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「明晴。時間だ」ハセガワさんの声が聞こえる。顔を筆のようなものが這い、最高に鬱陶しい。最悪の寝起きだ。
「……はい。起きます。起きますから」顔を這う何かを両の腕で拭い去る。寝起きの薄目で状況を確認しようとすると、目の中に一斉に光が飛び込んでくる。
部屋の電気が点けられている。どうやらこの未来人たちは、この時代の道具に慣れ始めているようだった。
僕はあまりの仕打ちにうんざりし、起こしかけた上体を再びベッドへと埋め込ませる
「寝るんじゃない。人の命が掛かっているのだぞ」顔に再び筆のようなものが這う。こそばゆい。実に腹が立つ。
「は、はい。そうでした……」眼球に飛び込む光を押しのけ、僕は世界を観測する。目が光に慣れてくると、そこには羽毛の塊があった。どうやら筆の正体は彼の翼のようだった。
「起きたか」
「起きましたけど。流石に連日ともなると体が重いです……」
「申し訳ない……。確かに暇を一日も与えられていないな」
「あぁ、そんなに重く捉えなくていいですよ。僕が引き受けた人助けですし。それに、僕の体だってあなたたちが来るまではきっと退屈していた筈です」僕は上体を完全にベッドから引き剥がし、体を伸ばした。「ところでペペさんは?」
「まだゲルの中だ。様子を見てみようと思ってな」
「釘を打たれている真っ最中の、ですか?」
「そういうことになるな。それにその反応が見られれば、イコールで加害者があの場所に訪れていることになる」
「まぁ、そうかもしれないですけど……」ただ僕は、人の寝ているところを観察するのに対して、あまり気が乗らなかった。
「もう二時になるが、そろそろか?」
その言葉を合図に僕は声を潜める。
「かっ……かっかか……」彼女のゲルから奇怪な音が響く。
「来たな」
「これやられてるの心臓なんですか? 肺もやられてません?」僕は彼女の呼吸の乱れに違和感を覚える。
「くっ……、くかか……」まるで誰かに首でも絞められているかのような声だった。絞められた喉の隙間から漏れ出るような、そんな声。そしてきっと、今回に至っては、これは比喩では留まらない。
「加害者がこの時代の人間だから、ビートの正確な一点集中までは出来ないのだろうな」
「どうします? 起こした方が良いですよね」
「苦しみを認識させるのが辛いな……」ハセガワさんの眼差しはどこか物憂げだった。「わかっているさ。加害者を殺すチャンスは今しか無いのだ。仕方あるまい」ハセガワさんは表情をいつもの険しいものへと戻し、僕のベッドから窓際へと飛んでいき、ゲルの置いてある窓の桟へと着陸した。
「ペペが起床と同時に、痛みによって混乱を起こすかもしれない。ワームホールを先に開いておくぞ」彼はそう言うと、肩に掛けてあるポシェットからビーヅを一つ取り出す。
「あぁ、明晴も準備しておいた方が良いな」思い出したかのようにそう言うと、彼はもう一度ポシェットの中に片翼を突っ込み、もう一つのビーヅを取り出す。
彼が当然二つ用意すると僕は思っていたので、彼の起こした二度手間に僕はどこか違和感を覚えた。
ペペさんの苦しむ姿に戸惑っている? 霊域での判断などでてっきり心の芯までドライな人かと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。
「ホレ」彼は片方のビーヅをもう一つの翼へと持ち替え、こちらにそれを投げる。
「……二人だけで行きますか? 彼女に痛みを認識させるのが辛いのなら」空中で放物線を描くビーヅを受け取り、僕は言う。
反対されることは目に見えていた。
ベルフェゴールの一件を忘れたのか。
いくらなんでも危険すぎる。そう言われるのがオチだ。
思わぬところで会話が途切れる。
意外にも彼は即座に言葉を返さなかった。見ると彼は、両の目をまんまるにして、呆気に取られている様だった。
奇妙だ。不自然だ。これが本当に彼なのか?
僕の脳内では、彼がこの意見に反対する姿が既に完成されており、現実に起こっている今のこの状況の方が僕には偽物のように思えた。
この提案は決して本心から言ったものでは無い。きっと本来この会話は、彼の否定があって初めて完成するものなのだ。当然だ。僕自身、馬鹿げているのだと思っているのだから。
だから僕は鏡に話すように、僕がいつも彼にそうしているように、話した筈なのだ。
彼は目を伏せ、遂にはこちらから視線を外す。
「あ……あああ……」彼女は呻く。蹂躙される内臓から、必死に生きている音を絞り出す。
「いいのか……?」俯き、口の動きは見えなかったが、その声は確かに彼のものだった。
鏡が崩れたかのようだった。
そしてその瞬間僕は、自分が最低な人間なのかもしれないと、そう思った。
「えぇ、いいですよ」
きっと、今の僕にこれ以外の答えは許されない。




