俺とココロは、分断されてしまった。
◇
コウジと、離れてしまった。
彼は瓦礫と谷の向こう。もうその姿は見えない。
(拒絶、されちゃったな……)
落胆しかけた心に、だが鞭を打つ。
元よりそのつもりだったではないか、と。
ともあれ好都合だ。
あの「漆黒」はこちら側にある。つまり、あの漆黒の触手をこの瓦礫の壁より向こう側へ行かせなければコウジを守る事が出来るのだ。
「……お願い。昨日から酷使して悪いけれど」
そう言った私の両脇の地面に、二つ黒い穴が空いた。
「消失」の闇ではない、「構築」のための影の黒が。
そこから、二体の屈強な人型の影——巨大ジンが姿を見せる。
それだけではない、さらにその周囲に無数の小さな黒い穴が空くと、そこかれジンの群れも姿を見せる。
あっという間に辺り一帯の地面を塗り潰した黒。これが全てを総動員した、今出せる最大戦力。
食い止めてみせる。
私は、あの子の理想に願いを託されたのだから。
「私」は、その思いを遂げると誓ったのだから。
「ーー潰せ!! 徹底的に。今度こそ、一欠片も残さずに!!」
大声で叫ぶと同時に、ジンの大群は漆黒に侵された記憶のカケラへと立ち向かう。
まさに世界の命運をかけた総力戦が、始まる。
(あの記憶のカケラ……)
同時に、私は考えていた。
記憶のカケラについて――コウジには「元の世界の不完全な記憶が詰め込まれ、それを完成させるために『解放』での情報提供が必要だ」と説明しているが、実際には違う。
あれは、情報を消費して動き続ける「この世界」に、エネルギー源とも言える情報を新たに供給するために辺りから自律的に情報を集めている、視覚的認識機能を持った情報収集器なのだ。
私達が行ってきた「解放」とはつまり、「世界」を維持するための情報を作り、それをあれに提供するための行為だったと言える。
そしてあの「漆黒」が情報を欲しているのならば、記憶のカケラに取り憑くのが確かに一番手っ取り早いのだろう。あれが情報を集めるものに他ならないのだから。
あの禍々しい黒は、心の悪性そのものだ。
理性をそぎ落とした、むき出しの欲望の権化だ。
(もしも、昨日完全に消せていたと思っていた「マイ」の、僅かな因子がまだ残っていて反転していたとしたら。それが記憶のカケラに取り憑いて、世界の情報を喰らう力を取り戻したのだとしたら。それによって再び、この世界を壊そうとしているのならば……!)
ーーこの世界は、綺麗ーー
言葉を、思い出した。
あの、世界を誰よりも愛していた少女の言葉を。
「……やめてよ」
やり場のない怒りと悲しみが溢れ、私は拳を握りしめていた。
「もうこれ以上、あの子の『生』を貶めないでよ……!!」




