果てのわだつみ
二人で、その景色を眺める。
果てまで続く、雄大な黒。
聞こえるのは、穏やかな波の音。
横に長く続く砂浜。
ここが全ての、命の始まりの場所。
「う……み……。ここが……海」
マイはどこか微睡んでいるような様子で、しかし嬉しそうにそう呟く。
車を失ってしまったので随分と遅くなってしまったが、やっとたどり着く事が出来た。
ずっと、この子に一番見せてあげたかった場所だった。
「ああ。言った通りだっただろ? これ全部、水だ。生物の源の、水だ」
海はどこまでも暗くて、深くて。でもそれでいて温かくて、優しくて。
背負っていたマイを一旦砂浜の上にそっと降ろすと、彼女の手を引いてゆっくりと立たせてあげる。
マイを裸足にしてあげて、そして俺も裸足になる。また彼女の手を引くと、そのまま波打ち際まで移動した。
波が、水しぶきが、俺とマイの足に当たる。
「冷たい……」
「悪い。びっくりさせたか?」
「ううん……とっても、気持ちがいいです」
俺にゆっくりと引っ張られて歩くマイは、やはり嬉しそうに微笑んでいた。
しばらくその波打ち際を歩いてから、また砂浜の方に戻ってくる。
足元に、貝殻が落ちていた。それをマイは不思議そうに見ていたので、拾って彼女に持たせてあげる。
マイはそれをじっと眺めて、中を覗いたり、耳に当てたりする。
「……波の音が、聞こえてきます。この中にも、海があるのですか?」
「うーんちょっと違うかな。その音は、マイの身体が発している音が跳ね返って来ているだけだ。だから、海があるとすればマイの身体の中にあるのかもな」
「それはまた……不思議な事ですね」
その後も、他愛の無い事をして遊ぶ。
砂浜に、拾ってきた木の枝を使って絵や文字を二人で書いてみたり。
また波打ち際まで移動して、足跡をたくさんそこに付けて、それらがいつ波にさらわれて消えるのかを二人で眺めたり。
そんな事をして、時間は過ぎていく。
――終わりが、近づいてくる。
「……」
「……」
俺達は、自然と口数が少なくなってしまった。
今はただじっと二人で砂浜に立ち、海を眺めている。
しかし、しばらくしてマイが口を開いた。
「……光司」
「なんだ、マイ」
「この世界は……本当に広いのですね。見られて、本当に良かった」
「そうか。そう言ってくれると、嬉しい。今日張り切ってあちこち連れて行った甲斐があったよ」
「ええ。とっても色んな所をあなたと見られた。今日の思い出を、全部頭に詰め込め切れるか心配なくらいです」
「溢れさせてもいいんだぜ? そんだけお前に色々見せれたというのなら、それだけで俺は大満足だ」
「うーん、ですが、やはり溢れさせるのは勿体ないです。ですので、頑張って詰め込みます。全部、忘れません」
「……そっか。それなら、俺はもっと大満足だよ」
そう言うと、また彼女はふふっと笑って。
「……光司」
「なんだ、マイ」
「あたし、今……とっても楽しいです」
「……!」
思わず、俺はマイの顔を見る。
「今……とっても嬉しいです」
その顔は、やはり笑っていて。
本当に、嬉しそうで、楽しそうで。
「あなたのおかげです。あなたのおかげで……あたしは、『楽しい』を、『嬉しい』を、こんなにも知られた。本当に……ありがとう、光司」
「……俺だって」
途端、俺は今まで堪えていたものが、溢れ出してしまった。
「俺だって、楽しかった!! 嬉しかった!! お前と一緒にいられて……!! いっぱい話して……いろんなものを見て……!!」
俺の言う事に、彼女が笑って。時には怒って。
二人で、楽しいを感じて、嬉しいを感じて。
ずっとずっと、こんな時間が続けばいいのにと思った
ずっと、こうしていられたらいいのにと思った。
でも……もうそれは叶わない。
「畜生……畜生!! なんなんだよ……!! なんでこんなにも、残酷に最後がやってくるんだよ!! どうして世界は、容赦なくこんな時間を奪えるんだよ!! ふざけやがって……ふざけやがって……!!」
堪えるつもりだったのに、最後くらい笑顔でいようと思ったのに。
でも、結局俺は涙を零してしまっていた。
マイは、そんな俺の目の前にまで近づいてくると、小さな手で俺の涙を拭ってくれる。
「泣いて、くれるんですね。悲しんで、くれるんですね。あたしのために。……嬉しいな。マスターの言う通りです。あなたは、本当に優しい人。あたし、あなたに出会えて……本当に良かった」
そう言って、彼女は両手で俺の右手を取り、胸の前で包み込む。
「……マイ……」
「ありがとう、こんなあたしのそばにいてくれて。ありがとう、あたしといて、楽しいって、嬉しいって言ってくれて。光司、あたしは……こんなにも満たされました」
そう言って、また、とびきりに可愛らしい笑顔を見せた。
「あたしは……本当に——幸せでした」
急に、全ての感覚が鈍くなる。
視界が狭くなる。音が良く聞こえなくなってくる。
とても眠くなる。
(これ……は……!)
無理矢理振り返ると、砂浜の向こう側に、ココロと、そして核を震わせる巨大ジンの姿が見えた。
これは、前もやられた事がある。催眠派だ。
俺を、眠らせるつもりらしい。
ココロは、全てを一人で片付けるつもりらしい。
朦朧としてくる意識の中、彼女の顔ははっきりと見えた。
とても、悲しそうな顔をしていた。辛そうな顔をしていた。
拳を握るその手は、震えていた。
こんな真似、本当は一ミリだってしたくもないくせに。一番こんな結末を望んではいなかったのは、他でもない彼女のはずなのに。
――コウジ。私は、やるしかないの――
(なん……で……っ! どうして……お前は……っ)
抗おうとしてもどうしようもなくて。身体の自由は利かなくなってきてしまう。
俺は、砂浜の上に倒れ込みそうになる。しかし、その肩をマイが支えてくれた。
マイの顔が、目の前にある。
彼女は、笑ったまま――泣いていた。その頬に、一筋の涙を伝せて。
「マ……イ……! おれ……は……」
もう言葉すらも上手く出せない。
きっと、これが最後なのに。最後に見る、彼女の姿になるのに。
なのに、俺は……。
世界が傾く。意識が遠のく。
ココロの泣きそうな顔。マイの笑顔。その二つが走馬灯のように交互に脳裏にフラッシュバックする。
やがて完全にこの世界から遮断される寸前。俺は、マイの声を聞いた気がした。
――さようなら、光司。どうかあなたは――
◇
あたしの目の前で、光司は眠ってしまった。
いつもはちょっとだけ大人っぽくて凛々しい顔が、今は緩んでしまっている。
可愛い、だなんて感想を男の人に抱くのは、ちょっと失礼なのだろうか? でも、そう思ってしまったのだから仕方がない。
あたしは力の抜けてしまった彼の身体を支えながら、ゆっくりと砂浜に座り込む。そして、彼の頭を膝の上に乗せて撫でてあげた。……昨日あたしを撫でてきた仕返しで。
すると、少しだけ彼は気持ち良さそうに唸る。その反応がまた面白い。
この幸せ者め、と今度はその頬を軽く摘むと、今度はその眉根を少しだけ寄せる。それを見てまた少しだけ笑ってしまって。
そして、そのおでこに優しくキスをすると、最後にまた頭を撫でてあげた。
「おやすみ、光司。良き夢を」
――これが、最後だ。彼との、最後の世界だ。
「……マイ」
光司の頭に手を置いたまま海を眺めるあたしの後ろに、マスターと巨大ジンが立っていた。
「……光司を、お願いします」
あたしの言葉にマスターは頷くと、巨大ジンが動いて、彼を両腕で持ち上げる。
彼の頭が、あたしの膝から離れる。心を、どうしようもない虚無感が苛む。
光司を担ぎ上げた巨大ジンは、そのままマスターの後ろに控える。
軽くなってしまった膝を眺めたまま、あたしも、そしてマスターもしばらく黙ったままだった。
「マイ」
しかしやがて、マスターは再びあたしの名前を呼ぶ。
「キミを、破壊するよ」
「……ええ」
その言葉に、ゆっくりと頷いた。それから、振り向いてマスターの顔を見る。
悲しそうだった、虚しそうだった。
今からあたしを殺そうとする者の顔には、見えなかった。
「マスター」
「……なに?」
「ごめんなさい、迷惑をかけて。それと——今まで、ありがとうございました」
「……ッ!!」
彼女の顔に、はっきりとした動揺が浮かんだ。
「……なんで」
そして――叫ぶ。
「なんで、キミが謝るの!? お礼なんて言うの!? 悪いのは、全部私なのに!! 私は、キミに恨まれて当然の事をしているのに……っ!!」
初めて見せた、彼女の激情。本心。
光司が眠って、あたし達だけになって、彼女の感情がとうとう堰を切って溢れ出してきたようだった。
「最初から、望まなければ良かった……願わなければ良かった……!! それなら、折角生まれてこられたキミは死ななくて良かったのに!! 悲しみなんて、生まれなかったのに……ッ!!」
「マスター……」
彼女の苦悩、葛藤はこちらにも伝わってきた。
何もしない。きっとそれは、何においても一番最良な答えなのかもしれない。
だってそこには結果が生まれない。それに喜ぶ事も無ければ——悲しむ事だってない。
悲劇なんてものは、決して生まれない。
でも、だめだ。あなたがそれを言ってはいけない、望んではいけない。
進もうとしているのは、他でもないあなたなのだから。
だが、今のマスターは本当に弱ってしまっているようだった。
「どうして、こんな道しか無いんだろう……! 本当は、コウジにも、フミカにも、そしてキミにも、ただ笑っていて欲しかっただけなのに……! 私は、キミに何をしてあげられた!? 何も、してないよ……。何も、してあげられて無いよ……ッ!! それなのに、こんな……こんな事って……っ」
彼女は頭を抱えてしまう。下を向いてしまう。
……今だけは、あたしが許そう。マスターの嘆きを、懺悔を。
でも、これからはもう駄目だ。あなたには、これから前を向いてもらわなくてはいけない。
あの二人のためにも。
だからあたしは、そんなマスターに対して首を振った。
「……違います、マスター。あなたは、あたしに一番大切なものをくれました。この、命を」
「……え?」
その言葉に、彼女は呆然と顔を上げる。
「あなたが望まなければ、あたしはそもそもここにはいなかった。こうしてあなたと、あの人達とも出会う事も出来なかった。心も知らなかった。喜ぶ事も、悲しむ事すらも出来なかったんです」
あたしは今思う。それこそ、このあたしにとっては一番悲しい事だと。
だってこうして今まで生きていなければ、あたしは今まで見てきた事、感じてきた事すらも知られなかったのだから、無かったのだから。そんなの、一番嫌だ。
なぜなら、こんなに大好きな人達との思い出だけは、この胸の内にある大切な宝物だけは――まごう事なき本物なのだから。
「あの人が、言ってくれたんです。こんなあたしにも、本物があるんだって。この生にも、ちゃんと意味があるんだって……!!」
「マイ……」
呆然としたままあたしを見るマスターを、あたしも真っ直ぐに見据える。
だからこそ、あたしは言い切ってみせよう。
この結果は、結末は――決して悲しいだけのもので終わるものではないのだと。
「あなたは嫌かもしれない。それでも、あたしは言います。……ありがとうございます。マスター。あたしを産んでくれて。あたしに、生を与えてくれて。あたしは今、生まれてきて本当に良かったと、そう思っています」
「……!」
マスターは、また驚いたような顔になって。でも、次第にまた悲しそうな、泣き出しそうな顔になって。
「私は……私は……ッ!!」
右手に造った刀を握る。迷いを、苦悩を、無理矢理に押し留めるように。
そしてその切っ先をあたしに向け、こちらへ迫ってきた。壊すために、殺すために。
「わあああああああああああああああぁぁぁぁッッ!!」
「……」
ああ。これで、終わる。
あたしの生は、人生は、ここで。
ならばこの最後くらいは、笑顔で――