狂い始めた時間
◇
人間とは、案外窮屈な生き物なのだという事を猫は知った。
温かい日差しの降り注ぐ、休日の昼下がり。
猫は、少年と少女と共に河原で遊ぶ。
「――ちゃん、おいで。もっといっぱい遊ぼう」
「――、ごめんな。平日の昼は学校があるから、たまにしか長くいられなくて」
鳴き返す自身の声には、明確な喜びが込められていた。
穏やかな時間。平穏な場所。
幸せだ。
ひどく、幸せだ。
かつて、自分にもまたこんな日々が来る事を予想出来ただろうか。
これほど、満たされていていいのだろうか。
「ここでだけ、私達は共にいましょう」
それが、思い合っているが故にずっと離れているしかなかった、少年と少女が交わした約束だった。
あの日、この場所で、少女が立ち去ろうとする少年に縋り付きながら願った事だった。
そんな望みが叶い、今自分達はこうしている。
遊び疲れたら、一匹と二人は河原に座り込んだ。
猫は胡坐をかいた少年の足の上に。
少女は、頭を少年の肩に傾けて。
「幸せだね」
少女は、そう呟いた。
「ああ。……幸せだ」
少年も、猫の頭を撫でながら呟く。でも、その言葉とは裏腹に表情は少し辛そうだった。
「いいんだろうか。今、俺はこうしている事が許されるのだろうか」
「私は許している。――ちゃんも、許してくれている。それじゃ、だめなのかな」
「でも、世界は許してくれないかもしれない」
「――君……」
俯いてしまった少年を、少女は心配そうに覗き込む。
「……怖いんだ。また、こんな日々がいつか簡単に終わってしまったらと思うと。もしもこれが最後だとしたら? 今日が大丈夫でも、もしも明日が最後だとしたら? そんな事を考えると、堪らなく不安になる」
いつも世界から嫌われてきた少年は、酷く怯えていた。
たくさんの終わりを見てきたからこそ、そんな思いが強くなってしまっていた。
――可哀想。
猫はいつも自身に抱いてきた思いを、他人に抱く。
「幸せが、毒になる。抱え込んだ分だけ、それが落ちてしまう事への恐怖が強くなる。こんな思いをするのなら、いっそ……」
微かに震える肩を、少女はそっと抱きしめた。
「……信じましょう。この場所だけでの幸せは、きっと許されるって。それすらも許されない世界なんて、あまりにも残酷過ぎるよ」
「……」
黙り込んでしまった少年に対し、それでも少女は笑いかける。
「最悪な未来よりも、明るい未来を考えようよ。私達は、これからここでどう過ごしていくのかって。……春は、ここでお花見をしましょう。川沿いの桜並木道を、私達で見るの。とても綺麗だよ、あれ」
目を閉じ、少女は少年と猫に「未来」語り聞かせた。
「夏は、茹だるような日光を浴びながら、五月蝿い蝉の鳴き声を聞きながら。それでも、一緒に楽しく遊びましょう。疲れたら、橋の下の日陰で火照った身体を団扇で冷ましながら、一緒にアイスを食べて過ごすの。夜ここで花火をするのもいいね。夜の闇を、光の色彩が照らして。その光で私達の楽しそうな様子が映って」
「秋は……今か。もうすぐで、紅葉が見られるよ。あれも、桜並木道に負けないくらいに綺麗なの。この辺り一帯も、水面も、本当に綺麗な紅に染まる。でも私達で一緒に見れば、きっともっと綺麗に見えると思う。うん、楽しみだね」
「冬は、その寒さに耐えながら、温かい格好をしながら。降りしきる綿雪と、ここ一面を埋め尽くした白を見るの。一緒に雪だるまを作ったり、雪合戦をしたり。――ちゃんも、案外雪の上を楽しそうに走り回っているかもね。大きなかまくらを作るのもいいかもしれない。中で焚き火を焚いたりもして。そしたら、温かさでそこから出られなくなってしまうかもしれないね」
少女は、その「未来」を本当に楽しそうに語る。
四季に彩られたここを。鮮やかに写る光景の断片を。
彼女は言の葉によって、ただ穏やかに紡ぐ。
「どうかな? こうやって想像してみると、私達にはそんな幸福が待っているって、そう思えない?」
そう言うと少年は、ようやく笑顔を取り戻してくれた。
先は怖い。だが、そんな未来だってあり得るのなら――
「……ああ。いいな、それ。聞いているだけでも楽しくて、救われる。そうしたらもう、俺はそれ以外何も要らなくなってしまうな」
肩に置かれていた少女の手を、少年は握り返す。
そうでもしなければ、きっと彼は葛藤に押しつぶされてしまうのだろう。
だから、彼も縋るしかなかった。
「お願いだ。もう俺を、一人にしないでくれ。ずっと、そばにいてくれ」
「うん、約束だよ。私達は、ずっと一緒に……」
先の見えない未来を、想像でしか思い描く事は出来ない。
何も縛れない約束で、自分達を縛ったように思いこむ事しか出来ない。
そうでしか、自分達は救われない。
少年も、少女も。
そして猫も。
――ああ。生きるとは、どうしてこうも不自由なのだろう。
◇
「……ん……」
何故かかなり早く目が覚めてしまった。昨日寝た時間も早いとは言えないのに。
肌は、寒さも暑さも感じない。気温的には春か秋くらいのものだろうか? とにかく感覚としては、俺がこの色の無い世界で初めて目を覚ましてからの、一日目と二日目のような感じだった。
本当に気温がころころと変わる。たまったものでは無い。
また寝直すのも良かったが、起きる事にした。すると、すぐ違和感に気が付く。
マイが居るはずのベッドには誰もいない。彼女が寝ていたような形跡すら見られない。
(何だよあいつ、結局眠れなかったとか? 一昨日昼にずっと寝ていたから夜更かししていたココロならともかく、昨日も頑張っていたお前にそれはきついだろうに)
ひょっとしたら、寝る環境が急に変わったから寝れなかったとか? それなら悪い事をしてしまったかもしれない。
彼女にその理由を聞いたとしても、「変態と一緒の屋根の下で寝る事など、あたしには出来ませんでした」とかそんな感じの言い回しではぐらかしてくるのだろうが。
そんな事を考えていると、もう一つの違和感に気が付く。
五十鈴はまだ寝ている。しかし、ココロのベッドももぬけの殻になっているではないか。
マイだけでなく、ココロまで。こんな時間から、またグラウンドで暴れているのだろうか? ひょっとしたら、またマイとじゃれ合っているのかもしれない。
取り敢えず様子を見に行こうと思い、今度こそ五十鈴を起こさないようにそっと身支度を整えると、秘密基地の外に出た。
まだ日は昇っておらず、外は暗い。本当になんて早い時間に起きてしまったものだろう。
懐中電灯を点けると、昨日グラウンドに積もっていた雪が嘘のように全て消えている。一日ぶりにご対面の、灰色の大地だ。
そして、辺りを照らして目を凝らして見るが人影らしきものは無い。ここには誰もいないようだった。
「おーいココロー! マイー! どこだー!!」
一応呼んでみる。俺の声が闇の中に響くが、返事は聞こえてこない。やはりこの近くにはいなさそうだ。
「おいおい、どこまで行ったんだよ、あいつら……」
呆れと心配から嘆息が出る。もう少しこの辺りを探してみて、見つからなければ秘密基地で待っていることにしようと思った時だった。
遠くの方で、音が聞こえた。
「おい! そっちにいるのか!? いたら返事をしろー!!」
もう一度声をあげ、音が聞こえた方に歩いていく。
音は一度だけではない。何回も、微かに聞こえてくる。
耳を澄ますにつれ、その音が何か分かってきた。
それは――銃声音。
「……え?」
それが意味するものを理解した瞬間、俺は走り出していた。
銃声のする方へ走っていくと、やがて川に辿り着いた。
聞こえてくるのは河原の方。
「……ッ!」
まただ、また土手の下から発砲するような音が聞こえてくる。
「おいココロ!! マイ!! 大丈夫か!? どうしたんだ!?」
暗くてよく見えない。
懐中電灯でそちらを照らし――背筋が凍った。
光が映し出したのは、たくさんの黒、影。
まず目に引くのは、一つの巨大な影。俺はあれを知っている。
それはおとといに遭遇し、マイが倒したはずの巨大ジン。
相変わらずの存在感と威圧感を遠くからでも感じられる。
更に、そいつの周りにはびっしりと普通のジンがいる。その数こそ数えられない。
「なん……だよ、これ……」
そして、その軍勢の手前。
マイが、血まみれになって膝を地面に付いていた。黒い機関銃で杖をつくように身体を支えて。
一瞬、頭がその思考を放棄する。俺は、自分の視覚が持ってきたこの情報を理解する事が出来ない。
何だこれ。何なんだこれ。俺は今、何を見ている?
しかしすぐに、頭は状況を把握する。
把握、してしまう。
「マ、マイ……? マイィィィィーー!!」
絶叫に近い声で彼女の名を呼びながら俺は夢中で土手を駆け下り、マイの元まで辿り着いてその身体を抱き留める。その時彼女は機関銃をあっさりと手放してしまい、それは音を立てて河原に倒れた。
彼女はいつもすっぽりとその身体にコートを纏っていたが、それが今は胸の下辺りからはだけており、そこから黒い装束を肌に張り付くようにぴったりと纏っている彼女の華奢な身体が見える。しかしその装束もあちこちが破れており、そこから見える彼女の素肌から血が流れていた。
「う……ぁ……!」
恐怖と絶望で、喉が震える。
マイは意識も朦朧としているようだった。あんなに大きな声で名前を叫んだのに、こうして触れてようやく俺の存在に気が付く。
「……光……司? どうして……ここに……」
「そんな事聞いてる場合じゃねえだろ! 何なんだよ、何があったんだよ……何でそんな……!? あ、あの軍勢は……? もう無害なはずなんじゃ……? そ、そうだ、ココロは……!?」
俺は完全に冷静さを失い、取り乱しながらマイに一方的に質問をする。
マイは、何も答えなかった。
ただ、呆然と、一切の感情を欠いた顔で、ゆっくりと巨大ジンの方を見る。
俺もその視線を追う。
その先――巨大ジンの上に、人影のようなものが立っていた。
「……!」
あいつか。あいつが、マイをこんな目に……!
「……誰だ、お前は……!」
怒りを抑えきる事が出来ないまま、苛立った声を発して俺はそこへ懐中電灯を向ける。
「え……?」
だが次の瞬間、その怒りすらも急速に冷えるのを感じた。
そいつは、その密集した黒の中で場違いであるとすら思える、白いロングワンピースを着ていた。
身体の左右で、明るい栗色のポニーテールが風になびいて揺れていた。
「……どうして……」
そう発した自分の声が、酷く震えているのを感じる。
――コウジ、今日も頑張ろうね!――
明るい笑顔を、向けてくれた。
――ねえ、コウジ。あなたが失くしたものは、なに?――
優しい笑顔を、向けてくれた。
その顔は今、無表情だった。
その高みから、こちらを冷ややかな目で見降ろしている。
「どうして……どうしてなんだよ……」
悪夢なら、早く覚めて欲しい。たちの悪い冗談なら、早く否定して欲しい。
俺はその少女に対してそう願わずにはいられなくて、茫然とその名前を呼ぶ。
「ココ……ロ……」
その少女――ココロは、まるでこの軍勢の司令官のように悠然と立っていた。