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「お前ら……」ハセガワさんが白の空間からテニスコートへと戻って来たようだ。彼の声は背後から聞こえる。そのため彼を視認することは敵わなかった。しかし、彼が空中をパタパタと浮遊しながら、とても呆れた表情を浮かべていることなど、先程の第一声で嫌というほど伝わった。あくまで想像の範囲を超えることはないが、実際に彼が僕らの姿に落胆していたとしても、彼を非難することなど今の僕にはとてもできないことである。それもその筈だ。数時間前まで作りたてだったテニスコートには幾らかのクレーターが発生しており、「疲れない程度に」などとほざいていた安倍明晴は、闘志を剥き出しにしてラケットを振るっていたのだから。
「あ、どうもハセガワさん!」僕はテニスボールがラケットに接触すると同時にビートを使用し、テニスボールを炎で包み返球する。
「もう十一時五十分だ……。そろそろ仕舞いにしろ」
「了解……ですっ!」ハセガワさんに返答しながらペペさんのビートが付与された風のように高速な打球を、ボール視認までの時間を捻出するためベースラインから三メートル程のバックステップを決めながら打ち返す。含ませたビートは、ボールが一度地に付いた途端に進行方向を急激に変更し、コート外へ逃げていく高速回転のビートである。
「了解していないだろう明晴……。楽しいのは分かるが……」
地面に着地した僕の打球は、強力な回転により芝生を剥がす。
「……五十一分になったぞ明晴。そろそろ昼食をだな」
「すいませんハセガワさん。ファイナルゲームなんで……!」精度上昇のビートを使用し、ペペさんの嫌がるであろうコースにボールを的確に放つ。
「……カウントは?」
「ペペさんのアドバンテージです」僕はやや早口でそう言いながら返球を続ける。どちらも甘いボールを返すことは無く、一球一球に厄介なビートが付与されている。
「ならば何も言うまい。見届けよう」ハセガワさんは諦めたかのようにそう言う。
コートの外側を大きく使用する試合なので、僕はハセガワさんのケガ防止の為に首を振り、彼の座標をしっかりと確認する。しかし、視界を大きく揺らしたにも関わらず、彼が僕の視界に入ることは無かった。いや、厳密に言えば視界に入っていたのかもしれないが、意識のほうが彼を捉えることは出来なかったのだ。責任は全て僕にある。フクロウだから飛んでいるだろう、という思い込みが僕を殺した。そう、彼は地面をへこへこ歩いて移動していたのだ。
「へへっ……!」視界から外れ、意識の外から届いた彼女の声はとても印象的だった。そしてその憎たらしい笑い声を受け取った瞬間、たかが外れたかのように僕の体中から汗が噴き出るのがわかった。
ここまで大きくなってしまった隙である。見逃す彼女ではない。
ハセガワさんの発見、彼女の声が届いてからの振り返り、彼女へのピント合わせ、これらすべてを総計して一秒弱。決着をつけるには十分過ぎるほどの油断だ。
「そぉりゃあ!」彼女はラケットを全力で振り抜く。僕は慌ててラケットを構えボールに向かって走ろうと両足に力を込めるが、その力は推進力へ即座に反映されることは無かった。筋肉の躍動に時間が掛かったわけではない。時間を必要としたのは脳味噌の方だ。
「ここでっ……?」思わず声が漏れた。理不尽なことに対して苛立つような気持ちで内心穏やかでは無かったが、僕は一瞬の間に息をふっとひと塊勢いよく体外に出し、心を落ち着かせる。
ペペさんは憎たらしい程に抜かりが無かった。このタイミングで彼女の選んだ打球は分身魔球。いやもう、この空間での打球にいちいち「魔球」などと命名していったらキリが無いのだが、この打球だけは嫌悪感から僕の中で「魔球」となっている。この試合、分身魔球だけで何ポイント奪取されたか……。
しかし攻略法は掴んでいる。だからこそのファイナルゲーム、だからこそのデュースである。まぁ、実際初めてまともに返せたのはペペさんが最後に放った分身魔球だけだったのだが……(その時、彼女は僕が球を返した事態に呆気にとられノータッチだった)。
分身魔球は、正確に言えば球が増える魔球ではない。球が増えて見える魔球である。つまりは幻の球が幾つか本物の真似をして現れるということだ。分身魔球で増える球の数は四つ。要は本物を合わせ、合計五つに見えるようになるのだ。それだけでも十分厄介なのだが、更なる問題としてこれら五つが毎回全く別の方向に飛んでいくというものがある。つまり、どれか一つに手を出してから、それがハズレだからと別の打球に走っていく暇が無いということだ(ビートによる速度増加にも一定の限界があるようだ)。
攻略法を掴むまでは、ペペさんがこの魔球をチョイスした途端にそのポイントは諦めることにしていた。ほころびを探すことに集中するようにしていたのだ。そして遂に僕は見つけた。まぁ、気付いてしまえば簡単なものだった。気付いたところで必勝法になるようなものでも無かったが……。まぁ、本物である一球には影が付いて回る、というものだ。
そういうわけで今僕は、それぞれがそれぞれの方向に飛んでいく五つのテニスボールを前に両足の筋肉を黙らせ、その代わりに両目にビートを集中させているのだ。
「影……!」声に出すことにより行為への集中力をさらに高める。影の確認をするタイミングは球が飛んでいる間でない。影の大きさが一番変化し、それが確認し易くなるのは球が地面にワンバウンドする瞬間である。それまで僕がすべきことは、それら複数球の飛んでいく方向の記憶。座標のおおまかな予測である。打球のバウンドするタイミングは毎回全球ほぼ同時。それら全てをビートで確実に捉える為の第一段階である。
ベースラインを踏み、そこで眼球をぐるぐると高速回転させて全てテニスボールを目で追う。
――いち、にい、さん、しい、ごお……――と心の中で唱えて数え漏れを防止する。第一段階はクリアである。
続き第二段階。「……!」声とも言えない唸り声をあげ、瞳のビート濃度を爆発的に上昇させる。すると僕の視力が成長を始め、バウンドする瞬間の全ての打球を捉えはじめる。視力上昇は昨日ハセガワさんによってもたらされたそれに比べれば幾らか見劣りするものの、テニスボールの影を確認するのには十分過ぎるレベルのものだった。
「影……」静かに呟き集中力を針のように研ぎ澄ます。時間はどこまでも拡張され、僕は一秒の中で眼球を躍らせ続ける。
「きた……!」視界の中を黒が走り抜け、僕は一秒の中から解き放たれる。影を引き摺るテニスボールは、僕の立ち尽くす五メートル程右側で同じようにベースラインを踏ん付けている最中だった。普通に走れば間に合わない距離だが、無論ここは普通ではない。
「っりゃあ!」僕はここで初めて両足の筋肉を躍動させる。右足で地面を思い切り蹴り飛ばし、同時にビートを瞳から足へと伝達させる。ボールはバウンドを済ませ、再び空中へと弾き出される。霊域特有の味気のない空気を切り裂き、僕はそれに向かって瞬間移動にも近い速度で接近する。速度で景色は歪んだが、ボールだけはハッキリと僕の眼球に投影されていた。
「届いたぁ!」速度を極限まで高め、右手を限界まで伸ばした結果、ラケットはボールを捕らえることに成功する。
「ううりゃあ!」視界をペペさんのコートへと戻し、体勢を崩しながら全力で返球する。しかし、僕が魔球の処理に躍起になっているうちに、コートの状況は先程までのそれとはまるで違ってしまっていた。負けた。彼女の表情を見つめながら、僕はそう思った。彼女はいつの間にかネットに張り付いていたのだから。
「ほいっと!」ペペさんは僕の全力の返球を呆気なくネット際にぽとりと落とす。
「甘いね明晴……。世界の一点に全神経をやっちゃうなんて、そんなのイコール負けみたいなもんだぜ!」ペペさんはわざとらしく口調を変え、仰向けの格好で地に寝そべった僕をラケットで指し示す。
「事実全神経やらないと取れないんですよ!」僕は大声でそう叫ぶ。
「ゲームセットだ明晴」ハセガワさんはしばらく僕の上でホバリングしたのち、僕の腹に着地した。
「ハセガワさん、歩くんですね……」
「まぁ、たまにはな」ハセガワさんは、僕の言っていることの意味が理解できないようだった。
「何故、そんな眼で見る……?」
「……いえ」そうだ。この勝敗は僕の思い込みと慢心によるものだ。彼を睨むのはお門違いである。
「お疲れ明晴。ナイスファイトだったね!」ペペさんは小走りでこちらに駆けつけ、倒れている僕に対して右手を差し出す。
「分身するやつばっかり……。少しズルくないですか?」そう文句を垂れながら彼女の手を取り立ち上がる。腹の上に留まっていたハセガワさんは僕の体勢の変化に際して飛び立ち、ペペさんの頭上に着陸する。
「スポーツはこういうものだよ? 勝てばなんでもいいんだ。私は好きだよ。判りやすくて」
「そうですけど……。少しぐらいあの球を控えたって良かったじゃないですか……」僕は声量を抑えてそう言う。
「手加減なんてしたらその瞬間にスポーツは破綻しちゃうよ。これは絶大な信頼があるからこそできる行為なんだ。淘汰が無くなれば進化は錆びちゃう」
ペペさんの言いたいことは概ね理解できた。つまり彼女は僕にこう言って欲しいのだろう。
「……なら、今度再戦お願いしますね」と。
「うん! 明晴はいい子だね!」そう言ってペペさんは満面の笑みを浮かべる。
「いい子って……、同い年でしょう……?」
ペペさんは困ったような表情を浮かべる。
「……明晴が気になっているのは、上下関係の話かな?」
恐らく僕と彼女の考えていることは限りなく近かったのだと思う。しかし僕は上下関係というワードに違和感を覚えたため、その質問に対して即座に返答することが出来なかった。
「上下関係なら初めから無いよ。その概念自体が私に備わってないからね」彼女は続ける。「明晴のビートには靄がかかってる。明晴だけじゃない。この時代の人間やゴーストはほとんどがそう。しかもその靄はゴーストの力を強くしてる」
「昨日のゴーストの事か。しかしゴーストにはビートが無い。従って靄がかかっているのはビートではなく魂の方なのだろうが」ハセガワさんは彼女の頭上から返答する。
「……また何か問題が?」僕は恐る恐る彼らにそう聞く。
「いや、マサカド討伐には全く影響は無いよ。ただ……」ペペさんの言葉は一旦そこで止まった。彼女は言葉を選んでいるようだった。
「ただ?」僕はそう言って彼女の言葉の進行を促した。下手な嘘は付かれたくない。元々、僕の信頼を勝ち取るために僕をここに招くことを決定した筈だ。ここにきて中途半端は無いだろう。
「えっとね……」しかし彼女は再び焦らした。一体何を迷うことがある。先程まで一緒にスポーツを全力で楽しんだ仲ではないか。
「いいですよペペさん。素直に言って」僕は次いでそう促す。
その瞬間、僕の言葉で決心が付いたのか、彼女の表情は大きく変わって見えた。しかしそれは何かを決心した時の人の顔には見えなかった。どちらかと言えば、人が何かを諦めた時の表情に見えたのだ。嫌な予感がした。彼女のビートと共鳴でもしたのだろうか。
彼女はゆっくりと口を開き始める。特に言いたくなかったであろう、その言葉を伝えるために。
「ただ、つまらなそうだなって、思うんだよね」




