第5話 溢れ返る天災
その日を、ディヴァルネシス大陸に住む者達は忘れることは無いだろう。
歴史に残る、大飢饉の始まりの日だったからだ。
グリディスート帝国が地図から消滅したも同然の事態とおなってから、3か月ほどが経ったある日、突如として、今まで見たことのないような凶悪で醜悪な害虫が大量に発生した。神聖国・ディヴァイネーティスを主に生息域としているようだった。だが、この国が滅んでしまうと、人類側の大陸には魔石が一切手に入らなくなってしまう。と、人類側の大陸のあちこちの国が考え始めたのを見計らったかのように獣人側の大陸からメッセージが届けられていた。
【人類が、獣人、亜人、魔族全てに今までの争いに関する慰謝料を渡し、今後二度とこちらの大陸に関わらないのであれば、魔石を融通しても良い。値段はこちらが言い値でつけさせてもらうが。】
という、降伏勧告に近いものだったが。実際、人類側は魔石を封じられてしまうと今の文明を維持することは叶わない。今までの間魔石だよりになっていた暮らしをどうにかできるほど、国民達に我慢を強いることはできないし、何より王族、貴族に至っては魔石が無くなっているのなら他所から掠め取ればいいではないか、という程度の認識しかないのが一般的だった。力で以て、押さえつけて資源を吐き出させればいいではないかという意見である。
これは今まであれば有効に作用した考え方だった。
だが、たった一人の反逆の勇者によって覆させられてしまった。
ユウジ・サトウ。
最凶最悪の獣人・亜人・魔族を守護する勇者。闇の女神の加護を強く受けていると噂されている。あの公明正大な闇の女神が一人の反逆の勇者に味方したという噂は神官職の間ではよく知られている。
それほど、彼女は我慢ができなくなってしまったという事なのかと、神職関係者は恐れおののいた。今までの五百年間、彼女は光の女神のやることなすことに一切のけちを付けなかった。その結果、闇の女神が愛する大陸は蹂躙され続けていた。ついに彼女の怒りが爆発してしまったという事ではないかという、噂が人類側の神官職の間で広まっていた。
何せ、光の女神は一般人には硬く秘匿されているが神格を五百年間の間で著しく落としているのだった。だが、闇の女神は違う。神格は一切の衰えが無く、五百年間もの間我慢に我慢を積み重ねていられるほどの精神的強さがある。光の女神は自分が愛する者達が危機に陥ればすぐにでも手を差し伸べてしまうが、闇の女神はそうしない。彼女はあくまで、見守っているだけだ。手を差し伸べても、それは本当に危機に陥った時だけに限られる。そして、必要最低限の手助けしかしないのだ。彼女はあくまで、見守る者であり、自信を導く者とは考えていないようだからだ。
つまり、闇の女神がユウジ・サトウに力を貸したのはそれほどの事態だと判断したためだろう。人類側の神官たちは皆、そう考えている。闇の女神の力の凄まじさを彼等は皆、知っているのだ。創世の時から、一切力を落とすようなことをせずに、自らが守護する者達を見守り続けた女神の中の女神。いついかなる時でも、見守っていただけの彼女が、表立って、彼女の愛する者達に力を貸したというのが大きい衝撃を神官たちに与えた。
そして、力を授けられているのが、グリディスート帝国が召喚した勇者の中の一人というのが、皮肉が効いている。
そして、ユウジ・サトウが捨てられた勇者というのがまた、理解し難かった。あれほどの突き抜けた力を持つ怪物をなぜ、戦争に即座に投入しなかったのかが理解出来なかった。これは、すでに帝国が滅ぼされてしまっているため誰にも知ることができない事実だ。なぜなら、ユウジ・サトウはグリディスート帝国を地獄に作り変えてしまったからだ。元々、異世界の人間である彼はこの世界に対する執着がないから、そのくらいのことをしてのけても不思議ではない。
けれども、一般人を巻き込んでの復讐を躊躇無くやり遂げしまうというのは解せない。勇者といえば、一時的にとはいえ、それなりに好待遇でもてなされているはずだからだ。そうであるはずなのに、歴史に残るほどの大量殺戮を彼は行った。
一体葬り去られてしまった歴史の影に何が隠されているのだろうか。
人類側の大陸に住む、歴史家の誰もが知りたがったことだ。
史上最悪の勇者。
たった一人で人類最高の帝国を滅ぼして見せた怪物。もはや、個人としてではなく【天災】としてとらえてもいいのではないだろうか。
今回起こった、異常に強靭なイナゴの到来も彼が裏で手を引いているのではないかという意見も多いのだ。
既に神聖国・ディヴァイネーティスの食糧の半分ほどが食い荒らされているのだ。季節は2月で、食糧の追加生産は行われていない。農業に適した季節ではないからだ。おまけに、北方から蛮族達が現れたとの情報も入っている。あの蛮族達も、強靭過ぎて頭が痛い存在なのだ。だが、なぜ今なのか。
蛮族達も、異常な速さで、厳し過ぎる環境の氷雪地帯を駆け抜けて来ていた。今まであれば、人類側の国まで駆け抜けてくることで兵力が削られてしまうので彼らはこちらに侵略行動を行って来なかったのだ。それが、今回はまるで何者かに導かれたかのように迅速にこちらの国にまで進攻してきている。
進攻しているのが、かつてグリディスート帝国のあったあたりというのは、今の人類側の国にとっては幸いだった。なぜなら、あの国があった跡は魔物が異常な数存在し、いずれもレベルが高すぎるからだ。だから、蛮族達はそこで見な、全滅すると人類側の国は軽く考えていた。
だが、そのような事態はいつまでたっても訪れなかった。
蛮族達が陣地を構築していても、魔物達はその陣地には決して近付かなかったからだ。むしろ、蛮族達をこっそり排除しようとした人類側の軍を彼らは全滅させている。
そこで、ようやく人類側は起こっている事態の大枠を理解した。この、蛮族達の侵攻はユウジ・サトウが裏で手を引いているものだ、と。彼がそこまで人類を憎む理由は今一つ分からない。だが、彼は、亜人。魔族・獣人たちを守護する闇の女神の勇者なのだ。だったら、その行動原理は二度と彼が守護すべき者達が傷つけられない環境を作り上げることだろう。
グリディスート帝国が亡ぶ前から、海はいつも荒れていて漁師はほとんどが廃業せざるを得なくなった。海が荒れすぎていて、船を出すことができないのだ。津波は起こっていないが、魚が取れない。魚が取れなければ、漁師は廃業せざるを得ないのだ。同じように、海の資源も全く取れなくなった。海産物は全滅である。海が荒れすぎていて、人間が潜っても流されてしまうからだ。魔法を使っていても、海龍が起こしている複雑極まる無秩序な海流に翻弄されて溺死するしかないのだ。だから、海産物は取ることができない。
ただの一日にも凪ぐことが無く、いつも荒れている海は人類に少しずつ絶望を与えている。
海産物が取れず、塩も取るのが命懸けになっている。
今や、塩を取ってくるのは一種の英雄的行為にも匹敵するのだ。それほど、荒れ狂っている海に突撃して、塩を取ってくる任務は大事なことになっている。だが、聖勇国では普通に塩を取れる。このため、聖勇国では、塩を周辺諸国に売ることで忙しい。特に高値を付けずに売っていることから、聖勇国の評判はうなぎ上りだ。
ただ、聖勇国側ではなぜ、自分達の船だけが海産物を取ることが許されているのかが不明瞭であり、ありがたさと共に不気味さも感じているところだ。これは、唯志がこの国に居る勇者達にはあまり不自由な思いをさせるのもかわいそうだから手加減してくれと、エタナウォーディンに告げているためだが。誰もそんなことを知る方法が無いため、不気味だが有り難いと海の幸を受け取り続けている。
ただし、一国の周辺の海から採れるだけの海産物ではすべての国の海産物を賄うことなどできない。他の国の人間が聖勇国の船に乗って海産物を取りに行ったのだが、彼らは二度と帰って来なかった。純粋に、聖勇国の人間だけが無事に海産物を取りに行けるようだった。このことで、聖勇国は少しずつ今回の黒幕と裏で手を結んでいるのではないかと疑われてきている。余りにも聖勇国だけが優遇されているからだ。
だが、冷静な識者たちはそれこそがユウジ・サトウが今回の件の黒幕である証だと主張していて、一定の支持者を獲得している。状況証拠であるが、ユウジ・サトウの実力であればこのくらいの事態は引き起こすことができると考えられているためだ。そして、何より聖勇国には帝国が召喚した勇者たちが生活しているのだ。
帝国が滅びてすぐに、勇者達の生活基盤について考えて、手を差し伸べたのは聖勇国だけだった。損得を考えずに、最初に召喚された勇者が作った国であるからこそ自然に成しえたことだった。そのため、聖勇国は召喚された勇者達からの信頼が厚く、今更勇者達もそこを離れたがらないだろうと予測された。
神聖国・ディヴァイネーティスは、勇者の独占は良くないと文句を言っていたらしいが、党の勇者達が彼の国には行きたがらなかった。《生き神》として、自分達を病的に敬ってくる彼らが不気味だったのではないだろうか?と周辺諸国の者達はそう考えている。だが、神聖国の者達は自分達の信心が足りないからだと考えていた。光の女神を信じ切れていないからこそ、勇者も来てくれなかったのだと考える。
勇者たちは彼等にとって、光の女神の恩寵そのもの。敬わないという選択肢が、存在しない。神の御業を日々、見ることができるというのは彼等にとっては得難い特典なのだ。そこまで、光の女神を敬う国だからなのか、今回の飢饉はあの国を中心とし、周辺諸国にはわずかな影響しかない。国境が隣接している他の国々は少し被害を受けただけで、数日もすると不気味な害虫たちは皆、神聖国・ディヴァイネーティスに導かれるようにして飛び去ったからだ。
ユウジ・サトウの考えは分からない。
分からないこその混沌と混乱が、人間が住む大陸に広がっていた。
もっとも、そんな混乱極まる環境を作り出した本人はちょっと本気で遊んでみただけ、という感覚なのだが。




