お姫様の帰還
こんにちは。読んでくださってありがとうございます。
「綺麗な川ね――」
オルグレン侯爵領から王都に向かうには、川沿いの道を辿っていけばいい。川のせせらぎが子守歌のように聞こえてくるのを聞きながら、リルティはテオにもたれ掛かり馬車の外を眺めていた。
「この川をオルグレン侯爵領の端までいけば海があるんだよ」
「海は行ったことがないわ」
「そうだね、海は少し遠いからね。王家の保養地があるから、いつかいけるんじゃないかな」
「そうね、フレイア様と一緒に海を見れるかもしれないわね」
楽しみだわと微笑むリルティに、テオは思っていることを飲み込むのに苦労した。
リルティがオルグレン侯爵領のフィリップで過ごした記憶はほとんどないようだったが、アンナに訊ねたところジュリアスと婚約したということは、なんとなく理解しているようだという。
ジュリアスの部屋での秘密の会議は、そういったことも含めた全員の意識のすり合わせであった。
現在わかっているのは、ジュリアスのことは嫌いではないだろうということと、婚約していることを知っているということ。怪我をしていたことは覚えているが、フレイアの部屋で籠城したことは薄ぼんやりとしか覚えていないようだった。
リリアナに突き落とされたことは覚えていなかったが、高い場所でジュリアスに抱き上げられたことは覚えている。
ちなみに記憶が錯乱しているときに、ジュリアスが部屋に来たことは覚えていない様だった。
ジュリアスは、医師の診断を待って、リリアナ達を護送するために先に王都へ戻ったので、しっかり目覚めた後のリルティには会っていない。その後三日ほど休養したリルティは、身体も元気になったから仕事がしたいと言って、王都へと戻ることにしたのだった。
「しんどくない?」
「大丈夫よ。仕事がまた慣れるまでしばらくかかるかもしれないけれど、もう怪我だってどこにいったかしらって思うほどだもの」
「でもリルティ様、しばらくは静養されるようにとジュリアス様がおっしゃっておりましたけど」
ジュリアスの名前を聞くなり、リルティの顔が硬直したように同乗していたアンナとグレイスは感じた。
「もう十分静養したわ」
少し硬い声でリルティは訴えるようにアンナを見た。
「怒ってらっしゃるのですね。勿論婚約者である貴方を置いて先に王都へ戻ってしまったジュリアス様に腹が立つのはわかります」
グレイスは、いつも大事なジュリアスよりもリルティを思いやってくれる。そんなグレイスを困らせたくなかった。
「お仕事ですから、気にしていません」
何故だか目が醒めてから、リルティはジュリアスを思い浮かべると酷くムカムカしてしまうのだ。それが何故なのかリルティにはわからなかった。
「ジュリアス様は、忙しそうだね」
「叔父様は暇みたいね」
「いや、忙しかったよ。フィリップは中々いい街でね。いいミルクと果物がとれるから、王都よりいいお菓子に沢山出会えた。新作の開発の手伝いもしてたんだよ。将来、おれは騎士団をやめてお菓子屋さんでも作ろうかな」
満喫した様子のテオとは裏腹に、リルティにはあいにく記憶がほとんどなかった。テオが買ってきたお菓子はどれも美味しかったはずなのに、それだけが残念でしかたなかった。
「フィリップは近いですから、いつでも遊びに来れますよ、リルティ様」
「あのグレイス様、王宮に入る前に言わなければと思って」
「リルティ様、私に様はおやめくださいとお願いしているのですけど――」
「いえ、あの・・・・・・ジュリアス様と婚約したとかいうのは、その・・・・・・リリアナ様をあぶりだすための罠・・・・・・とかではないのでしょうか」
どうやらリルティは、婚約したことは記憶の欠片から想像でいたようだが(着ているものや周りの態度から)、何か理由があるのではないかと考えているようだった。
「・・・・・・リルティ様。ジュリアス様は、リルティ様の領地にいらっしゃるご両親にお願いに上がり、お許しもいただきましたし、もちろん国王陛下にも祝福されておいでです。まだ周知はされておりませんが、それもリルティ様の怪我と記憶喪失のご心配されてのことですし、時間の問題です」
何故か酷く衝撃をうけたような顔のリルティに、アンナが追い打ちをかける。
「リルティ様、もしかして・・・・・・フレイア様の侍女に戻られるおつもり・・・・・・では?」
リルティは言葉なく、その通りだと頷いた。
「・・・・・・この先、リルティ様がしなければならないお仕事は、ジュリアス様のお世話ですよ」
「リル、メリッサ嬢との部屋はそのままだから、少しの間だけそちらに戻るかい?」
「「テオ様!」」
「だって、こんな顔のリルを離宮になんて戻したら、ジュリアス様に食べられちゃいそうでしょ?」
不安げで瞳が揺れているリルティの顔は、確かにジュリアスのいけない部分を刺激しそうだと二人も思った。
「・・・・・・リルティ様、残念ですが、本当にフレイア様の侍女には戻れないんです。これからご結婚まで沢山のことを勉強しないといけませんし」
「ジュリアス様と・・・・・・結婚・・・・・・」
何だろう、聞いてはいけないものを聞いてしまったと、三人は思った。その声は、喜びと戸惑いに揺れる乙女のものではなく、不安と戸惑いに揺れて絶望する乙女のものだったからだ。
「リルティ様、少しおたずねしてもよろしいですか?」
遠くを見つめるリルティにグレイスは、『ジュリアス様を愛しておいでですか?』と恐る恐る訊ねた。
確かに記憶が戻ったときは、リルティはジュリアスのことが大好きになっていた。記憶の欠片が伝えてくれた日々は、大体がジュリアスとのもので、声もなくただ幸せそうなジュリアスの笑顔があった。その傍らでリルティが微笑んでいることは想像に難しくなかった。
ジュリアスのそんな顔をみれば、満たされたような幸せな気持ちになるというのに、何故か不安が付き纏う。
王子妃となることへの怖れかもしれない。ジュリアスが自分を愛し続けてくれるのか不安になっているのかもしれない。
ただ一つ言えることは、ジュリアスの幸せそうな笑顔を守っていきたいと思う気持ちのみだった。
これを愛というのかしら――?
リルティは、正直にグレイスに話してみた。
「私がジュリアス様に相応しいなんて思えないわ。何もかも私は王宮で数多いる貴婦人に敵わない――」
ハッと息を飲んだアンナは、その後の言葉を想像したのだろうか。
「リル・・・・・・」
頭を撫でたテオに微笑むと、リルティは心配してくれた二人に向かって頭を下げた。
「でも私は、ジュリアス様の笑顔を側で見ていたいと思うの」
「「リルティ様」」
二人の目に安堵からか薄っすらと涙が浮かぶ。
「よろしくお願いします」
支えてくれようとしてくれている二人に、更に深く頭を下げたリルティと一緒にテオも頭を下げるのだった。
「リール! お帰りなさい」
「リル、元気そうね」
今日帰ってくることを聞いていたメリッサが、ゲルトルードと一緒に待っていた。馬車から降りて、一頻り抱き合うとテオが「おれは陛下にご挨拶に行ってくる」と言う。
「叔父様、ありがとう」
リルティが、ずっと一緒にいてくれたテオに礼を言うと、得意のウィンクでテオは去っていった。きっとこれから仕事があるのだろう。
「リル、荷物はどうするの? お部屋に運ぶなら手伝うわ」
「リルティ様、荷物は後で私がお運びいたします」
「アンナ、私が運ぶわよ。離宮に行くのでしょう?」
「リルティ様は、メリッサ様と一緒にお話しがしたいとおっしゃるので、しばらくは・・・・・・」
メリッサは、リルティを抱きしめていた。
「記憶は戻ったのよね?」
「ええ。気になることが一杯あるのよ」
「そう? 勿論私も聞きたいわ」
女同士のつもる話が色々あるのだ。
「トゥルーデ。貴方、リルティ様についていきなさい」
グレイスが娘であるゲルトルードに命じた声は、母ではない公人のものだった。
「はい、グレイス様」
「リルティ様、トゥルーデを護衛として側に置いて下さいませ。何かわからないことや困ったことがあったら同様に。しっかりお守りしてくださいね」
後半はゲルトルードに言い置いたグレイスは、リルティに挨拶をしてその場を去った。
「聞きたいことは山ほどあるわ。リル、私に今日と明日、フレイア様がお休みを下さったから、沢山おしゃべりしましょう。トゥルーデもいらっしゃいな。狭いけど、二人の寝台をくっつけたら、三人で夜通しお話しができるわ」
「あら、私も一緒でいいの?」
ゲルトルードは、部屋の外で待機しているつもりだったのだ。
「当たり前じゃない――。話によっては、ジュリアス様を〆ないといけないのよ。貴方以上のアドバイザーがいるわけないじゃない」
〆るのか・・・・・・と、奇しくもリルティとゲルトルードは、同時に思って肩を落とすのだった。