月下の舞
「……ッ!?」
マスターは、驚いていた。
そしてあたしも、同じか、それ以上に驚いていた。
マスターが向けた、あたしの心臓を捕え、確実に殺すはずだった刀の刺突。
それが、あたしが咄嗟に繰り出した横殴りの拳によってはじかれ、あたしの左肩を掠めていた。
「マイ。キミは……?」
彼女は刀を戻し、あたしから一歩距離を置く。
あたしは今、何を……?
呆然と、彼女の刀を止めようと動いた左手を見る。
思い出が、脳裏に浮かび上がった。
みんなで遊んだ。
あの人達も、あたしも、楽しそうに笑っていた。
あの人達に、色んなものを見せて貰った。
世界の広さに胸を打たれた。たくさんの感情が流れ込んでくるのを感じた。
あの人の笑顔を見た。あの人に頭を撫でて貰った。
その度に、この胸は高鳴っていた。
色んなものを見て、触れて、感じて。そうやって生きて。
たった数日の事なのに。それでもこの記憶は掛け替えのないもので、大切なもので。
そして――
「そっか……、あたし……」
そして今更ながらに、あたしはずっとこの胸の内にくすぶっていた感情に、この願望に気がついていた。
「あたしは……まだ……」
――ああ、そうだ。あたしは、まだこの思い出を見ていたいんだ。
この夢の続きに、まだ縋っていたいんだ。
こんなにもあたしは、この世界が――大好きだったんだ。
だから。だから……!
「嫌……だよ……! まだ、生きていたいよ……! 死にたく、ないよ……っ!!」
生きて。世界を見続けて。そうしていつの間にか心に芽生えていたこの思い。それが、初めてあたしの口から漏れていた。
「……マイ……」
「まだ、お別れなんて嫌だ……っ!! もっと、あなた達といたいよ……!! もっと、この世界を見ていたいよ……!!」
涙が止まらない。感情と共に、それは溢れてくる。
「また、雪合戦がしたい! 他の事でも、もっと色々遊びたい! もっと、綺麗な景色がみたい! もっと、料理を教えて欲しい! また、頭を撫でて欲しい……っ!」
あたしに宿った心。偽物でしかなかったあたしが持つ事の出来た、たった一つの本物。
それが今、猛烈にあたしの中で「生きたい」と吠えている。
だから、あたしは叫ぶ。
「あたしは、生きたい!! 生きて、もっと色々な事をこの心で感じたい!! だってこんなにも――生きる事は楽しいんだって、あたしの心は知ってしまったから!! それを失うのは、とても悲しい事だって分かってしまったから!! だから……っ」
マスターは、じっと黙ってあたしの言葉を聞いていた。
静かに。そして、さっきまで見せていた悲しみをその顔から消して。
聞いて、やがて彼女はこんな事を言ってくる。
「――だったら、抗ってみなよ」
「……え?」
マスターから出たあまりにも予想外な言葉に、あたしは呆然となる。だが構わず彼女は続けた。
「『戦う』。それだって生きていく上ではとても重要な事なんだよ。誰しも生きていく以上何かとぶつからなくちゃいけない。生きるって事は、死を乗り越え続けるという事でもあるの」
そう言って、マスターはあたしに何かを放ってきた。
「……ッ!?」
それは、彼女に奪われていた機関銃だった。とても見慣れた、あたしの相棒。
「……私に課された運命は変わらない。キミを殺すしかない。でもキミが『生きたい』と言うのなら、キミがそれを勝ち取ってみせなよ。私もそれに向き合うから」
彼女は刀を、鋭く伸びた鉄の刃を顔の左に構え、上向きの切っ先をこちらに向ける。
「――だから見せてよ、キミの『心』を。信じさせてよ、キミから生まれたものが、決して後悔と悲しみだけではないという事を……!!」
「マス、ター……」
客観的に述べれば、彼女の行動はあまりにも愚かだ。
早く世界から消し去らなくてはいけない対象に、武器を与えてくるとは。
彼女が仕掛ようとしているのは、まさにこの世界の命運を掛けた戦い。あたしが勝てば、生き残ってしまえば、この世界は大変な事になってしまう。
――それでも、彼女はこの戦いを望んでくれた。あたしのために。
だったらあたしも、彼女のために。
そして、あたし自身のために。この決闘に全力で応えたい。
「あたし、は……!!」
立ち上がる。残された、全ての力を込めるように。
あたしは機関銃を担ぎ、構える。
マスターは刀の刃先を横に向ける。
「私とキミは丁度一勝一敗だったね。今回は雪合戦ではない、本当の命のやり取りになるけれど。——さあ、今度こそ決着を付けるよ、マイ……ッ!!」
「……ッ!!」
空には綺麗な灰色の満月が出ていた。その光にこの海が照らし出される。
「「はあああああああああああああああっっ!!」」
潮風が舞い、海の飛沫が煌めくその月下の砂浜で。
あたしは、あたし自身と向き合うための最後の戦いを始める。
「はあっ!!」
マスターが接近してくる。右手に持ったその刀の刃先を、あたしに向けて。
相変わらず素早い動き。しかし、ここは砂浜だ。足を取られて、いつもより若干動きが鈍い。
「……ッ!!」
あたしはそれを機関銃のボディで防ぐ。鉄同士が打ち付けられる音が響いた。
そのまま、あたしは開いた左手で彼女の刀の柄を握る。
「くっ……」
彼女の握力から刀を取り上げる事は難しい。恐らく押し負けてしまうだろう。
「はあああああっ!!」
だからそのまま、刀ごと彼女を海へ向けてぶん投げた。
そして宙に浮いたままの彼女に機関銃を向ける。
「あたしは……死なない!! 勝つ!! 勝ち取ってみせる!! 絶対に!!」
轟音。機関銃による、圧倒的な連射。
この相棒はあたしの思いに答えてくれているかのように、いつもよりも激しく唸りを上げる。
放たれる無数の弾丸。
砂浜で砂が巻き上がる。
海で盛大な水しぶきがいくつも上がる。
マスターに向けた、無機質で、激情的な殺戮の波動。
しかしマスターはそれを、刀で防ぎ始める。
「なっ……!?」
放たれた凄まじい量の弾丸のうち、彼女に迫る弾丸だけを見極め、そこに正確かつ素早く刀を振り下ろしていくという、とんでもない神業を披露してみせた。
切り裂かれた銃弾は軌道を逸れ、一つも彼女に当たる事は叶わない。
彼女には、迫る銃弾がスローモーションにでも見えているのか。恐怖とも戦慄とも、歓喜ともつかないそれが、胸中を占める。
敵ながらあっぱれ。まさに全力を尽くすにふさわしい相手というもの。
そのまま、彼女は海の中へと突っ込んでいった。
今の攻撃は防がれた。だが、彼女を海へ突っ込ませる事が本来の目的だ。
水しぶきが上がった所に、姿を現した瞬間に無数の弾丸を撃ち込んでやる。水中で身体の動きが鈍くなっている彼女に、それを凌ぐ事は困難なはずだ。
しかし、彼女はなかなか上がってこない。
「そのまま潜り続けられるとでも、思っているのですか……っ!」
いつでもどこにでも撃ち込めるように、神経を研ぎ澄ます。有利な根競べ。いくら彼女でもずっと水中で息が続くはずはない。
やがて、海面から水しぶきが上がった。
発砲を開始し――しかし、呆然となってしまった。
なぜならその水しぶきの中から飛び出してきたのはマスターの上半身と、両手に持つ複数の刀だったのだから。
両手指の間にそれぞれ一刀というデタラメな持ち方をした彼女はそれらを格子上に構えただけで、こちらの弾幕を防ぎきってしまう。
更にはそのまま両手を振り上げ、それらをこちらに向けて凄まじい速度を乗せて投擲してきた。
(しまっ……!)
撃つ事に集中してしまっていた分、そのいきなりの反撃に対応出来なかった。
避けきれず、飛来してきた刃達があたしの腕を、足を、横腹を掠め、切り裂く。
そして一本は、完全にあたしの左肩に刺さってきた。
「があああああああっ!!」
激痛。思わず肩を抑え、うずくまる。機関銃を落としてしまう。
その隙を見逃すマスターでもない。今度こそ海から飛び出し、右手に持っていた新たな一刀をまたこちらに向けて迫ってくる。
「……ッ」
機関銃を拾っている暇はない。
あたしは肩に刺さった刀を激痛も御構い無しに、血しぶきと共に無理矢理に引き抜く。それで、彼女の刀を受けた。
数回に渡る刀同士の打ち合い、鍔迫り合い。
マスターが連れて来た海水の雫。あたしから出て行く血の雫。それらが潮風を受け、真紅と白銀の花びらとなって両者の間を舞う。
足元では踏み込む度に砂が撒き上がり、月の光で乱反射して星のように煌めく。
何度も刀と刀の間で飛び散る銀の火花。動きに遅れて、軌跡を描き続ける刃の輝き。
いくつもの光が交錯するそこは、余りにも幻想的で、綺麗で。
――花鳥風月。こんな時にあたしは、本に載っていたその言葉を思い浮かべる。
この世の不変の価値観とは、自然の生み出す神秘に対するもの。悠久の昔から、人々はその奇跡に憧憬の思いを馳せ、夢を見てきた。
花も、鳥も、風も、月も、それらの織り成す景色は美しいのだと。
だが光と死のみが溢れるここには生憎と花と鳥の風雅さは切らしてしまっているはずなのに、この刹那は張りつめられた美に強く彩られているように思えた。
否。それとも、ここでの花と鳥とはあたし達自身を指し示すのか。
月光の元で、少女が二人舞う。
それは命そのものを燃やして煌めくが如く、酷く苛烈に、優雅に、優美に――
やがて、あたしは隙を伺って機関銃を拾う。
それを見て、マスターも一旦距離を取った。
「う……ぐ……」
負傷の身で無茶をやらかした代償は大きい。遅れて来た耐えがたい左肩の激痛があたしを苛み、刀を捨ててそこを押さえる。
向こうも飛び道具紛いの芸当が出来る事が分かってしまった。こっちの弾丸は刀一本で止められる。
やはり、彼女はとんでもなく強い。勝機などほとんど見えてこない。
……それでも。
「負け……ない……っ!」
ふらふらになりながらも、血を流しながらも。
それでも、あたしは倒れない。
機関銃の連射を、再び開始する。
もちろん、彼女の俊敏な動きで弾丸は防がれていく。当たる事はない。
それでもあたしは撃つのをやめない。全力で銃を繰る。
その思いの全てを、銃弾に込める。
「生きるんだ……あたしは生きるんだ!! まだ、この世界に残っていたい!! もっとあなた達と話がしたい!! もっとこの芽生え始めた感情と向き合っていたい!! もっと、世界を知りたい!! 当たり前の事を、当たり前のようにやりたい!! 負けない!! あたしは、絶対に負けない……!!」
叫ぶ。それが、更にあたしの心を鼓舞する。
「くっ……!」
放たれ続ける弾丸、それらを全て正確に動き回るマスターに向ける。もう一発も外さない。
マスターはそれらを防ぐ一方で、接近が出来ない。刀を生成する暇ももう与えない。
ただ一撃、その刃をあたしの心臓に突き立てれば全てが終わるが、それをする事はもう叶わない。その前に、あたしの銃弾が彼女を撃ち抜く。
これが、あたしの全力。
マスターと、文歌と、そして光司と。彼らと作った大切な記憶、思い出。この温もり。
それを守りたくて、そしてその先をもっと見たくて。そのために、あたしは戦う。
それが、色々なものを感じて、そうして生きた末にたどり着いた思い。あたしの、あたしだけの気持ち、心。
きっとあたしの生で一番意味があるとするのなら、それは今この瞬間なのだろう。
「あああああああああああああああああああああああああああっっ!!」
これはそんなあたしの思いが成す、全身全霊の激情の嵐。
「生きたい」。その願いの強さ。
それを、全てマスターに叩き込む。
「……そう」
そんな、あたしの銃弾を受け続ける中。
マスターは、微笑んでいた。
まるで、我が子の成長を喜ぶ母のように。
「これが、キミという存在の答えなんだね。……じゃあ私も、全てをぶつけなくちゃね……!!」
そしてあろう事か、彼女は空いた左腕を自分の顔の前にかざすと、刀で弾丸を防ぎながら無理矢理にあたしの方への前進を開始した。
「なっ……!」
横に避け続けて、時には後退して。そうしながら刀で防いでいってやっとあたしの猛攻を凌げていたのに、あろうことかここで前進?
そんなの防ぎきれるはずがない、自殺行為だ。
案の定、あたしの弾丸の幾つかが彼女の刀を掻い潜り始めた。
それらが彼女の身体を掠め――そしてかざしていた左腕も打ち抜く。
「ぐ……ッ!!」
彼女の顔が苦痛で大きく歪む。腕とはいえ、銃弾を彼女はもろに受けた。
でも、彼女は怯まない。
左腕に弾丸を受け、血しぶきを飛び散らせながら、しかし止まる事はなくあたしに接近してくる。
顔を守るため、左腕は最初から捨てる覚悟だったのだろう。防ぎ続けていてもどうしようもないと考えたマスターの、相打ち覚悟の突入。
「……くっ……!!」
撃ち続けるが無理だ、彼女は止まらない。どんどんこちらへ近づいてくる。
「――改めて、聞かせて欲しい」
銃声が酷くうるさく聞こえる中、そんなマスターの言葉が何故かはっきりと聞こえた。
「ねえ、教えて。キミの名前は、なんて言うの?」
「……ッ!」
それは、いつかどこかで問われ、そしてあたしには答える事の出来なかった質問だった。
「……あたしは」
それに――
「――あたしは、マイだ!!」
それにあたしは今、憶する事なく全身全霊の叫びで答えた。
「それが、あたしの名だ!! あなたが、あたしに付けてくれたものだ!! あたしを、あたしというただ一人の個を示すための、あたしにとってとても大切な言葉だ!!」
絶対に手放す事はない。ずっと背負い続ける。
みんなにこの言葉を呼んでもらったから。あたしもこの言葉を認めたから。
これこそが、あたしがあたしであるという証だから。
一瞬の沈黙の後に、マスターは再び問いかける。
「ねえ、教えて。キミは、何者なの?」
「あたしは、人間だ!!」
また、あたしは心のままに叫ぶ。
「今、この世界に生きているただの一人の人間だ!! 苦しんで、悲しんで、喜んで、誰かを想って、そうやって生き続けている! それ以外の何者でもない、あなた達と何一つ変わらない人間だ!!」
もう、迷わない。世界にそれを否定されようとも、あたしがそれを肯定する。
たくさんの思いが芽生えたから。たくさんの望みを抱いたから。
誰かと生きる事を、知ったから。
そう言い切った自分の口に、笑みが零れている事が分かった。
しょうがない。だって、凄く嬉しかったから。
光司、文歌、マスター。どうでしょうか? ようやく、答える事が出来ました。褒めてくれますか?
やっとあたしは、あたしを見つける事が出来ました。
「……そっか」
マスターはあたしの目の前に来ていた。そして、あたしの機関銃を勢いよく蹴り飛ばす。
「……ッ!!」
その衝撃で機関銃がばらばらになりながら手から離れ、影を霧散させながら消えていく。もう、使えない。
――ありがとう。本当によく、頑張ってくれた。
あたしは、左手で懐にある拳銃を取り出した。その銃口は、マスターへ向けられている。
マスターも、切っ先をあたしに向けている。
決着の瞬間だった。
「終わりだよ、マイ。もう……眠りなよ」
「あたしは……あたしは……ッ!!」
銃声と衝撃。両者は振動となり、辺りを揺らした。
「……」
「……」
衝突の余韻が、周囲で僅かに残る。砂が緩やかに撒き上がり、波が静かな音を立てる。
戦いは、終わっていた。
あたしの放った銃弾。それはマスターの左肩を打ち抜いていた。もう彼女の左腕は本当に使い物にならないだろう。大きな損傷であることには間違いない。
だが残された片腕、彼女の放った右腕の刀による刺突は――あたしの腹部を貫いていた。
「……あ……」
それを見て、あたしは少しだけ笑う。笑って、一筋の涙をこぼす。
「……そうか、あたしは……これで……」
刀が抜かれる。
ふらふらと後ろに後退しながら、最後に巨大ジンに保護されている光司の方を見て。
……そのまま、崩れ落ちた。
体が、動かない。
あれほど動けていたのに、もう動かす事が出来ない。
血が流れている。赤い血が、折角あの人に褒めてもらった服を赤く染めていく。
血は今のこの世界でも赤なんだなと、こんな状況なのにそんな事を考えていた。
「……キミの負けだよ、マイ」
そんなあたしの身体を、マスターは膝を付いてしっかりと抱きしめて支えてくれていた。
本当にたくさん、あたしは抱きしめて貰えた。光司に、文歌に、マスターに。
あたしに、温かな愛をくれた。
その抱擁は、今までで一番温かく感じた。だがそれが、あたしから体温が無くなりつつあるからだと思うと虚しくもなる。
「……ええ、あたしの負けです。かなり頑張ったんですけどね。やはり、マスターには敵いませんでした」
声を絞り出して、答える。
結局はこうなる運命だったのだろう。あたしには、生き残ることは出来なかった。
「やっぱり、何もかも無駄だったのでしょうか? あたしの戦いに、意味など無かったのでしょうか……?」
だが、マスターは優しい顔で静かに首を振った。
「そんな事はないよ。キミの『抗い』は、決して無駄なものじゃなかった。だって、キミは今この瞬間までは確かに生きているんだから。そう、生き延びる事が出来たんだよ、キミは。キミ自身のその心で、思いで」
「そう……ですか」
そうか。あたしの思いは、確かに今あたしを生かす事が出来ているのか。
戦い抜いて。全ての力を出し切って。全力を尽くして。こんなに頑張れた事が誇らしくて、満足で。そう感じられるのは、今あたしがこうして生きているから。
だからなのだろうか。負けたというのに、これから死んでいくというのに。
こんなにも気持ちが軽いのは。
「あたしは、生きた……生きたのですね……」
これ以上生きることはもう出来ないけれど。
それでも、あたしは全力で生きた。生き抜いた。
だから、こんな終わりも悪くはないのかもしれない。
「ねえ、マイ。聞かせてくれる?」
「なんでしょう」
「……どうだった? 生きてみて」
「……」
しばらく考えた後、あたしはこう答えた。
「実に……嫌なものでした。身体は傷つくし、心も傷つくし。動かなくちゃいけないし、しゃべらなくちゃいけないし。それと光司は……変態だし」
クスッと、マスターは笑う。
そう、嫌な事ばかりだった。このいじわるなマスターを少し恨みたいくらいに。
どうして生き物は生を受け入れるのだろう。一人でいると寂しくなる。怪我をすると痛くなる。「死」は、怖くなる。本当に、ろくな事がない。これなら動かないほうが、生きていないほうがいい。
……でも。
「でも、楽しかった。光司やみんなといると、温かい気持ちになった。広い世界を見ると、澄んだ気持ちになった。色々なものを『見て』、『聞いて』、その何もかもを素晴らしいと『感じて』……満たされた。……ええ、あたしの『心』は満たされたんです。嫌な事も愛おしく思えるくらいに。だから、あたしは生きたいって思えた。もっとここにいたいって思えた。……だからこそこう言います。生きていて、本当に良かったって」
これが、あたしの答え。
命のなかったあたしが、命を貰って生きてみた、その結論。
「――生きる事。きっとそれは、素晴らしい事なのでしょうね」
そう言うとマスターも微笑み、涙を溜めた目をそっと閉じる。
「……そう。キミはそんな風に言ってくれるんだね、良かった。キミのおかげだよ、キミのおかげで――私はやっと、キミを造って良かったんだって思えた。薄情にも、この後悔が消えちゃった。ようやく……報われた」
――良かった。マスター、やっとちゃんと笑ってくれた。
だが、ありがとう、とそう言い切る前にマスターは口を噤んでしまった。
「あぐ……ッ!」
突如、あたしの意識が黒く塗り潰され始めたからだ。
さっきも襲い掛かってきた、破壊の漆黒への「反転」。だが、これ以上はもう戻る事は出来ないだろう。
「マイ、マイ……!!」
叫ぶマスターに対し、あたしは最後の力を振り絞って拳銃を渡す。
「とど……めを……。あたしが……あたしで……無くなる、前に……」
「……」
その顔を悲しみに歪めたのも一瞬。
彼女は拳銃を受け取ると、銃口をあたしの左側頭部に向ける。
「あた……し……、満足に、生き……まし、た……」
薄れていく意識の中、それでもあたしはうわ言のように言葉を紡ぎ続ける。
「……うん」
それに対し、マスターは悲しみを押し殺した微笑みで頷いてくれる。
「あたし……は……、人間……でし、た……」
拳銃を握る、震える右手に力を込めながら。
最後に、また彼女は微笑んだまま言ってくれた。
「……そうだね。この世界で、凄いものを造ってしまったと思っていたけれど、なんて事はない。キミは――この世界に生まれた、ただの一人の人間だったよ」
そうしてあたしは最後に、銃声を聞いた。
これが、この命の知る最後の音。
あたしの全ての終わり。
途切れる寸前、その最後まで頭に思い浮かんでいたのは――みんながあたしに向けてくれた、その優しい笑顔だった。
――さようなら、光司、文歌、マスター。共に生きてくれて、本当にありがとう――