冬の幻
◇
〇月×日
誰もいない。
あたしが誰かも分からない。
また付近を捜索。
自身の記憶が全くないわけでもなく、ちゃんと生活知識はある。
ある程度の物についても。
だが、分からない事の方が多い。
この地面から生えるか弱い輪は何だ? 何のために生えている?
――図鑑で調べた、花というらしい。
この目の前を流れていく大量の水は何だ? どこへ向かっている?
――看板を見た。川というらしい。
それが行きつく、遠くに見えるあの塊は何だ?
どうして、こんなにも目を奪われる?
――雑誌に載っていた。海、というらしい。
〇月×日
誰か、いないのだろうか?
今日は放送室に籠り、再び電波を発信する。
――応答せよ。――応答せよ。――応答せよ。
だが、他の電波を受信出来ない。
どうして、誰も気付かないのだろう。
どうして、反応がないのだろう。
本当か。本当なのか。
本当にあたしは、一人なのか。
◇
「……?」
「どうしたの? 文歌」
「あ、ごめん。何でも無いよココロちゃん」
何か、山の方で音が聞こえたような。
しかし、私はココロちゃんにそう答えていた。多分気のせいだろう。
高山君とマイちゃんと別れてから約一時間。私――五十鈴文歌とココロちゃんのペアは、遊具のある遊び場で雪だるまを作っていた。
……と、言えば聞こえはいいし雪の日にする遊びとしては最もなものであると思えるかもしれない。
しかし、私達の目の前には直径が十メートルを超える巨大な雪玉が二つ並んでそびえ立っていた。
ココロちゃんが巨大な雪だるまを作りたいと言い始めたのだ。朝も作っていたそうだが、どうにもハマってしまったらしい。
一人一つの雪玉を作る予定で途中まで私も転がしていたが、私の胸辺りの高さまで来た時点でもう私の力では動かせなくなってしまった。これでもかなり頑張った方だと思う。
するとココロちゃんが「もう、仕方ないなー」と私の雪玉まで転がし始め、そしてあっという間に今の大きさにまで仕上げてしまった。
「よいしょっと」
そんな軽い掛け声で、ココロちゃんは自身よりも何倍も大きい片方の雪玉を持ち上げ、もう片方の雪玉の上に乗せる。
「ええー……」
巨大雪だるまのほぼ完成である。結局私はほとんど何もしていない。
「よしっ後は飾りだね。可愛い木の枝の手とか、顔とかをつけてあげようっ」
この雪だるまの大きさに見合う手は、木の枝ではなく最早木の幹なのでは。
そんな事を思い戦慄しつつも、私も辺りを見渡し始めた。
私も少しは「解放」に貢献しなければ。
「うーん、そうだね。腕はともかく、目とか口とかはどんなものにしようか……」
そんな風に私が考え込み始めた時の事だった。
「危ない!!」
普段の明るい声のココロちゃんからは想像も付かなかったほどの鋭い声が飛んできた。
「え……?」
振り向いた時にはもう随分と遅かったと思う。
私に向けて、巨大雪だるまの頭部分の雪玉が倒れ込んで来ていた。
「あ――」
避けるのも間に合わない。
押し潰される――
その瞬間、私の身体が不自然に飛ぶ。
気付けば倒れ込んで来た雪玉からは随分と離れ、私の腰にはココロちゃんがしがみついていた。
ココロちゃんが私を助けてくれたのだと一瞬遅れて気付く。
今私は死にかけていたという事実に対し半ば放心状態になりながらも、何とかココロちゃんに言葉を発した。
「あ……ごめんね、ココロちゃん。助かったよ、ありがとう」
「ううん。私の方こそごめん。フミカを危険な目に合わせちゃった……」
本当に落ち込んでしまっている様子のココロちゃんに、私は慌ててフォローを入れる。
「ううん。やっぱり、ココロちゃんは凄いよ。こんな大きな雪だるまだって作れるし、瞬時に私を助けてくれたし。今まで高山君だって助けてあげたんでしょう? ……本当に、凄いよ」
「……フミカ?」
フォローの、つもりだった。
……きっと、さっき私の家を見てしまったからだ。
だから、こんな言葉が出てしまった。
「私も、ココロちゃんみたいになれたらいいのにな」
「……キミは、私になりたいの?」
「……え?」
瞬時に、ココロちゃんは私にそう問いかけた。
その目からは、いつもの明るくて陽気な印象が伝わってこない。
ただ真剣に、怖いくらいの真顔で、私を見つめている。
「……私、は……」
それ以降、私は言葉を発する事が出来なかった。
ココロちゃんが何を思ってそんな顔で私を見つめてくるのかが分からなくて。
そして、私自身がどう思っているのかもよく分からなくなってきて。
しばらくお互いに何も言わず見つめ合った後、先に視線を逸らしてくれたのはココロちゃんだった。
「……さて、雪だるま壊れちゃったね」
再び私を見るその顔には、いつも通りの笑顔があった。
「そうだっ。じゃあこの雪を使って……」
その表情に安堵すると同時、今からココロちゃんが何をしようとしているのかが何となく分かってしまい、私は思わず苦笑いを浮かべてしまった。
その時にはもう、先程口にした事は忘れようとしていた。
◇
「うあ……!」
「きゃ……!」
避けている暇は無かった。
ソリの先端が木に激突。その衝撃で俺達はひっくり返る。マイが俺の上に倒れる感じで。彼女一人の体重なら別にどうってことは無かっただろうが、その背負っている機関銃の重量プラス硬い感触も来たため、意外とダメージはデカい。
「いてぇ……」
「……」
雪の上に仰向けに倒れる事になった俺は、そのまま首を上に向けて今ソリが辿って来た溝を見る。
すると、真っ直ぐ進んでいたはずの溝は途中で斜めにずれ、ここまで来ているのが分かった。どうやら、マイとソリの上で揉めているうちにそのコースがずれ、俺達は夢中になっていたせいでそれに気がつかず、そのままスキー場端の木にぶつかってしまったようだ。
「大丈夫か、マイ」
「まあ、何とか」
俺の腹にのし掛かっている状態になっているマイが、こちらを見ている。
とはいえ滑っていたスピードが遅かったために、俺達にケガらしいケガは見られなかった。
「ソリは大丈夫か? 壊れてるならまた新しいのを取ってこないと。とりあえずマイ、俺の上からどい――」
そこまで言った瞬間、急に俺の視界が真っ白に染まった。
あと、全身に酷く冷たいふわふわとした感触が襲ってくる。
「……」
「……」
俺達は、一瞬で雪まみれになっていた。マイは背中に、俺は顔に、その雪を思いっきり被る。
今の激突した衝撃で、木の上に積もっていた雪がこちらに落ちて来たらしい。もう何というか散々だ。新雪で、柔らかかった事だけが幸いだったが。しかし粉のように俺の顔に張り付いてきて、滑稽な絵面になっているかもしれない。悲劇である事に変わりはなかった。
マイは、唖然とした様子でそんな俺の顔を見ていた。
そして――
「――クスッ……。あは……あはははははっ!!」
彼女は、笑った。
可笑しそうに。楽しそうに。
「マイ……」
「あ、あなたの顔、一瞬で真っ白になって、変な顔してて、それがとても可笑しくて……あは、あはははっ!」
「……ぷっ。いやいや、お前だって真っ白だからな」
彼女の笑顔を見て、俺まで笑みが零れた。嬉しさがこみ上げてくるのを感じた。
(……なんだ。お前、ちゃんとそんな風に可愛らしく笑えるんじゃねえか)
しかめっ面をしているよりも。悲しそうな顔をしているよりも。無表情よりも。
そうやって楽しそうに笑ってくれている顔が、一番可愛いかった。
恥ずかしそうに慌てたり、笑ってくれたり。やはり彼女にはそうしていて欲しい。そんな顔が彼女には一番似合う。
しかし俺のニヤついてしまった顔を見て、彼女は笑顔からハッとしたような顔に一変してしまう。
そのまままた顔を赤面させ、自分の顔を両手の指で覆う。
「……あたし。今、笑って……?」
「なんだ。もっと笑っていても良かったのに」
俺がそう茶化すと、マイは少しだけ怒ったようなジト目でこちらを見てくる。
「……ひょっとして、あたしと一緒にいたいというのは、あたしに張り付いて失態とかを見つけようという魂胆なのですか? こんなあたしが笑っていたの、やはり変でしたか?」
「……いや、どうしてそうなるんだよ」
薄々感じてはいたが、彼女は結構なネガティブ思考だ。
そんなマイに対して、俺は彼女を真っ直ぐに見て言う。
「違うぞ、マイ。その笑顔は断じて失態なんかじゃない。滑稽な事だと人から貶されるものなんかじゃない。だってその笑顔は、周りの人の気持ちを明るく出来るものなんだから。幸せを振りまけるものなんだから。だから俺だって、お前の笑顔を見てとても――嬉しい気持ちになれたよ」
そこまで言うと、今度は俺の方が恥ずかしくなってそっぽを向いてしまう。
「……だから、さ。ますます俺はお前といられて良かったと思えている。仮に魂胆と名付けるとすればそういう事だ。お前が嬉しいって、楽しいって感じてくれて、それを見て、俺もお前といて嬉しいと、楽しいと思える事が出来る。それだけで、お前と一緒にいる十分な価値だ」
「……」
マイは何も言い返しては来なかった。でも、しばらくして良く聞き取れない小さい声で何かを呟いた。
「……うれ、しい……たの、しい……? あなたが……あたしといて……。そして……あたしも……あなたといて……?」
「……マイ?」
その顔は、呆然としていて、無表情で。
でも、何故か彼女の嬉しさとか……悲しさとかが伝わってきて。
そして、俺にゆっくりと手を伸ばして来る。
まるで、縋るかのように。
「……あたし、は……」
「……」
俺は、動く事が出来なかった。
その手が、俺の頬に触れようとした瞬間。
「……とうっ」
「……!?」
しかし、マイは手を俺の頭上へ振り上げ、そのまま人のおでこにチョップをかましてきた。
「痛あああっ!? いきなり何すんだよ!?」
「あなたの顔に付いていた雪を払ってあげたんですよ。感謝して下さい」
「……それだけにしちゃ、威力強過ぎないか?」
痛むおでこを抑えながら恨みがましい目で彼女を見る俺に対し、マイは悪びれる様子もなくそう返しながらようやくのしかかっていた俺の上から降りる。
いつものマイに戻っていた。
(何だったんだ、今の……)
幻でも見たかのように呆然となった俺に、しかしマイはまた真顔になって聞いてくる。
「話の続きをしましょう。とにかく、あたしと『解放』しようと思ったのは、お礼とかそんな事だけを考えていたわけでは無く裏があったと?」
「う……」
ざっくり言うとそういう事になるのだろう。
「いや、勿論お礼したい気持ちも強かったし! ただまあ完全にそれだけではなかったかもなあと……」
「それはまた、なんともいやらしいですね。不純な理由であたしに近づいてきただなんて」
「ぐ……やっぱり、嫌か?」
マイは、本当に嫌なのかもしれない。煩わしい思いをしているのかもしれない。
そう危惧しつつ、覚悟を決めながらマイにそう尋ねると、彼女はこちらを見つめたまますぐには何も答えなかった。
しかししばらくするとちょっとだけ顔を赤くして、俺から目を逸らしながら――彼女は手を差し出して、こう言った。
「はあ……。あなたのせいで、あたしの『解放』プランが滅茶苦茶になってしまいました。というわけでこの責任を取って貰う且つ、変態のあなた方のご要望にお答えして、今後も手伝ってもらう事にしてあげます。というかこき使ってやりますから。覚悟して下さい——光司」
「……あ」
今、名前を……と言う暇も無く、マイは俺の手を無理矢理掴んで引っ張り上げる。
「ほら、早く滑り直しますよ。ここはもうほとんどゴールに近いのでまた登りましょう。……ああ、ソリが若干損傷してしまっているので、ふもとから新しいのを取ってきてから、ですね」
「ちょ、ちょっと待て! 少しくらい休憩というものをだな……!」
「は? 『解放』が遅れているのですよ? ココロ嬢や文歌嬢に遅れを取るわけにはいきません。さっさと行きますよ、光司」
「ああくそ、とんだ『解放』だなこの……!」
俺達はそんな会話をしながら、楽しそうに「解放」を続けていった。
◇
――応答せよ。――応答せよ。――応答せよ。
「――ねえ、教えて。君の名前は、なんて言うの?」
名前?
あたしの、名前?
……分からない。
「ねえ、教えて。君は、何者なの?」
あたし?
あたしは……。
――あたしは、何?
――応答せよ。――応答せよ。――応zえxv。d「ldfjcf;fvんfgfぁfなえv;zぴ:r