ドッグイヤー
「お名前は?いえるかな?」
豪快に泣いている男の子を目の前に、心の中で舌打ちしていた。今日はついていない。
朝は道が混んでいて、バスが遅れて遅刻しそうになるし、午前中に迷子になってセンターにやってきた女の子の親は、最悪だった。迷子になれば迷子センターで預かってもらえるとばかりに、半ば計画的に置き去りにしたことがありありとわかる。
「託児施設もありますから」というと、鼻を鳴らしてお礼も言わずに立ち去って行った。
昼はすんでのところで、大好きなカキフライランチが売り切れるし、そろそろあがれると思っていたら、同僚の遅刻で残業。久しぶりにデートだというのに、これではまた、不規則な仕事に不満を持っている彼に嫌味を言われるのが決定したみたいなものだ。
そして、目の前の男の子は豪快に泣いている。しゃくりあげながら、いうものだから聞き取れない。
「え?え?まさしくん?まさとくん?さとしくん?」
伝わらないことに不安を覚えてか、さらに激しく泣きじゃくる。
「大丈夫、大丈夫。必ずママを連れてきてあげるから、ね、ね」
なんとかなだめて、まさみくん、四歳だと判明したときには、私はほとほと疲れていた。
店内放送を頼み、彼を見ると、用意されていたクッションの間にちょこんと座り、しゃくりあげながらも、左手の親指をくわえている。そうしていると落ち着くのか、右手で耳をいじっている。大きさといい、そのしぐさといい、太郎にそっくりだった。もっとも太郎がくわえていたのは左脚で、耳をかいていたのは右前足。
太郎はうちで飼っていた最後の犬だ。
父が、仕事先の人からもらってきた柴系の雑種だった。人懐っこいが少し頭が悪い。いくら教えても、散歩の時に突然立ち止まり、何度も振り返る。
私は途端に、親近感を覚えて、彼のそばに座り、話しかけた。
「ママと二人で来たの?」彼はこくりと頷く。涙でうるんだ黒目がちな目が本当に太郎のようだ。
太郎が家にやってきたとき、私は大学二年だった。進学したものの、学校では誰一人として友達もできなかった。孤独と将来への不安でいっぱいだった。
心の支えだったのは、朝夕にいく太郎との散歩だった。
人懐っこい、犬なつっこい太郎は、どこの飼い主さんにも覚えられていた。夕方、公園のそばを通ると、子供たちに囲まれた。いつのまにか私は『太郎のおねえちゃん』と呼ばれるようになっていた。できの悪い弟は、私のベッドの足が大好きで、うれしくなると、そこを噛み、腹がたつとそこを噛み、そして怒られたあとは決まって、彼と同じポーズで、反省しながらまん丸で真っ黒な瞳をこちらに向けていた。
そんな太郎は、四年前、私が会社の研修で二週間家を空けているうちに、はやり病をもらってあっけなく死んでしまった。研修から帰って、死んだことを知らされたときは、泣いた。週末二日間泣き通した。
太郎のことを思い出して、すこし涙ぐんでしまった。まさみくんは、指をくわえたまま、私に近づき、右手で私の手をなでてくれた。
「ありがとう、大丈夫だよ」そのしぐさが、また太郎がなめるときに似ていたので、本格的に涙がでそうになったのを必死でこらえた。
「すみません」
飛び込んできた女性の声に、彼は振り返り、くわえていた指もはなしてかけていった。
「ママ!」
「ごめんね、まさみ。泣かないでいい子にしてた?」
「うん、僕、泣かなかったよ」
この大嘘つきめ。思わずふきだすと、まさみくんはこちらをふりかえりうらめしそうな目を向ける。
「だって僕、もう四歳だもん」
「あら、お誕生日は明後日だからまだ三歳でしょ」
「もうすぐだから四歳でいいの!!」
「……みません、あの……」
呆然と彼を見つめていた私にお母さんが声を掛けた。
「あ、はい」
「何か書類に記入とか、しなくていいんですか?」
「ああ、大丈夫ですよ。この様子をみればお母さんだって証明ですから。おひきとりいただいてかまいません」
「ありがとうございます、お世話になりました。ほら、まさみ、おねえちゃんにバイバイは?」
彼は私のところへ飛んできて、ひざに抱きついた。私は思わず頭をなでる。彼は私を見上げて、
「またね」と言った。
お母さんと手をつなぎ、何度も振り返りながら手を振る彼をずっと見送っていた。
明後日、彼の誕生日は、太郎の命日だった。
「偶然だよね」
角を曲がって見えなくなったとき、振っていたその手を見つめた。
この手でなでた彼の髪は、最後までちゃんと立ち上がることのなかった太郎の耳の感触にそっくりだった。
誰かに似ている現象は、加齢によって失われていく記憶力を関連付けによって補おうとする能力だ、と何かで読んだ記憶があります。最近筆者は「誰か」すらでてこず、「あれ、あれ、あの人……」となってしまうことがよくあります。怖い、怖い。




