虚しき終焉
◇
そんなもの、突然やってくるのだと分かっていた。
最近はすっかりと寒くなっていた。
雪が降るのはまだもう少し先になるのだろうが、思わず身が縮こまってしまうほどには空気が冷たい。
そんな曇り空の夕方。猫はまた、今日も彼らが来るのを橋の下で待つ。
今日は、何をするのだろう。
今日は、何を持ってきてくれるのだろう。
今日は、どんな表情を見せてくれるのだろう。
今日の事を、考えていた。
未来の事を、考えていた。
そんな自分を、ふとおかしく思ってしまう。
――少し前までは、一歩先の未来すらも見えていなかったくせに。
そんな自分が歩み始めた明日とは、とある人間達との明日だった。
人間の悲しみに触れた。
人間の覚悟に触れた。
人間の、愛に触れた。
あれほど忌避していたそんな人間達の感情を、許容した自分がいた。
受け入れたい。知りたい。その弱さも、醜さも、全て。それが、空虚なこの心を満たしてくれるものなのら。
――だからどうか、これからも……。
こちらへ近づいてくる足音が聞こえてくる。また、あの笑顔がある。
そう、猫は顔を上げて――
蹴り上げられた。
「……」
急な腹への衝撃で、しばらく呼吸も出来なかった猫へ、さらに容赦ない追撃が襲い掛かる。
蹴られる、殴られる、毛を引っ張られる、罵声を浴びせられる。
――痛い、痛い、痛い、苦しい。
抵抗すらも出来ない中、その顔を見ている事だけは出来た。
恨み、怒り、妬み。そんな黒い感情がそこには詰め込まれている。
――後悔しろ――
――ざまあみろ――
――これが報いだ――
ああ、そうだとも。これこそが人間の本性だとも。
誰もが心に醜さを抱えている。誰もが欲望を持っている。
それを、誰かにぶつけずにはいられない。
そうでもしなければ、そんな自分の弱さすらも許せないのだから。
自身が強いと、優れていると言いたいから誰かを壊す。
自分が悪いと認めてしまう事だけは出来ないから、自分と違う誰かを悪だと定めて貶める。
本当に、救われない。
どうしてこうも――生き物とは醜い。
ボロボロで、身体が動かない。
横たわる河原の冷たい石に、体温が奪われていく。
それはあの日の状況にも似ていた。
死にゆく自分に、手が差し伸べられたあの日に。
ああ。それでも、自分を助けてくれたのもまた人間だった。
猫もまた醜くも誰かを呪い、そして誰かを想うのだ。
いつの間にか、次の瞬間も彼らと居られる未来ばかりを夢見ていた。
その終わりは、考えてもいなかった。
――そんなもの、突然やってくるのだとわかっていた、はずなのに。
薄れていく意識の中。猫はそれでも少年と少女の顔を思い浮かべていた。
――コウジ。
――フミカ。
◇
生きる事は、素晴らしい事。
それは、あの子が最期に言っていた言葉だった。
決して私達とは相容れない存在と知りながら、その運命からは逃れられないと知りながら。
それでも、あの子の最後の笑顔は満ち足りたものだった。
この世界に愛を抱き、逝った。
彼女は、果たしてこの世界で生きてくれたのだろうか?
こんな色を失った世界しか知らなかった彼女は、幸せだったのだろうか?
――そうだね。生きたんだ、あの子は。
人ならざるものでありながら、誰よりも人であろうとした。
作り物の身体でありながら、その内に本物の心を宿し、たくさんの感情を抱いた。
誰よりも強く、苛烈に、その生を望んだ。願った。そして生き抜いた。
あの子は、最後まで人だった。
……私だって。
そう、私だって。いつしか彼女を作り物とは見られなくなっていた。
話すうち、一緒にいるうち、私が彼女に抱いていたこの親愛は、とても強いものになっていて。
もっと彼女が生きていれば、私達の関係も変わっていたのかもしれない。
「作り物」と「マスター」という主従の関係ではない――やがては「友達」に、なれていたのかもしれない。
一緒にいて、言い合って、笑い合って。
――だったら、きっと凄く嬉しかった。
でも、彼女はもういない。
話す事も、動く事も無い。
心も、もう抱けない。世界を見る事も出来ない。
あの子は――「マイ」は、この世界から消えた。
私が、その手で殺したのだから。
◇
マイとの死闘から一夜明けた今日の朝。
昨日とは一転、空は曇っていて灰色の世界は一段と澱んでいた。
私は一人、被害の確認のために街を歩く。
街の中自体に目立った損傷があるわけではない。だが、歩いているうちに突如目の前でビル群が不自然に途切れた。
そこは昨日、「漆黒」による破壊暴食が行われた場所。河川に掛かる橋が「あった」場所を中心に、建物や道路が綺麗に無くなっている。
これが、たったの一分足らずで引き起こされた事なのだと――
「……」
だが、そんな思考すらも横に置いてしまっている自分がいた。詳細な被害を把握して、早くジン達に直してもらわなくてはならないのに。
眠れてはいない。昨日の事が頭から離れなくて。
この胸の痛みは、そう簡単に和らいでくれそうもなくて。
あの後、「マイだったもの」は影となり霧散していった。
ゆっくりと、この世界で造られたものが、その一部へと戻っていくかのように。
――輪廻、なんて言葉を私は思い出していた。
生命が死ぬと、その命は転生し、また新たな生命に生まれ変わるのだとか。
生命は、何度でも転生を繰り返してここにいるのだという話だ。
だが私は、その話をあまり信じる事は出来ない。だって生命が死ねば、その肉体は土へ還るだけなのだから。
しかし、その土からまた新たな生命が生まれてくると考えるのならば、それはある意味転生したとでも呼べるのかもしれない。
ならばその生命に宿っていた命は――心はどうなる?
仮に「転生」があったとして、その生命に元の心があるとでも言うのか?
前世の記憶なるものがあるとでも?
いつか生まれ変わった彼女は、私達を思い出せるとでも?
そんなの、なんとも都合の良すぎるおとぎ話だ。
私達は所詮、「今」しかこの心を保つ事は出来ない。
失った命は、思いは、もう二度と戻りはしない。
マイが宿した心も、もう世界のどこにもありはしない。
ずっとずっと、途方もない感情が私を苛んでいる。悲しみ、罪悪感――後悔。
――嫌……だよ……! まだ、生きていたいよ……! 死にたく、ないよ……っ!!――
「……っ!」
気持ちの抑えが利かず、思わず横にあったビルの壁を殴っていた。
私は、一体何をしているのだろう。
なんでこんな思いをしなくてはならないのだろう。
「……後悔はないって、言ってあげられたのにね。裏切らないでよ、私……」
壁を殴った、包帯に巻かれた左腕がとても痛い。昨日彼女から受けた傷が疼く。
本当はこのまま、泣き崩れてしまいたかった。ごめんなさいと、その言葉をこの灰色の空の下で叫んでしまいたかった。
だが、私はそれを寸前で堪える。
足は微かに震えてしまっているが、まだ立っていた。
言葉は、歯を食いしばって必死にその内にとどめていた。
まだ、終わりじゃない。まだ、コウジとフミカがいる。この世界も。
マイを殺してまで守った世界で、私は目的を果たさなくてはならない。
でなければ、命を奪ったあの子に顔向けが出来ない。
(だから……私は……!!)
感情に押しつぶされそうになりながらも、それでも私は再び歩き始める。再び前を向く。
「私は、自分に負けない……! 例え自分の思いを犠牲にしてでも、私は……!」
――それが、それだけが、今の私の存在理由だった。
分かっている。この「終わり」は、もうどうしようもなく悲劇でしかないという事くらい。
もう、間に合わないという事くらい。
でも、それでも。
私は、祈るしかないのだ。
この旅路の果ては、陽だまりのように温かく明るいものであって欲しいと。
どうかこの「終わり」は、尊いものであって欲しい、と。