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僕らが隣町の駅のホームに舞い戻った時、僕の腕時計は四時頃を指していた。空の様子を確認すると、まだ日の入りまでには随分と時間があるようだった。
食後の動物園の散策は、メンフクロウとの遭遇を期に、彼女の「かわいい、かわいい」の一点張りとなった。昼食前の散策でメンフクロウに加えて小動物のコーナーも無意識にスルーしていたのがプラスに働き、彼女は考え事をする間も無く、本意気で動物園を楽しめているようだった。僕は彼女が大きいものより小さいものを良く好むことをすっかり忘れていた。勿論、頬の紅潮もまるで無かったもののように消えていった。
難しい話をし始めた時にこっちに来ればよかったな、と僕は思いながら、ずっと横目で彼女の笑顔を眺めていた。
「な~んかもうちょっと日が暮れてくれてないと物足りない感じがするよね~」織姫はホームの椅子に腰を掛け、白熊の人形の顔がはみ出た大きな袋を両腕一杯に優しく抱き、両足をパタパタさせる。僕はその隣に腰を掛け、彼女の意見に心の中で同意した。
「まだ夏真っ盛りだから、日の入りはしょうがないさ」
「でもさ~。遊んだあとなのにまだ日が照ってると、な~んか一日満喫したように思えないよね~」
「満喫してたじゃないか」
「いやいや、動物園は全然楽しかったよ? メンフクロウも見れたし、可愛い人形もいっぱいだし」彼女は首を傾げ、あざとい仕草で袋を抱きしめた。その中には白熊以外にもメンフクロウの小さな人形も入っている。
間接キスも出来たしな。と言おうとしたが、それは止めた。
「ならいいじゃないか」
「うん、いいんだけど……」織媛は一旦言葉を区切り、優しく袋に顔をうずめて「もうちょっと明晴と一緒にいたいな。……とか思ったり」と続けた。
「あんまりおちょくるなって。僕はお前のおもちゃじゃないんだぞ?」
「へへへ、そうだよね……」口角を無理やり引きつらせて笑ったと思うと、彼女は先程より深く白熊に自分を沈めた。
「なんか寂しくなっちゃって……。なんだろう……」彼女は呟く。口元は袋に隠れて見えなかった。
「寂しいって、最近パパさんの帰りが遅いとか?」
「いやいや、家の中は何一つ変わりないよ。パパもママも仲良しだし、私もそれに至ってはなにも不満は無いんだよ」
「……そうなのか」僕は彼女の心を完全に見失ったようだった。彼女の生活の中に、彼女が不安を覚えるような要素があるようにはとても思えなかった。
「贅沢なのかな」彼女は僕に話し掛けてはいない。それはあくまで呟き、きっと自分自身との会話なのだろう。
「……なあ織媛、悩みって一体何なんだよ」彼女の期待が僕から離れたことを感じ取り、僕は意を決し彼女へと踏み込む。
そしてその言葉を発した途端に、僕は自分という人間が酷く寂しがり屋な性格を有していることに気が付いた。
「……悩みはね」彼女が空を見つめ口を開く。僕はすぐさま注意を彼女へと戻すが、彼女の注意は依然僕へは向けられていないようだった。
「悩みは……」僕は彼女の意識が戻るまで待つことにした。「悩み……。えっ! いやいや! 言わないって! だから明晴だけには言えないんだって!」ベンチから尻が浮き上がるほどに驚いたかと思えば、織媛は両手を顔の前で左右にパタパタさせて黙秘の継続を表現した。
「ああ、わかったよ」空気を重くしないようにと僕は半笑いでそう答えたが、心へのダメージは既に看過できるものでは無かった。
日を改めようと答えは同じか……。
「ごめんっ! 私のことは考えなくていいから! 気にしないで! ほらほらっ! 電車まであとどれくらい?」
「ああ、あと……」僕は腕時計の針を見つめて驚く。「おおっ、ちょうどだ」
――間もなく電車が到着いたします。――
駅のスピーカーからアナウンスが流れ始める。
「ほらっ! 帰る時間だよ!」織媛はすっくと立ち上がり、僕の方を振り返らずに白線の前まで歩いて行った。
ホームには僕らの他に誰もいない。僕は彼女の背中に近づく。
「織媛」声は出た。しかし彼女の心への突破口はまるで見つからなかった。
「いいんだよ。私は明晴のことが……、大のお気に入りなんだからさ」織媛は諦めにも似た笑顔をこちらへと向けた。
途端、彼女を包む背景が電車で一杯となり、轟音が時を切り取った。




