少女の不安
◇
〇月×日
この日から、あたしは日記を書き始める事にした。
特に大きな意味はないが、この日記があなたの目に触れる時には、既にあたしは死んでいるのだと思う。せめて何かの役に立てればと、こうしてあたしの見た出来事を文章に残す事にした。
現状分かっている事だけを報告。
目覚めたあたしの横に、機関銃が置いてある。使い方も何故か分かる。これを当面の武器として利用。
色がない。あたし以外、全て灰色だ。
人がいない。あたし以外、誰もいない。
敵は不明。原因も不明。
しかしこれだけは分かる。信じられない事だが、間違いない。
――世界が滅んだのだ。
〇月×日
やはり色がない。
人もどこにもいない。
一日かけてまっさらな世界を歩き回った、今あたしの把握出来る現状である。
理解の進展はないので、疑問だけを綴る。
繁栄していたはずの人類が、世界が唐突に消失を迎えた。
その理由さえも分からない。
何故あたしだけが残っているのだろうか? それも疑問であった。
現在、あたし自身も記憶を失ってしまっている。
だから名前も、これまであたしが何をしてきたのかも、それすらも綴る事が出来ない。
幸いにも食糧は豊富だ。ジンなる者がこの世界を維持してくれている。建物で雨風もしのげるし、遭難者のような境遇に立たされているわけではない。
たまに襲い掛かってくるジンもいたが、機関銃で難なく撃退出来る事が分かった。
思った以上に長く生き延びられそうだ。その間に失ってしまっている記憶も含め、何か分かれば。
〇月×日
廃墟と化した放送局なる場所で、通信設備を発見。
少し扱いに手間取ったものの、何とか電波の送受信の仕方が分かった。ラジオ、というものらしい。
あたし以外にも生存者がいるかもしれない。その人が、何らかの電波を発しているかもしれない。
――応答せよ。――応答せよ。――応答せよ。
――あたしはここにいる。誰かいないのだろうか。いたら返事をして欲しい。
ひたすらに送信を続ける。
この生存者の存在が、ここにいると示す。
だが、何の返答も得られなかった。
スピーカーは、ひたすらノイズを吐き散らし続けた。
◇
しばらく歩いて、スキー場の頂上に着いた。それと同時に、俺は情けない声を漏らす。
「滑る前にちょっとだけ休憩させてくれ。ソリを抱えてここまで登るのは流石に疲れたぜ」
これ滑るたびにこの労働が強いられるのか、小さい子供とかこれキツイだろやっぱりゴンドラくらい設けようぜとか今はもういないであろう公園の責任者に心の中で愚痴る。そしてソリが独りでに滑り出さないように裏返しにして雪の上に置くと、俺もその近くに座り込んだ。
「……」
しかし、隣にいるマイからの返事はない。
呆然と、ある方向を見ている。
「マイ?」
俺もその視線の先を追う。
見えたのはこの山から見下ろせる街の風景だった。まるでミニチュアのようにビルが、道路が、川が配置されている。最も、今は雪が積もっていてほとんどが真っ白だ。
だが、マイが見ているのはもっと先のようだった。
街の先。建物がだんだん減り、そしてその先には地平線の彼方まで広がる――
「――海が、どうかしたのか?」
「……海」
マイはその視界の果ての平坦な灰色の塊、海を見ながらそう呟く。
「あれは……海は、一体何なのですか? 前から見えてはいたのですが、正体が良く分からなかったので迂闊に近づかない方が良いと判断していました。吸い込まれたり、命を奪われたりはしないのでしょうか?」
「……」
彼女は、海も忘れてしまっているらしい。また胸が痛んだ。
一瞬だけ言葉に詰まってしまうが、すぐ俺はマイに説明する。
「まあ詩的に、一言で言ってしまえば、『世界一デカい水たまり』だな。危険ではない――とは言い切れないが、浜辺で見ている分にはほとんど危険はない」
「水たまり……? あれが全て、水なのですか?」
「見えてるあれどころ、じゃないぞ。海は俺達が見えているよりもずっとずっと続いている。その大きさは俺達のいるこの陸よりも遥かにデカい。深さもあるから、溺れたら大変だがな」
「……! それは危険です。しかしどうしてそんなものがこの世界に……?」
マイは本気で驚いているようだった。その様子が何だか少し面白くて、説明に熱が入ってしまう。
「あれはなマイ、なくてはならないものだ。あの海があるからこそ今のこの世界が、この地球がある。街を流れている川の水も、雨も、この積っている雪も、すべてはあの海から来たものだ。そしてまた海へ戻っていく。そうやって海の水は形を変えてあちこちを巡り、今の俺達の世界を作っているんだ」
「……川はともかく、雨も雪もあまりありがたくはないのですが……」
「ははは、まあそうだな。でも、俺達はそんな水が無いと生きていけない。海が無ければ魚だって食えないし、水が無ければ日常生活もままならない。海は全ての生命の命の源だ。俺達の遠い祖先もあそこからやって来た。あそこに、俺達の全ての始まりがあるんだよ」
「それはまた、信じられませんね。あたし達は昔、あそこにいただなんて」
俺の話を興味深そうに聞いているマイのその様子は、年相応の好奇心旺盛な少女だった。
「じゃあ今日は無理だが、今度あそこに行ってみるか? 俺とお前と、それとココロと五十鈴の四人でさ」
「……あたし、も?」
少しだけ驚いたような顔を向けるマイに対して、俺は首肯する。
「……そう、ですか。その、デカい水たまりなど見にいって何がいいのですか?」
嫌がるかと思いきや、彼女はただ怪訝そうな顔をしただけだった。
きっと、彼女も行ってみたいのだろう。
「楽しいぜ、きっと。広い砂浜、心地よい風、そして静かな波の音。そこに腰を下ろしてだべっているだけでも気分が良くなる。昨日みたいに暑い日なら、海の中で泳ぐのも涼しくて気持ちがいいだろうな」
四人で砂浜の上に座り込む。ココロが馬鹿な事を言い、五十鈴は笑って、俺とマイは呆れたような顔になる。そうしているうちに時間はあっという間に過ぎていくのだろう。もしもそれが、「解放」の機会で訪れる事になったら、ひょっとしたら駄弁るだけではダメなのかもしれないが。その時はビーチバレーでもやって遊ぼう。
そうやって考えただけでも、本当に楽しそうだった。
是非とも、マイも連れて行ってあげたいと思った。
「……楽しい」
いつ来るかも分からない未来を思い描く一方。
マイは俯き、そう呟く。顔はよく見えない。だが、それきり黙ってしまった。
「どうした? マイ」
「……いえ。それよりも、もう休憩はいいですか? そろそろ滑り出しましょう。『解放』が遅れてしまいます」
「あ、ああ……」
さっきの話をまるきり逸らされてしまった。なんだろう、やはり嫌になったのだろうか?
マイは裏返されていたソリを持ち上げると、ひっくり返してその上の、前方の方に乗る。
体操座り。そんな体位なのに小柄なおかげでソリの前方にすっぽり収まる。
そしてすかさずその背に担いでいた、白い布で巻かれた機関銃を右手でソリの右方の雪の中へぶっ刺した。ストッパーだ。
残った左手でソリの先端に取り付けられたロープを握りながら、彼女は俺の方を振り向く。
「ほら、さっさと乗って下さい。……ああ。変な所触ってきたらぶち殺しますから」
「あっはい」
そこだけは肝に銘じておこう。
ソリの空いた後方に乗ると、少しだけ雪に沈んだ。しかし、マイがストッパーにかけている力のおかげで全く滑り出さない。
マイとは違って俺は胡坐をかかないと後方に収まらなかった。両膝が少しだけソリからはみ出す。しかしソリの縁を掴む事で、身体は固定出来た。
「では、行きますよ」
マイが機関銃を雪の中から外すと、ソリは動き、滑り始める。
結構登った甲斐もあり、俺達が滑ることになる斜面はかなり長い。しかし、雪が積もったばかりの新雪なのもあり、思ったよりスピードは出ない。「ひゃっほー」という感じではなく、ずるずると。さっき俺達が大いに稼いだ位置エネルギーによって、左右を木々に囲まれた長い雪の斜面をソリによってゆっくりと運ばれていく。滑り終えるまで、結構時間がかかるかもしれない。
「……」
「……」
二人は無言のまま進む。左右の木々な視界の端へ次々と流れていく。その木々は全て同じもののようにしか見えない。
まるで今朝のような無限ループの映像を見せられているような気分になってきた時だった。
「……ねえ」
マイが、沈黙を破った。
「なんだ?」
「どうして、今日はあたしと『解放』をしようと思ったんですか?」
唐突に、そんな事を彼女は聞いてくる。
「言ったじゃないか。昨日はお前に助けられたからな。そのお礼に手伝いたかったんだよ」
「……お礼」
マイは俯いてしまった。落ち込んでいるように見える。
「おい、どうしたんだよ。マイ」
「……何なんですか、お礼って。あたしがあなた達に感謝してもらえるような事なんて、何一つないのに」
僅かな躊躇いの後に、微かに震える声で彼女は言ってきた。
「何言ってんだよ。巨大ジンに襲われた時、俺達はお前に命まで助けてもらったんだぜ? それで何もしてないなんて事……」
「それはむしろ逆です。あたしはあなた達を危険な目に遭わせてしまった。あたしがもっと強ければ、あなた達が巨大ジンに遭遇する前にあれを倒せた。いえ、それ以前にあたしが一人で『解放』も『討伐』もこなせていれば……」
彼女はロープを握る手に、力を込めた事が分かった。
「それは高望みってもんじゃないのか? 俺や五十鈴が出来ない限界をお前やココロは軽々と超えているが、そのお前達にも限界ってのはあるだろ。それ以上を望んだところでどうしようもない。でも、お前はお前の出来る最良の方法で俺達に危害を加えないようにしてくれた」
「そう、思ってますか? ……なら、一つ白状してあげます。あたしはあの時、あなた達を見捨てようと思ってました」
また突然、そんな事を彼女は言い出す。
「最良の方法……? そんなものが取られたのなら、あたしはあなた達を囮にしていました。何故それが出来なかったと悔やみもしました。だってそれがあたしにとっては確実に巨大ジンを倒せる方法だったから。一番勝機のあった方法だったから……」
こっちを振り向いた彼女の顔は、怒っているようにも――泣き出しそうにも見えた。
「あたしは、弱いんです。あなた達を巻き込んだ挙句、利用しようとすらした。そうしないと勝てなかったから」
それは初めて見る、とても悲しそうな顔だった。
「ねえ、分かったでしょう? あたしはこんな事を考えているんです。あなた達のことなんか、どうやって戦闘に活かすかとしか考えていない。卑劣で、手段を選ぼうともしない」
そして、言っている事ととても矛盾している顔だった。
「……それでも、あなたはあたしに感謝をする事が出来るのですか? ——こんなあたしを、嫌いにならないとでもいうのですか?」
「……」
しばらくの沈黙の後、俺は答えた。
「……でも、お前は俺達を助けてくれた」
「……ッ!?」
マイの顔に、動揺が広がる。
どうやら彼女は、自身の選択について理解しかねているらしい。だから俺は彼女にこう言っていた。
「俺達を犠牲にしなければ巨大ジンへの勝機が無かったと分かっていながらも、お前は俺達を助けてくれた。……それを、『優しさ』っていうんじゃないだろうか。それはお前の持ってくれていた優しい思いだって、——心だって、俺は信じている」
「……ここ……ろ……?」
その単語だけを、彼女はゆっくりと反芻する。
しかし、今はそんな助けてくれた、くれなかったとかはどうでもいい。
かえって、彼女に気負わせる事になってしまったのかもしれない。
彼女は義理堅く俺達を助けてくれたのだと。だから俺達もそれに応えなくてはいけないのだと。
だから、俺達が彼女に嫌々同行してくれているとでも思っていたのだろうか?
でも、そんなんじゃない。俺達は、そんな理由で彼女と一緒にいるのではない。
ああ、そうだとも。彼女の言葉ではっきりと分かった。
彼女は、感情もなくただ命令に従う戦闘マシーンとかでは無い。
彼女は、愛想が無くて、乱暴で、素直じゃなくて。でも、からかい甲斐もあって、優しい心を持っていて――
利害が一致している? 彼女は頼りになる存在? 違う。
俺はそんな、「彼女自身」の心に興味を持っていた。
「……よし、じゃあマイ。この際、お礼だからお前と一緒に『解放』をしているとかはやめよう」
「……?」
突然こう切り出した俺に、マイはまた怪訝そうな顔をする。
「『お前と一緒にいたいから』。これでどうだ?」
……というか、これが本心だと思う。
お礼がしたいなんて建前で。だだ、本当にただ彼女と一緒に「解放」をしたいと思っただけで。
そして、実際こうして一緒にいて、その気持ちが更に強くなるのを感じていた。
だって彼女といる時間は、こんなにも――
「……」
それを聞いたマイは、一瞬呆然となった後――
「……ふぇッ!?」
――物凄く、動揺した。
顔を赤くし、あわあわと口を動かし、目を見開いてこちらを凝視している。
「……」
しまった。昨日五十鈴にも似たような顔をされた。どうにも俺は無意識のうちに女性を赤面させてしまうらしい。そんなに恥ずかしい事を言ってしまっているのだろうか。
しかし白状する。普段不愛想だったこの子が初めてみせたその顔は、あまりにも可愛らし過ぎて思わず目を奪われてしまった。
というわけで、なんかこちらまで動揺してしばらくお互い何も言えなくなってしまったが、やがてマイが真っ赤な顔のまま叫び散らし始めた。
「ななな何をいきなり言い出すんですか!? バッカじゃないの!? ……はっ、つまりあたしの身体が目当てなんですか!? そんな趣味があったんですか!? やはりあたしの目に狂いはありませんでした、あなたは変態だったのですね!! この大変態!! ナンパ男!! 下半身野郎!! バカ!! アホ!!」
「おいぃぃ!! ちげーよ何でそういう方向に持ってくるし!! というかいくら照れ隠しだからって何でも言っていいと思うなよ!! 傷つくからな、普通に傷つくからな!?」
「はあぁぁ!? 照れてないし!! 全然照れてなんかないし!!」
真っ赤な顔のまま、このままだと機関銃の乱射でも始めるのではないかとすら思えるほど取り乱しているマイにつられて、なんかもうどうにでもなれとこっちも半ばやけくそで叫ぶ。
「まあその……なんだ、俺が言いたいのはこうしてお前と一緒に『解放』しているのは義理でなんかじゃないって事だ! ただやりたいからやっている! お前があの時命を助けてくれて、こうして話してもみて、それでお前の事が気に入ってしまったから、俺は一緒にいたいって思ったんだ! どうだマイ! そんな理由で俺はお前と『解放』しようと思っている!」
「だからその理由がもう不純で変態なんですよ! 一緒にいたいとかさらっと言うなこのおバカ!!」
「ぐっ……ああくそっ確かに言動振り返ってみると結構変な事言ってんな俺ぇ……! 実は変態なんじゃないかと思えてきた……!」
頭を抱えた後、それでも俺は彼女を真っ直ぐに見据えて、手を差し出した。
「……でも、そんな理由でも俺と一緒にいてもいいと思ってくれているのなら、お前も俺達と『解放』したいと思ってくれているのなら――俺の手を、取ってくれないか?」
「……」
マイは、固まっていた。
赤い顔のまま、その差し出された手をどうして良いのか分からないといった風にただ見つめ続けている。
その時だった。
「……ッ!? マイ、前……!!」
「え? ……ッ!?」
振り向いていた顔を戻し、彼女も強張る。
俺達の乗るソリの進む先。
目の前には、木の幹が迫って来ていた。