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「ふわぁ~……」
七月三日。僕こと安倍明晴は、天文中学校の期末考査を終わらせ、体を伸ばし、帰路に付くことだけを考えていた。
「くぁ~……。おい明晴! 試験も終わったんだ! カラオケでも行こうぜ! 飯でもいいしさ!」
心躍るような勧誘を投げかけてくるコイツは、クラスメイトの渡辺綱介。中学球児の見本のような短髪に、健康的な小麦色の肌が彼のトレードマークだ。
僕とは小学校二年次来の仲である。少し話をしただけで、価値観が近かったのだろう、随分と気が合ったことに驚いたのは記憶に新しい。
昔は現在の僕同様ひょろひょろした体つきだったのだが、天文中学入学と同時に野球部に入部したおかげで、今や筋肉隆々といった感じである。実に男らしい肉体だ。以前はその肉体に対し、羨ましい羨ましいと綱介に言っていたものだが、野球部の地獄のような練習を見てからは、そんな感じの言葉を口にすることは難しくなった。言い方は悪いかもしれないが、いや、悪いに決まっているのだけれど、練習中の彼らは、僕から見れば、奴隷の類にしか見えなかったのだ。怠けることが体に染み付いてしまった僕にとって、あれに参加するという事態は、想像の段階で吐き気を催したものだ。
野球部の奴らもそうだが、昨年から綱介と知り合った奴らは、彼のことを『ナベ』とあだ名で呼ぶ。まぁ僕は綱介とは長い付き合いなので、昨年急にでき上がったあだ名に合わせることはせず、それまでと同じように普通に名前で呼んでいるのだが。
「う~し! 行くか綱介ぇ!」
この台詞を吐いた時点で僕の予定に変化は起きていなかった。僕の脳内は、依然帰路の事だけである。
「うるせぇよ! どうせ俺は部活だよ……。一人で帰りやがれ! 馬鹿野郎!」
「お前も帰宅部入部するか?」
「うっせえ! ニヤニヤしてんじゃねえぞ!」
コイツ、軽く本気でイライラしているな。頭を使い続けた挙句、昼に帰れるところを部活だもんな。まぁ、心中お察しってとこだ。可哀想に。素直に同情する。
「頑張れよ綱介。大丈夫、死にゃあしないさ。目指せ甲子園だ!」
「中学だ」
僕との七年間は伊達では無かった。要点を的確に捉えた、安心と信頼のツッコミである。
「そうだったな。そいじゃ、また明日な。勝負の件忘れるなよ?」
「あ? おうおう、今回のテストをお前が俺から合計九十点以上離せたらジュースだろ? ちゃんと憶えてるよ。逃げんじゃねえぞ!」
「八十点な」なんで勝手にハンデデカくしてんだよ。
…………。
「頼む! 九十点差で勝負してくれ!」
「いやぁ……、十点はでけえよ……。そこまでお前を舐めちゃいないし」
綱介は随分浮かない顔をしていた。
「……そんなに酷かったのか?」
「……ちょいとな」
今回の考査は全部で九科目。結局このジュースバトルは八十強の点差で僕の辛勝という結果に終わった。点数や勝負は別として、九十点差を許していたら負けていたという現実に対し、綱介の目利きの鋭さに一人密かに感動していたというのは良い思い出である。
「ま、過ぎたことはしょうがねえよ。次頑張ればいいさ」
そう言いながら僕は、五科目分のノート、プリント収納用のクリアファイル、筆箱のみが入った、テスト期間限定の羽毛のように軽いスクールバッグを肩に掛け、席を立つ。
「お~、帰んのかぁ~……」
名残惜しそうな綱介の声。
「おう、部活頑張れよ。気持ち切り替えて、な」
そう言って、廊下へと通じる扉を目指して歩き出す。
「じゃあな!」
「おう……」哀しい程のテンション差である。