最初の課題
だだっ広いグラウンドの端を沿うように歩く。足の運ぶ先は、校舎にある体育器具室。
キャッチボールをしよう。それがココロの提案だった。
確かにキャッチボールなら二人でも出来るし、かつてグラウンドでも行われていた事であろう。それに体力もそれほど使う事は無いから、長い時間続けていられる。悪くはない話だと思う。
……しかし、こんな事で本当に世界を救う事が出来るというのだろうか。何とも疑わしい話だ。
怪訝に感じつつ、体育器具室に着くとその扉を開け、ソフトボールとグローブを取り出した。
「ほらよ」
「ん、ありがとー」
グラウンドの中央付近まで戻ると、二つとったうちの一つのグローブをそこで佇んでいたココロに放って渡す。俺も手元に残った一つのグローブをはめた。
俺とココロが20mほど離れて向かい合うようにして立つ。丁度中空に浮かぶ正八面体を挟む形だ。
「じゃあ、俺から投げるか」
「よーしっ! ばっちこーいっ!」
ココロが元気よく俺に手を振ってくる。
(しかしまあ、体動かすのは久しぶりだな)
スーパー特進クラスでは、二年になると体育はなくなるというガリ勉ぶりだった。そして、部活すら入っていなかった俺は完全にインドア派なのだ。
正直、うまく投げられる自信がない。
(ん……?)
その時、俺はココロの不自然な格好に気付く。楽しそうにキャッキャッとはしゃぎながら(無駄に可愛い)、グローブを付けた左手を上に高々と挙げているではないか。
(まさかあいつ、俺が一球目から暴投でもすると思ってんのか? 舐められたもんだな……)
俺は投球の構えをとり、真っ直ぐにココロを見据える。
(すぐにその左腕、降ろさせてやるぜ……!)
狙うはど真ん中。
ザリッと左足でグラウンドの大地を踏みしめ、投げる。
速度はあまり出なかったが、ボールは真っ直ぐにココロの胸元目掛けて飛ぶ。なかなかいい球だ。
そしてココロは……。
「むっ来たな! やあっ!!」
可愛い掛け声とともに、凄まじい速さで左手を前に振り下ろした。
……振り下ろした。
(えっ……?)
次の瞬間、色々な事が次々と起こった。
凄まじい速度で振り下ろされた左手から、凄まじい速さでグローブがすっぽ抜ける。
すっぽ抜けたグローブは凄まじい速さで飛翔を始め、前方でヘロヘロと飛ぶボールをキャッチする。
そのままグローブはギュンッと俺の顔の横スレスレを通過し、グラウンドの端の方にあるフェンスを紙切れのように突き破って、街の彼方へ消えていった。
……。
「よしっ! キャッチ成功っ!」
「んなわけあるかあああぁぁぁっ!!」
俺は足をガクガクと震わせながら、全力で突っ込む。
「えー、なんでー? こう、カッコよく勢いつけてボール取ろうと思ったらグローブすっぽ抜けちゃったけど、ちゃんとグローブはボール取ってたじゃん? これはきっと結果オーライというやつなんだよっ☆」
「危うく俺の命まで殺りかねなかった結果オーライがどこにあんだよ!? 直撃してたら確実に消し飛んでたわ!! あとそんな個性的なキャッチ作法は特に求めてなどいない!!」
むしろ俺が死ななかったことを結果オーライと呼ぶべきだと思った。
そんな俺の叫びもお構いなく、ココロは「ふー」と額の汗を拭う。
(というか、その華奢な身体のどっからそんな力出したし……!?)
最もな疑問が浮かんだが、取り敢えず今その話は置いておく。
「むー。そこまで言うなら、コウジがキャッチのお手本みせてよー。私投げるから」
ココロは器具室から代わりのグローブとボールを取ってきた。
「はあ……しょうがねえな……」
俺はそれに従う事にし、渋々グローブを構える。ここで正しいキャッチ法を教えておかねば、俺の命に関わるからだ。
ココロが投げる球をここで俺がちゃんと取れば、ココロもそれを次からマネしてくれ――。
死を感じた。
ココロはボールを持った右手を、上に高々と挙げていた。丁度、さっきと同じように。
(あっ……)
この時俺は、悟りを開いた僧侶のような顔をしていた事だろう。というか俺は馬鹿か。
「ちょ、ま……」
制止も遅く、虚しくもその時はやってきた。
「いくよっ! たあっ!!」
先ほどよりも凄まじい速度で振り下ろされた右手から、そのこれまた可愛い掛け声に、全く似合わない悪魔のような豪速球が放たれた。
死神が、俺の命を刈り取らんととんでもない速度で迫り来る。
だが直前に回避行動をとっていた俺は、服の端っこをもっていかれただけで済んだ。本当に間一髪だったが。あと一瞬遅ければ、俺の腹に風穴が空いていた。
そしてそのまま形を持った殺意は、フェンスを突き抜けて……はいかなかった。
フェンスに達する前に、ボールが摩擦熱で燃え尽きたのだ。
……。
「もお~! コウジだって取れてないじゃんっ! 自分も出来ない事を、人に言っちゃいけないんだよ~!」
「は、はは、はははは……」
最早、乾いた笑いしか出てこない。
あの女は危険だ。何者とかこの際どうでもいい。とにかく危険だ。
「しょうがないなあ、もう一球投げるよ。精一杯投げるから、今度は避けないでね?」
殺す気らしい。
「まあ、待て、ココロ。お前は球のコントロールというものを覚えたほうがいい」
俺は湧き上がる恐怖心を抑え、努めて冷静に言った。
一週間後よりも、まずは今を生き延びねばなるまい。
「コントロール? ちゃんとコウジのど真ん中に投げてたじゃん?」
「違う、威力のコントロールだ」
向こうのフェンスを指さす。
「最低でも、あれを貫かない威力の球を投げれるようになったらこっちに戻ってこい。それが出来るようになるまで『解放』とやらはお預けだ。……あ、ボールがフェンス届く前に燃やして消すのも無しな?」
「はい先生、どうすればそう出来ますかっ?」
「とにかく弱く投げなさい。もう自分の腕が海に漂うワカメかなんかになった気分で、へろっへろの球を投げる感覚で、いやもう垂直落下させてやるくらいの感覚でもいいわ、重力様に従え。とにかく全力で手を抜きなさい。お前ならそのくらいしても大丈夫だ」
……嘗て、こんな指示をした野球コーチはいたのだろうか?
「うーんちゃんと出来るかなぁ……頑張りますっ」
ココロは可愛らしくグッと胸の前で握りこぶしを作ると、グラウンドの端の方へと駆けていった。
……しばらくして、メキメキベキャベキャというフェンスの断末魔が、辺り一帯に響き始めたのは言うまでもない。
ギシッと、フェンスが軽く軋む小気味良い音が向こうから聞こえる。
時間にして約一時間。長かった。
「出来たよー、コウジー!」
ココロが満面の笑みを浮かべて戻ってくる。時間をかけてやっと出来るようになったので、とても嬉しそうな様子だ。
ちなみに、今ボールを当てた部分以外のフェンスは、原型も分からないほどに悉く破壊し尽くされている。そんな天災が起こったあとのような風景を背景にしたその笑顔は、格別に怖いものだった。
「よし、今の感覚を忘れるな。絶対に忘れるな。忘れたら俺が死ぬから」
「もー。コウジったらそんな大袈裟なんだから~」
あとはココロに、「ボールを取る時は、変に勢いをつけずにただグローブを構えているだけでいいんだよ」というこれまたアホらしい内容を説明する。
この戦いがまたやたら長かった。ココロに正しいボールの取り方を説明しても、「そんな取り方、つまんないじゃんっ!」や、「もっと、私はボールを取るっ! 的なことを全力で体で表現したいんだよっ!」……等々、このような事を言って、全く理解してもらえなかった。
いくら言っても分かって貰えなかったので、説明を放棄し無言でココロの両頬をつまむことにした。ココロは「ひはい~、ひはい~! わひゃった、ひうこひょひくかや、はにゃひへ~!」と手をバタバタ動かして訴え、俺の勝利に終わった。まさに実力行使からの逆転勝利である。
ココロと出会って数時間。どんどん自分の知能が下がっているように思えて少し悲しくなった。