憧れと絶望
◇
変わっている、と思われるかもしれないが。
私――五十鈴文歌は小さい頃から、ヒーローに憧れていた。
たまたま見始めたアニメだった。だがタイトルやストーリーまで鮮明に覚えている。テレビに映っているその姿を見た時、私は思わず心を奪われてしまった事も。
「もう大丈夫だ。私が、君を救い出してあげよう」
ヒロインを、大切な人を、全ての人を守ろうと人知れず孤独に戦い続けるヒーロー。
時には救えない事もあり、その「終わり」を悲しみ、苦しみ、しかしそれでもその悲しみを乗り越えてまた前を向いて戦い続けるヒーロー。
自分もいつか、こんな風になりたいと考えていた。
だってその姿はカッコいいし、素敵だと思ったから。
こんな風に、世界の裏から大切な人達の日常を守ってみたい。そう思っていた。
でもそんな話を同世代の女子達に話すと、「女の子なのに変。ヒーローは男の子がなるものなんだよ」とよく言われてしまった。
私は変なのだろうか、女の子の私はそんな事を夢見てはいけないのだろうか、と幼い私は落ち込む事も。
それでも、憧れは捨てられなかった。
虐められている子を率先して庇ったりもした。運ぶ荷物が重くて困っているお年寄りを助けてあげたりもした。些細なことだったが、小さな私には誇らしかった。
その様子を奇異な目で見てくる人達なんて、気にしもしなかった。
だが、そんな私の夢を分かってくれる人達もいた。
「そうか、文歌はそんな風になりたいのか。誰かを救いたい、それは立派な志だぞ」
「あらあら、きっと文歌なら素敵なヒーローになれるわ。いつか、守ってもらおうかしらね」
私の、お父さんとお母さん。
「じゃあ、約束! 私はヒーローになる! ヒーローになって、お父さんとお母さんを救ってみせるからね!」
二人はいつもにこやかで、優しくて。
小さな私を連れてよくいろんな場所に連れて行って貰ったり、一緒に遊んで貰ったり。
一番のお気に入りの時間は、昼下がりに三人で家の庭で過ごすひと時。
木漏れ日に当たりながら、力持ちのお父さんに肩車をして貰ってはしゃぐ私。楽しそうに笑うお父さん。そんな私達を見て、庭の中心に置かれたテーブルに座って紅茶を飲みながら嬉しそうに微笑むお母さん。
私の、大好きな人達。大切な人達。
だから、私がいつかこの人達を守りたい。ヒーローみたいに。
そして二人に、いっぱい喜んで欲しい。私をいっぱい褒めて欲しい。
そんな風に、思っていた。
お父さんとお母さんが、この世から去った。
交通事故だった。
幼い私一人だけが残される。
その時私はどうしていただろうか。
二人の亡骸に縋り付いたのだろうか?
お葬式で泣き叫んだのだろうか?
それがいまいち思い出せない。だだ酷く悲しかった事だけは覚えている。
余りにも唐突に、残酷にやってきた幸福な時間の「最後」。
私はその悲しみに、ただどうしようもなく打ちひしがれるしかなかった。
「約束……したのに……っ! 守るって、救うって……! ごめんね、お父さん、お母さん……。ごめんね……っ!」
月日は流れ、私は高校生になっていた。
授業中。自然と、私の視線は窓際にあるその席を向いている。
高山光司、という名の男子生徒の横顔を。
彼は、このクラスの人達から敵視されていた。頭が一番良い、ただそれだけの理由で。
ここの人達は彼の事を、「俺達を見下してる、最低な奴」とか、「私達とは絶対に分かり合えない、化け物」とか、そんな事を言っていた。
――そう、なのだろうか? 私には、そんな風に思えなかった。
だってぼんやりと窓の外を除いているその様子は、余りにも普通の男の子で。みんなと同じものを、同じように感じているみたいで。
でも、だからこそ彼はとても寂しそうで。
……違う、彼は何も感じない化け物なんかじゃない。
彼の心は、きっと今までもその敵意、悪意の全てを受け止めてきたのだろう。だから冷めきって、疲れきってしまっている。
多分彼も私と同じ。大切なものを失くしてきたようだった。その辛さを知っているようだった。
だったら、私が彼を助けてあげたい。
少しでも、彼のそんな心を癒してあげたい。
お父さんとお母さんは救えなかった。
だから、今度こそは。
私の心には再び、幼い頃にあった正義感が戻っていた。
私は、彼と話し始めた。
最初は拒絶されていたが、次第に話してくれるようになった。
話し始めてみると、彼は意外にもおっちょこちょいな所があって、落ち着きが無くて、それが何だか可愛らしくて。
そして、とても優しくて。
「……五十鈴」
「ん、なに? 高山君」
「その……ありがとう」
そう、照れ臭そうに言う彼。その言葉を聞いて、私も思わず嬉しくなる。
「ううん。高山君も、いつもありがとうね」
私もそう返す。すると彼は少しだけ驚いたような顔になったが——彼もその端正な顔をゆっくりと綻ばせてくれるのだった。
それを見て、ああ、彼とこうやって話せるようになって良かったと思って。
私は彼を救えているんだなと、彼の心を癒してあげられているんだなという実感があって、嬉しくなって。
……同時に、彼のそんな笑顔を見て、自分の胸が高鳴ってしまっているのも感じていた。
家に帰る。私一人だけが住む、その家に。
かつて、お父さんとお母さんと一緒に過ごしたこの家に。
仏壇で、二人の遺影に手を合わせる。
その時、私はかつてここで過ごした三人での時間を思い出してしまう。
——おいおいこらこら。全く、文歌はいつも元気だなぁ——
——もう文歌ったら甘えん坊さんなんだから。ふふっ、でもあなたはいつもお利口さんね——
——お父さん、お母さん。大好き! えへへ、ずっと一緒にいてね!——
「……ッ!」
思わず、唇を噛みしめる。
……駄目だ。
また私は、泣いている。
お父さんとお母さんの前なのに。
泣くまいと努めているのに。
私は未だにその死を思い出して、一人泣いてしまう。
「どんな悲しみにも負けない、そんなヒーローみたいになりたいのに……。でも……やっぱり無理だよ……こんなの、乗り越えられないよ……。辛いよ……悲しいよ……お父さん、お母さん……っ!」
二人の死から十年。
私は未だに、「ヒーロー」にはなれずにいる。
◇
「……ん……」
激動の一日から一夜明けた朝。ベッドで寝ていた高山君はゆっくりと目を覚ました。
「……おはよう。高山君」
そんな彼に、そばに椅子を置いて座っていた私は上手く微笑みかける事は出来ただろうか。
「……五十鈴……ここは……」
「秘密基地だよ。ココロちゃんが高山君をここまで運んでくれたの」
「ココロ……が……」
そこまで呆然とした様子で言った彼だったが、急に思い出したかのようにハッとした表情になると、急いで何かを探すように辺りを見渡す。
空のベッドが、三つ。ここには今、私と高山君しかいなかった。
「おい……! マイは……!? マイは、どうなったんだ……!?」
あの子達を――ココロちゃんと、そしてマイちゃんを見つけられなかった彼は、私に縋るようにそう聞いてくる。
「……」
「五十鈴!!」
そんな彼に対して、躊躇った後に私はありのままに伝える事しか出来なかった。
「……殺した、とだけココロちゃんは言ってた。あの子自身も、酷く辛そうに」
「……」
私の言葉に彼はその顔に絶望を浮かべ、そのまま俯いてしまう。
「……ココロは、どうした?」
「すぐに、どこかへ行っちゃった。……あの子もきっと、高山君と一緒にいるのが辛かったんだと思う」
「……そうか」
そう言うと、彼は病人のような生気の抜けた顔でこの部屋を眺めた後に、また悲しみで歪めて頭を抱えてしまう。
「……死ん、だ……。目の前に、いたのに。笑っていたのに。でも、何も出来なかった……。マイはもう、この世にはいない……もう、どこにも……っ!」
「……高山君」
彼も気付いてしまったのだろう。今この秘密基地が平穏に存在している事自体が、マイちゃんがいなくなってしまった何よりの証拠なのだと。
この世界を守るために、ココロちゃんがマイちゃんを殺したのだと。
「……本当に、大切だったんだ、失いたくなかったんだ……。だから……足掻いた、頑張った……っ! ……でも、結局これが結末。誰も救われない、あいつも……そしてココロも。……どうして……どうしてこんな……『終わり』は……!」
唸るように、そう呟く。まるで途方もない罪を犯した罪人の懺悔のように、苦しそうに言葉を絞り出す。
彼はとても辛そうで、酷く疲れている様子で。見ているこちらまで胸が締め付けられる。
「……お願い、高山君。今はあんまり思い詰めないで、ゆっくり休んで。あなたにまで何かあったら、それこそココロちゃんも、そしてマイちゃんだって悲しむと思うよ。今、温かいスープを作るから、ね?」
そう言って、私は焚き火の上に金網を張る。鍋もあるし、ちゃんと食材もあった。
スープを温めている間、高山君は一言も話さなかった。ただ、ベッドで上体を起こしたまま下向いた状態で微動だにせず、本当にまるで病人のように。
そんな彼の様子を心配しつつ、私は昨日の夜交わしたココロちゃんとの会話を思い出していた。
夕方頃、私の家があった場所の前で呆然としていた私を巡回中のジン達が発見。また秘密基地に戻されてしまったが、抵抗する気力すらもうなかった。
そして夜もかなり更けてきた頃に、高山君を担いで来たココロちゃんが戻ってきた。
「……ありがとう、ジン。もう戻っていいよ」
「ココロちゃん、その肩どうしたの!? は、早く治療を……!」
「私の事はいいから。どうせすぐ直るし。それよりもフミカ、コウジをお願い」
俯いたままそう告げて高山君をベッドの上に寝かせると、彼女はそのままここを出て行こうとする。
「コ、ココロちゃん……! マイちゃんは……?」
「殺した」
「……ッ!」
立ち止まる事もなく、あまりにも淡々とその事実を告げる。
そこにいつもの明るいココロちゃんの面影はどこにもなくて。
そして、とても辛そうで。
「ま……待って、ココロちゃん!」
必死の呼びかけで、ようやく彼女は入り口で止まってくれた。
「あなたは一体、何をしようとしているの!? どうして世界を滅ぼしたの!? お願い、教えてよ……!」
「……言ったでしょ。教えられないって」
こちらを見ないまま、彼女は簡潔にそう答える。
「……ッ! 高山君の、ためなんでしょう……!?」
思わず叫ぶと、今度は僅かに反応を示した。すかさず、私は現状の推測を語り始める。
「方法も、それが故意にか事故かも分からないけれど、あなたは確かに世界を滅ぼした。だからあなたは、世界を掌握するに至った」
彼女は何も言わないが、動く事は無かった。だから構わず続ける。
「でも、あなたはただ世界を支配したいわけじゃない。何か別の目的があって、だから世界を滅ぼしたんだ。……それがきっと、私や高山君に関わる事なんだよ」
だって彼女は現に、神様を気取っているわけでもない。どころか、私達に隠してさえいた。
私達を、服従させる事も無かった。
「ねえ。ひょっとしてあなたは、私達のために世界を滅ぼしたの?」
「……それはまた、何ともおめでたい解釈だね。私はそもそも、キミ達の事なんて眼中にも無いのかもしれないんだよ?」
「そんなに大切そうに、高山君を連れ帰ってきて?」
「……」
今度こそ、ココロちゃんは沈黙した。
ひょっとしたら世界が滅亡する前、私達が忘れている記憶の中で、ココロちゃんは私達と知り合っていたのかもしれない。だから、人類を滅亡させても私達だけは残したのだろうか。この失った記憶も、彼女が意図して奪ったものなのかもしれない。
私達は、友達だったのかもしれない。
彼女は本当に、私達――そしてマイちゃんの事だって大切に思っている。そんな事、今までの表情を見れば分かった。
眠っている高山君を見つめる、憂いるような眼差しも。
殺したとだけ告げた言葉ににじみ出ていた、悲しみと苦悩も。
それは本気で、マイちゃんの死を悲しんでいるから。
そして、高山君を心配しているから。
そんな顔をする人間が――
「ココロちゃん。きっとあなたには悪意はない。こんなにも人思いな悪者なんか、私は知らない」
「……あらら。キミはいつから、名探偵を目指し始めたんだっけ?」
「……ココロちゃん」
往生際の悪く茶化すようにそう返す彼女に対し、私は言葉に少し怒気を込めた。すると彼女は観念したように溜息を付き、今度はこちらへ質問を返す。
「それで、仮にそうだったとしたらキミはどうするの?」
「……あなたが悪い事をしようとしていないって分かったなら、私はそれを邪魔する事はしない。どころか、あなたがまだ何かをしようとしているならそれを手伝う。どう、悪い話だとは思わないけれど?」
「ふうん、交渉のつもり? 必死だね。……そんなに、真実を知りたいの?」
「……」
子馬鹿にしたような態度の彼女に対し、私は沈黙で肯定する。その気になれば、私達など無理矢理服従させる事が出来そうな彼女に対しては、交渉材料にすらならないのかもしれないが。
それでも、私は縋るような思いだった。
私は、あの黒い記憶のカケラが見せてきた映像が頭から離れなかった。
全てが、燃えていた。あれが「世界の終わり」。
どうしようもない、最後。
それがとても、ココロちゃんが望んで起こした事のようには思えなかったのだ。
だからなぜあんな事が起こってしまったのか、一体そこに至るまでに何があったのか、それを私は知りたい。
だがココロちゃんは、振り返った。
その顔は険しかった。怒っているようにすら見えた。
「でも、駄目。絶対に教えてなんてあげない。キミはただコウジのそばにいてあげて。それだけでいいから」
「どうして……!? それは、高山君のためなんでしょう!? だったら、私だって協力は惜しまない! それを、どうしてあなたは一人で成そうとしているの……!?」
なびく様子を微塵も見せない彼女に対し、焦りを覚えながらそう訴える。
もちろん、彼女を心配する気持ちだって強い。
どうにも彼女は今、一人で何かを抱え込もうとしている。それを私達には明かそうとはせず。
それが結果として、ココロちゃん自身に大きな負担を与えているようにしか思えない。
そんな事なら、私に相談してくれてもいいのに。
味方だと分かった彼女を――友達だったかもしれない彼女を私は助けたい。
だがココロちゃんは首を振り、こう告げる。
「キミには教えられない。……だって、どうせ教えた時点でキミは動けなくなってしまう、何も出来なくなってしまう」
「……何……それ……? ねえ、いいから教えてよ……! そんなの、言ってみないと分からないじゃん……!」
訳が分からない。そんな事を言われてしまっては、ますます気になってしまうではないか。
ムキになってそう返した直後、だが私は鳥肌が立った。
ココロちゃんは、笑みを浮かべていた。
それは昨日も見せた、私を嘲笑うかのような微笑みを――
「無理だよ。過去の重みすら背負いきれず、押しつぶされかかっているキミには。そうでしょう? ――『ヒーロー』にはいつまで経ってもなれない、可哀想なフミカ?」
「……ッ!?」
思いもよらない言葉を掛けられ、愕然となる。
「……どうして……そんな事を、あなたが……」
私のその問いに、彼女はやはりその微笑みを崩さずに答えた。
「分かるよ。――君の事なら、全部」