世界の生存者
◇
雨が降っている。
雨音だけが鼓膜で捉えられ、それはかえって静寂のようにも思える。
生き物の音が聞こえない。人の声が聞こえない。
誰もいない。
猫は薄暗い橋の下で一匹、うずくまる。
雨は、嫌いだった。
ただでさえ捕れない餌がもっと取れなくなるし、濡れるし、動けないし。
何より、雨はこの世界を見えにくくしてしまう事が嫌だった。
それは、より一層自分をこの世界から孤立させているようで。この世界で、本当に自分独りになってしまったような気がして。
何より、自分の存在すらも良く分からなくなってしまうような気がして。
その孤独が、空虚が、猫には怖かった。
しかし、最近はそれほど雨が嫌いでも無くなった。
何故なら――
「――良かった、ここにいた。悪い、遅くなったな」
黒い傘を差した人間が――その少年が、顔を覗かせてくる。
――何故なら、こんな雨の日でも彼は会いに来てくれるから。
出会った日から、彼は毎日この河原へ猫に会いに来てくれた。
ここが、いつも彼らの遊ぶ場所。
「ほら、持ってきてやったぞ。今日は君の特に好きなまぐろのやつだ」
少年は猫缶も毎日持ってきてくれた。猫が飽きないようにと、毎日種類も変えて。
薄暗い橋の下、おいしそうに食べる猫の横で、少年も座ってその様子を微笑んで見ている。
「雨って嫌だよな。音も視界も俺達を隔離して、俺達を本当に一人にする。でもさ、こうやって隔離された所にいるのが一人でなければ、全然寂しくはない。今、ここには俺と君がいる」
この橋の下。何もない、いるのは二人だけの、雨に隔離されたこの空間。
ここは一つの世界。「猫と少年」だけの世界。
時間が止まったかのように錯覚するその世界で、少年は猫缶を食べ終えた猫の頭を撫でる。
少年の笑みは、どこか悲しそうだった。
「むしろ、こうしていたいと思ってしまっているのかもな、俺は。現実なんか忘れて、この隔離された空間でずっと君とこうして座っていたい、そんなことを考えている。……出来るはずがないのにな」
今ここに存在する「彼らだけの世界」だけあればいい。外の世界は、時間は、この世界を簡単に壊してしまうのだから。
もし、ここから外がないのなら。世界の全ては、この空間までであるのなら……。
雨の音が弱くなる。まだ降ってはいるが、遠くを見れば空を覆っていた厚い雲の切れ間から太陽の光が差し込んでいた。
猫はその空をじっと見る。早く橋の下を出て、遊びたかったから。
そんな猫の様子を見、少年はまた寂しそうに微笑む。
「……そうだな。何も出来ないこんな橋の下で『永遠』を過ごすよりは、終わりがすぐに来ようとも楽しく遊べる、広い外の世界の方がいいのかもしれない。俺達は、『永遠』よりも『今日』を過ごすべきなんだ」
葉に付いた雫。微かに差し込み出した太陽の光を浴び、鮮やかな色彩を放つ。
その色は、風景は、かけがえのない「記憶」として、今日の自分達の頭に焼き付く。
顔を上げた彼の顔は、やはりどこか寂しそうだった。
「雨、早くあがるといいな」
◇
蒸し暑さで目が覚めた。
「ん、んん……?」
暑い。汗が垂れる。あと、床が硬い。そんな所に寝転がっていたものだから、身体の節々が痛む。
明瞭になった視界を埋め尽くしたのは、体育館の天井だった。
(あれ、なんでこんな所で眠ってたんだっけか……)
手を少しずらすと、何かに触れる。わずかな痛みが走った。
なんだこれと思い、手に取ってみて見ればそれは――木の破片。
「……!」
勢いよく飛び起きる。次の瞬間に視界が捉えたのは、床に空いたクレーター。
それはかなりでかく、今俺のいるすぐ前まで凹んでいた。もし少しでも寝返りをうってしまっていたのなら、この大きな穴を転がり落ちてしまったいただろう。
「そうだ。昨日、いきなり大きなジンに襲われて。それで、ココロに庇われて……」
そこまで言った時に丁度、そのクレーターの中央にココロが横たわっているのが見えた。
「ココロ!!」
重い身体を引きずるようにして彼女の元へ駆け寄る。
「おい、ココロ!! しっかりしろ、ココロ!!」
抱き留めて呼びかけるが、全く反応がない。
息はある。パッと見、眠っているようだが――
「……なんだ、これ……?」
ココロの身体に、何やらうっすらと影のようなものがまとわりついている。数本の細長い影がゆっくりと彼女の身体の周りを漂っている様子は、まるでココロを縛り付けているかのようだった。起きる様子のない原因はこれなのだろうか。
多分、昨日のジンに何かをされている。
「くそ、どうすれば……!」
今日の「解放」どころではない。ココロが目を覚ます方法を見つけなければならない。
とにかく、昨日のジンを探さなければ……!
更衣室に向かい、体操服を脱いで急いでシャワーを浴び乾いた服に着替える。ココロのぼろぼろになった体操服も着替えさせてやりたいところだが……そういうわけにもいかない。だが目には毒なので、まだシャワー室にあったタオルをくるませた。
そしてココロを背負うと、外への出口を開け放ち――困惑する。
(……え?)
まず目に入ってきたのは、眩い太陽の白色の光。
そして俺の皮膚が感じたのは、ジリジリと焼き焦がされるような感触だった。
まるで夏だ。
幻聴で野球部の喧騒でも聞こえてきそうな。
体育館が蒸し暑かったのもこのせいなのだろう。
だが、昨日は肌寒いほどの雨が降っていたはず。昨今は地球温暖化の進行により異常気象は多かったが、流石に昨日の今日でここまでの変動はあり得ない。
「終わってしまった世界」。この世界に、今一体何が起こっているというのだろう。
しかし、今はそんな事を悠長に考えている暇もなければ、この暑さにうろたえている場合でもない。
とにかくすぐ近くのグラウンドに出ると――だが再び絶句する事となってしまう。
目の前の灼熱のグラウンドに、突然大量のジンがどこからともなく集まってくるではないか。
大きさは昨日のキングサイズではなく、普通の大きさだ。だがとにかく数が尋常ではない。パッと見三十体近くはいる。ココロの作った秘密基地の入り口も既に見えなくなっていた。
暑い太陽に照らされた白色の世界。その下にびっしりと集う、膨大な黒。その風景は、とてつもなく不気味な印象を俺に与えた。
一瞬、「今度はサッカーでもしよう」という無茶ぶりをこんな状況で要求してくるのかと思った。いや、その方がまだ良かったのかもしれない。現実はもっと深刻だった。
「……ッ!!」
ココロを背負った身で、辛うじて避けられた。たった今飛びかかってきた一体のジンを。
避けられたジンは俺の後方にあった階段にぶち当たり、破壊。コンクリートを砕くその威力はマジだ。
まだグラウンドに残っているジン達も、今すぐにでも飛びかかりそうな体勢を取っている。
それは俺がコンビニで出会ったジンと同じ。ココロが言っていた、俺達を狙う狂ってしまったジン。
「く……!」
辺りを見渡すも、もうすでに囲まれ退路はなかった。一、二体程度なら広いグラウンドから逃げられた可能性があったが、何しろ向こうの数が多すぎる。逃げ場はない。
そしてとうとう向こうは動き始めた。無数の影は、一斉にこちらへ飛びかかってくる。
「う、うわあああああ!!」
絶体絶命だと思われた、その時。
「伏せて!!」
突然、俺の後方で凛とした少女の鋭い声が響いた。
「………ッ!?」
ほぼ脊髄反射のような感覚でその言葉に従う。砂まみれになるのも惜しまず、俺はグラウンドの地面にダイブ。
一瞬遅れて、連続的な銃声音が俺の上で響いた。
(何、が……?)
音が止んでから、俺は顔を上げ――唖然となった。
目の前に広がっていたのは、いつものグラウンドの光景。
なんと。あれほどいたジンが、全て消え去っているではないか。
先程のジンの大群は俺の見た幻覚だったのではないかとすら疑う。しかし今も僅かに残っている霧散した影が、たった今やられましたというのを物語っていた。
「間一髪、と言った所ですか」
先程と同じ、幼さが残っているが凛としているその声に振り向いてみれば、そこには初めて見る少女がいた。
まだ幼い少女だ。十一、二歳くらいといった所だろうか。
肩に触れるか触れないかくらいの長さでストレートに下ろされた赤髪。その下に鎮座する二つの勝気そうな大きい紫紺のツリ目のせいか、その顔に年相応の可愛さはあるがどことなくしかめっ面に見える。
その小さな身体のほとんどは真っ黒なコートで覆われていた。そんな格好で暑くはないのかと思ったが、その額からは全く汗が見られない。
そして何より目を引いたのは――その肩に担いでいた黒く馬鹿でかい銃。
テレビで見たことはあるが実物を見るのは初めてだ。これは確か、機関銃と言うものだっただろうか。
とにかく、その銃は持ち主の小柄な体格に全く見合わないでかさと禍々しさを放っている。こんなの、彼女は持っただけで押し潰れされてしまうのではないかと心配になるくらい。撃つなどもってのほかだと思える。
しかし、その銃口からは微かに煙が上がっている。更に、彼女の足元には無数の空薬莢が転がっていた。
それは今確かに彼女が、その機関銃を扱ったという事なのだろう。
そして、あのジンの大群を一瞬で殲滅した。
「あんたは……一体……」
助けてもらったお礼を言うのすら忘れ、俺はそう問う。
真顔のままのその子は、淡々とした様子で答えた。
「……『生存者』。同じですよ、あなたと」




