スイートドラゴン
あれから8年、現在の年齢は23。
生きる言い訳の期限はとうに過ぎているが、俺は未だにのうのうと生きていた。
だからといってミュージシャンになったのかというと、そういうわけではない。夕方の駅前で毎日弾き語りするフリーターをミュージシャンと呼ぶのなら、俺もミュージシャンを名乗れるが。少なくとも俺はそう思っていないし、俺が思っていないのなら宣言を立てた彼も思っていないだろう。
つまり俺は、死に損なったのだ。あの宣言を守れず、破ることも出来ず、言い訳がましく毎日歌を歌って生きている。
生きるための言い訳だったあの宣言に対して、さらに言い訳を重ねるように生きているのだ。なんとなく「死に損ない」と表現してしまったが、その言葉はあまりにもしっくりくる。
今日も死に損ないは歌を歌う。駅前にある利用目的の分からない広いスペースで、ギターを抱えて。植えられた木を囲って正方形に並べられたベンチに座り、誰に向けるわけでも無い歌を、真剣に歌っている。
夕方の駅前は帰宅途中の学生や会社員で人通りが多い。そんな中での弾き語りは、喧騒に紛れてほとんど届かないけれど、それでも足を止めて聞いてくれる人はたまにいる。ほとんどの人は、一瞬だけこちらに目線を向け、またすぐに前を向いて歩き出すのだけれど。
時折聞こえる電車の走行音や、ホームのアナウンスによって、俺の音は簡単にかき消される。それでも気にせず歌う。とくに声を張り上げるわけでもなく、ただただ真剣に、目の前にいる誰かに語りかけるように、心を込めて歌う。
曲が終わると、一瞬だけ音を止めすぐに次の曲を始める。今まで鳴っていた音が止まった時の妙な違和感が俺は嫌いだ。突然静かになると、無性に寂しくなる。
こうやって絶え間なく歌を歌っていると、拍手をもらえることもない。まあ、立ち止まって聞いてくれる人もほとんどが数十秒ほどで去ってしまうので、どうせ拍手など貰えないだろうけれど。
そんなふうに、俺はひたすら歌い続ける。たまにギターケースに小銭が入る。歌いながら小さく会釈をする。
日が沈み、あたりが暗くなりはじめると、人通りも少なくなる。曲を終えると、さっきよりもずっと静かになっていた。そして寂しさが込み上げる。
――次で最後かな。
あと一曲だけ歌ってから帰ろうと、最後の曲を弾き始める。とくにセットリストなんて決めていないので、いつも思い付きで選曲をする。
演奏している曲は全て自作のオリジナル曲だ。誰でも知っているようなメジャーな曲を演奏すれば、もっと沢山の人が足を止めてくれるのだろうけど、それでは意味がないので、俺は自分の曲だけを歌う。
前奏を終え、歌を歌い始めると、一人の小柄な女性が足を止めてくれた。アニメのキャラクターがプリントされたTシャツを着ているせいで子供っぽく見えるが、恐らく俺と同じぐらいの年齢だろう。制服やスーツを着た人達が行き交う中で、その格好は少し目立つ。
まあ、なんにせよ、本日最後のお客さんだろう。一秒でも長く、その場で足を止めてくれることを願って、心を込めて歌った。
* * *
……困ったことになった。
結局、その日最後のお客さんは最後まで足を止めたまま聞いてくれた。それはとても嬉しいし、ありがたいことなのだが――
彼女は曲が終わった瞬間、その場で泣き崩れてしまったのだ。突然しゃがみ込んだかと思えば、わんわん声を出して泣き始めた。
状況的には、たぶん俺の歌に感動して泣いてくれているのだろう。だとしたら、こっちも泣きたいぐらい嬉しいのだけど、このような場所で泣かれると困ってしまう。
既に人通りはほとんど無くなっているとは言え、この状況はさすがにまずい。客観的に見ると、俺が女性を泣かせたようにしか見えない。やっぱりこっちも泣きたい。
「……えっと、大丈夫ですか?」
「えっぐ、はい……ごめんなさい……ひっく」
――大丈夫じゃなさそうだ。
とりあえずギターをケースに閉まって、帰る準備を終えた。
さっきよりは落ち着いているが、彼女はまだ立ち上がらない。もう周りにほとんど人もいない。
放おって置く訳にもいかず、どうしようか迷っていると、彼女は突然立ち上がった。
「や、やっばい……!!」
腕時計を見て、慌てた様子で走り出す。
「えっ、ちょっと待って――」
俺は思わず追いかけた。駅から離れる方向に走る彼女を目指して必死で走る。彼女の脚はそんなに速く無い様だが、こちらはギターを担いで走っているので距離は縮まらない。
思えばこの時、特に追いかける必要はなかった。突然逃げるように走ったので、反射で追いかけてしまったが、途中で追うことをやめても何ら問題はなかった。それでも何故か、俺の足は止まらなかった。彼女に引っ張られるように、ひたすら走っていた。もしかしたらこの時既に、俺は彼女の物語の一部になっていたのかもしれない。
* * *
15分ほど走った。たどり着いたのは、杉が生い茂る山の中である。田舎なのでそこら中に山はあるが、ここまで山の中に入ったのは初めてかもしれない。山の外の道路や家が見えなくなるほど奥に入ったところで、彼女は足を止めた。
体力には自信があったが、重いギターケースを担いだまま走ったので流石に息が上がっている。
「はぁ、はぁ、……どうして、こんなところに……? はぁ……」
二メートルほど前方で立ち止まっている彼女に、何とか声をかける。彼女も息が上がっている様で、肩が上下に動いていた。
彼女は俺の質問には答えず、背を向けたまま軽く足を広げて腰を数センチ落とした。それはまるで、今から戦いでも始まるかのような『構え』だった。彼女の右手を見ると、いつの間にかピンク色の棒状の物を持っている。30センチほどの長さで、先にはハートの形をした物体が付いている。まるで小学生が描いた魔法のステッキみたいだな、と思っていると、突然彼女から『何か』が流れだした。
流れだした、様に見えたそれは、彼女の前方に形となって現れた。彼女の10倍はあろうかという大きさだった。彼女のステッキと同じような色で、トカゲのような体に大きな翼が生えている。
「ドラ……ゴン?」
俺の知識の中に、その形状の生き物はドラゴンしかいない。それは紛れもなく、ドラゴンだった。
「あ、あなたを倒すためにここまで来たわ。食らいなさい!スイートキャンディーレインボーマジック!!」
酷い棒読みで彼女はそう叫んで、右手に持ったステッキをドラゴンに向けた。
突然現れた空想上の生き物、それに小学生が描いたような魔法のステッキを向け、小学生が考えたような魔法の呪文らしき言葉を棒読みで叫ぶ20代の女性。安い特撮でも見ているかのようなその状況に、俺は唖然とした。おそらく口をぽかんと開けて、馬鹿みたいな顔をしていたことだろう。
そんな俺をよそ目に、特撮の戦闘シーンは続いて行く。ピンク色のドラゴンに向けたピンクのステッキから、これまたピンク色の光線が出てきた。ピンク一色のビームである。どこにもレインボー要素はない。
ドラゴンはそのビームを相殺するように、口から炎を吐いた。ビームと炎がぶつかる。しばらく拮抗するかと思いきや、すぐにビームが負け彼女に炎が襲いかかった。
「危な――!」
思わず叫んだが、彼女は横に飛んで何とか避けていた。
間一髪だった。
ドラゴンは斜め前方で立ち上がろうとしている彼女に向かって、爪を振り上げていた。
――間に合わない!
爪が振り下ろされるまでに体制を立て直すのは間に合わないと思った。俺は反射的に走った。彼女に向かって全力で走り、立ち上がりかけていたところを思いっきり突き飛ばした。
さっきまで彼女がいた場所に俺が倒れる。爪が横薙ぎに振り下ろされる。避ける暇もなく、俺は吹き飛ばされた。
気がついたら周りの杉の木よりも高い場所にいた。このまま落ちれば、間違いなく死ぬ。そうでなくても、落ちる前に炎を吹かれて死ぬかもしれない。
田舎の山の中に――いや、現実世界に不釣り合いなピンク色のドラゴンは、空中からでも非常に目立った。俺が助けた女性は、木に隠れて見えない。
そうだ、俺はあの女性を助けたのだ。正体不明のドラゴンから、彼女の命を守ったのだ。俺の歌で泣いてくれた彼女を、助けて――死ぬのだ。
およそ現実とは思えない、馬鹿みたいな死に方だけど、まあ、それでいいじゃないか。本当は二十歳になった3年前に、死んでいるはずだったのだ。死ぬタイミングを失った死に損ないに、彼が死ぬチャンスを与えてくれたのだろう。ましてや、俺の歌で泣いてくれた女の子を、謎のドラゴンから守って死ぬ、なんて格好いいシチュエーションまで用意してくれたのだ。ここは喜んで受け入れよう。ミュージシャンにはなれなかったし、23歳まで生きちまったけど、最後は俺の歌で泣いてくれる人と出会えたよ。そういえば、俺の歌で泣いてくれた人は彼女が初めてだったかな。いい思い出が出来たよ、ありがとう。それと、約束守れなくてごめんな――
そう覚悟を決めた瞬間、体が水に包まれたような感覚がした。否、水に包まれていた。水が気管に入る。 死ぬ覚悟はしたが、溺死の覚悟はしていない。意思とは関係なく、体は必死に酸素を求めて、生を求めて藻掻く。
「げほっ……おぇ……」
気がつくと地面に横たわっていた。体を包み込んでいた水は無い。水を吐き出し、必死に酸素を吸う。体が痛い。
「べ、ベ◯マ!」
横から、耳を疑う回復呪文が聞こえた。顔を向けると、ステッキを向けられている。ステッキの先、ハート型の物体から光が溢れ、俺の呼吸は整い、体の痛みも消えた。さすが、最も有名な全回復呪文だ。先ほどのオリジナリティ溢れる攻撃呪文が嘘のようだ。
周りを見渡すと、ドラゴンはどこにもいなかった。
「だ、大丈夫ですか……?」
「あ、あぁ、大丈夫みたいだ」
ベホ◯のおかげで。
「あの、助けてくれてありがとうございました……!」
「い、いや、こちらこそ……」
「あと、巻き込んでしまってごめんなさい!……はっ――」
彼女は下げていた頭を起こし、急に思い出したかのように腕時計を見た。
「ごめんなさい!私これからバイトがあるので!お礼とお詫びは後日必ずします!ほんとにごめんなさい! 」
まくし立てるようにそれだけ言うと、彼女はすごい勢いで走り去っていった。
『バイト』という、酷く現実的で生活感の溢れる言葉に、先程までの現実離れした光景からの大きなギャップを感じ、俺は思わず苦笑いをこぼした。
――いったい、なんだったんだ。
あまりに唐突に現実から引き離され、そして現実に引き戻された気がした。あまりの出来事に、思考が追いつかない。しかし、一度死を覚悟したおかげか、気持ちは落ち着いていた。今ならたとえどんなことが起こっても受け入れるだろう。
俺は体を起こした。服が濡れていて重い。
少し離れたところに倒れていたギターケースを拾う。
――そういえばあの子、お礼するとか言ってたけど、連絡先も何も聞いていないな。
慌てていた様だし、忘れていたのだろうか。あ、それともまた駅前に来るのかもしれない。俺は毎日大体同じ時間に同じ場所で弾き語りをしているし、それを知っていたなら連絡先を交換する必要もないだろう。まあ、もう会えないならそれまでだ。
とにかく、はやく家に帰って着替えよう。
死にかけたにも関わらず、今日はいつもより少し幸せな気持ちで家に帰った。