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土曜日の放課後。僕は放課後の部活に乗り気でない綱介を励ました後、何も考えずハセガワさんの言う通りに屋上へと向かっていた。
運動終わりでなければ大した暑さじゃあないな、風も吹いて来たし。まぁ、雨は相変わらずなのだけれど……。
さて、何故僕が、今から人を二、三人殺めた幽霊の下に赴くにも関わらず、考えを一つも巡らせていないのかといえば、その理由は至極簡単である。肝心な屋上の扉には、PTAや世間の目といった強力な腕力によって掛けられた二重の鍵が存在していることを僕が知っているからだ。
しかもここでいう二重の鍵は、決して比喩の意味だけではないのだ。そこには、扉の鍵と鎖という物理的な二重結界が現実的に存在しているのである。それらの障害を見せてやれば、それがたとえフクロウであろうとアナホリフクロウであろうと屋上への侵入を思い留まるだろう。
鍵の破壊に打って出るという選択も一応考慮には入れたが、ハセガワさん程のどっしりとした佇まいをした生き物が、道徳すら弁えていないこともあるまいと、そこは高を括ることにした。
間違っても霊障なんかで死んでたまるものか。
――随分と人が少なくなってきたな――
ハセガワさんが喋り出す。
「午前授業ですし、織媛の説得にも時間を喰いましたしね。学校に残ってる生徒達は、みんな部室やらグラウンドやらで部活動に躍起になっています。夏ですしね」
――霧雨なのに外でスポーツか。難儀なものだな――
「霧雨だからですよ。大人は雨の中で子供を走らせるのが好きですからね。大会も近いらしいですし」
――大人は嫌いか?――
「好きな大人より嫌いな大人がちょっとばかり多いだけですよ。どうせ僕の芯もブレていくでしょうけれど、元の芯がこんなですからね。さ、着きましたよ」
屋上へ続く扉の前で足を止め、「おや」というわざとらしい感想を零す。
目の前の両開き扉には、遠目からでも判別できるほどの屈強な鎖が、その取っ手にぐるぐると巻きついていた。一年前に興味で見に来た時と同じ光景だ。屋上でのんびり昼食を済ますことが夢だった当時の僕には、落胆という感情しか芽生えることはなかったが(中学生だからまだ給食なのだが。夢くらい見たっていいだろう)、今回ばかりは正反対の感情がアホみたいに心の中で万歳をしている。
「困った困った。扉に鎖が掛かっていますよハセガワさん。これは仕方がありませんね。現世で迷っている不幸な方を幸せにしてあげたかったですけれど、残念です。ここの自殺者にはずうっとここで迷っていて貰うしか手は無いですね」
――未来を舐めるんじゃない少年。君たち人間に限界など無い――
その言葉を受け取った直後、僕の頭部の重量が増す。
「見せてやろう明晴。人間の無限を」
「あなたフクロウでしょうが。頭の上じゃ見えないですし」
「文明の話だ少年。手を出せ、ビーヅだ」言う通りに右手を前に差し出すと、頭上からビーヅが降ってくる。
「ビーヅでどうしろって……。扉にビンタでもするんですか?」
「手荒な真似は嫌いだよ。何事もスマートかつしなやかに。ビーヅを左胸に当てて扉へ突っ込めばいい」
「どの辺がスマートでしなやかなんですか……」
「認識を利用するから現実との摩擦はゼロだ。スマートかつしなやかだろう?」
「認識? 扉をすり抜ける想像でもしろと?」
「正しくその通り。勿論難しいことだとも了承している。安心しろ、私のイメージを分けてやる」
「ええ……」
「なんだ? 失敗して頭をぶつけるのが嫌ならゆっくり歩いて抜ければいい。さぁ、ビーヅを心臓へ」
「は、はぁ……」頭をぶつけるのも嫌だけれど、それ以上に成功した後が嫌なのだ。……詳しく訊いておくか。それで危険そうならごねよう。命は惜しい。
「ハセガワさん。ゴーストの退治方法を先に訊いておきたいんですけど」
「退治方法?」
「ビンタでいいんですか?」
「いいや。それじゃあこいつは昇れない。意識に意思が混ざっている。怨念に成っているからな」
「じゃあ、どうやって?」
「殴って判らない奴はもっと殴る。奴らの場合はそれでいい」
「あの……。危険とかって……」
「いやっ……、無いよ」
「……え? なんすか? 口調崩れましたよね? 僕、まだ死にたくないんですけど……」
「大丈夫。私もサポートするし、安全だ。うん」
「うんってなんすか! どうせなら言い切ってくださいよ。もう大体分かってますから。危険もあるんでしょう?」
二、三人を喰った霊だ。そうそう弱い霊ということもあるまい。
「……負ければな。負けないぞ? 絶対」
「大丈夫ですよ、そんなに気にしなくても。世間がそこまで都合の良いものだとも思っていませんし。で、どうなんです? 確率としては何割死にますか?」
「六割」
「ん?」
聞き間違いだと、そう思った。だってそうだろ。先程まで絶対に死なないと勇気づけてくれていた生き物が、何故六割というリアルに死にそうな数字を叩き出してくるのか。
うん、聞き間違いだ。そんなことがあってたまるものか。
「何割ですって?」
「六割だ」
え~……、マジ~? 帰ろっかな~……。
「なんか高くないですか? 冗談ですよね? 初戦で緊張させない為のジョークですよね?」
「……大丈夫。支援はするし離脱も可能だ。今の割合は最後までゴーストと対面していた場合のものだし、離脱を視野に入れれば安全面も保証できる」
「離脱できるのなら見るだけ見てみますか……。とりあえずは知識を蓄えないとですね」
幽霊との戦闘。興味が湧かないわけでもない。
「いきますか」
「すまないな」
「いいですよ。どうせ僕も暇ですから」
ビーヅを心臓に優しくあてがう。
「そのまま目を瞑るんだ、明晴。そしてイメージしろ。君の前に立ちはだかる障害の一切が消えていくイメージだ。私の認識も流れ込んでいる。簡単な筈だ」
僕が今立っている、屋上へと繋がる天文中学校三階の踊り場。それが第一に僕の脳内で形作られる。それに続き、踊り場から学校全体に張り巡らされている廊下が、触手のようにうねうねと再生される。芯の無い、頼りない廊下になってしまったのは、三年生のエリアである一階の廊下が、どう繋がっているかが上手く想像できなかったためだろう。三階、二階の間取りが固定されてくる。廊下から教室、廊下からトイレ、廊下から職員室、廊下から体育館、廊下から玄関。自分が二年間利用してきたエリアが鮮やかに再生される。
「僕の学校だ……」
「そう、それが君の学校。そしてこれが……」
僕の脳内の踊り場にどっしりと腰を据えている両開き扉が異常を見せる。鎖はするりと静かにほどけ、蛇のように三階の床を這い、それと対照的に鍵穴は大きな音を立て、僕へと変化の情報を送り出す。
「君の扉だ」
「開いたんですか?」
「力で開けようとするな。心で命じろ」
「やってみます」
右手と左手をゆっくりと扉へ向けて伸ばし、明らかに扉の無い空中を二つの掌で優しく握る。そこにある、僕の、僕だけの取っ手を優しく握る。
「開け……!」その声に合わせ、爪が食い込む程拳に強く力を込め、両腕を背中の後ろまで大きく引く。
扉は強風にでも煽られたかのように、ガタガタと鈍い音を立て、押し寄せる謎の力を封じ込めようとする。そして、それが限界を超えたとき、ダムが決壊するかの如く、一瞬の時間の消費と共にその役割を終える。
屋上から一斉に冷たい風が流れ込み始める。
「開いた……」
「進め少年。全ては君と共にある」
「はい……」
一歩一歩、扉の先を目指してゆっくりと歩く。
それに従い、風の流れが僕の往く道を示し始める。
「これが僕の創った道」
そう呟き、目を瞑ったまま、僕は扉を超える。




