記憶のないお姫様
お久しぶりです。読んで下さってありがとうございます。
「あそこのお屋敷にいらっしゃるのはとても高貴な方なんですってね」
その噂を聞いたとき、早くもジュリアスの身分がばれてしまったのだとアンナは思った。厳戒態勢とまでは言わないもののジュリアスに選ばれてこの町に着いてきたものは少ない。噂とはいえそのままにすることは出来ないと、四人の町のかしましい女達の背後をリンゴを選んでいる振りをして聞き耳を立てる。
「とても優しい若奥様らしいわ。そんな目立って美しいわけでもないらしいんだけれど、どこか目を惹く方だって庭の手入れを手伝ったうちの旦那がいっていたわ。高貴な方とも思えないくらいに気さくに庭師たちにお茶を振舞ってくれたって大騒ぎだったのよ」
「うちの娘も使用人としてお仕えしているんだけれど、とても優しくて気品があって素晴らしい方だってこの前帰ってきたときにいってたわ」
「どこの奥方様なのかしらね。旦那様はとても格好いいらしいし、うらやましいわ」
アンナはホッとしながら、リンゴを三箱注文する。ジュリアスの身分がばれたのではないらしい。
「随分な量ですね、奥さん」
アンナも新婚の若奥様だから否定せずに頷いて「ええ。沢山いるのよ」と微笑むと、おまけにオレンジを一抱えくれた。
「一緒にお屋敷にお届けしましょうか?」
「ええ、お願いします」
他にも買うものが沢山あるから、アンナは嬉しそうな店主にお礼をいってからその場を去った。
春になった――。
王都ではライアンの立太式が行われていた。町もお祭りムードで浮き足だっているようだ。
店のあちこちにライアンの簡易版の姿絵が飾られていて、夢のような王子様に若い女の子はキャーキャー言っているのを微笑ましげに見ながらアンナは店を後にした。
これが終われば、王都からジュリアスが戻ってくる。ちなみに旦那様だと思われているのはテオのことである。
テオは、国王からエウリカ皇国に浚われたら困るからということで直々に休暇をもらって静養に王都から離れたリルティについてきた。場所は王都から少し離れたオルグレン侯爵領の中でも田舎に近いフィリップという町である。さすが側妃シェイラの仮の身分である侯爵領だけあって、道の整備も行き届いている。町の人間も大らかな人が多いのは、やはり統治がうまくいっているからだろうとアンナは思った。
「さぁ、頑張らないと!」
三人ほどの使用人で別れているものを揃えていく。十日後にある春のお祭りはライアンの立太式のお祝いも兼ねるからとても賑やかになる。アンナはその為に色々と揃えているのである。勿論屋敷には専属の業者も出入りしているのだが、リルティの考えで、町に少しでも利益がでるようにとこうしてアンナ達に品物を揃えてもらっている。
***
朝起きて、天気が悪いと頭が痛む。今日は天気がいいから体調もいい。身体は動きたがるのだけれど、心配した周りの者達が止めるので、リルティは今日もお茶を入れることくらいしか出来なかった。
「グレイス、このお茶にはミルクがあうわね」
お祭りに着ていくドレスの手直しをしてくれているお針子さん達の仕事を見ながら、リルティは側に立つグレイスを見上げる。
「そうですね。クッキーでも添えてあげましょうか。集中力を維持するのに甘いものはいいらしいですからね。リルティ様もお庭でお茶でも如何ですか?」
さすがグレイスはよく出来た人で、娘達のお茶受けを考えながらリルティにも休憩をさせようとするさり気なさはリルティは見習わなければと思う。
「何もせずにお菓子ばっかり食べていたら太っちゃうわ」
性分なのかリルティはジッとしている方が落ち着かない。庭にでて散歩くらいしかさせてもらえないが、町に行きたいとか川を見に行きたいとか森にベリーを摘みに行きたいとか色々飲み込んでいる言葉を早く口に出来るだけ元気になりたいと思っている。
「明日の夜にはジュリアス様もお帰りになりますから」
グレイスはリルティの婚約者の乳母なのだ。
婚約者の顔を思い出して、リルティは少しだけ赤くなった。
婚約者はジュリアスという名前の精悍な男性だ。政略結婚をするような身分の出ではない男爵令嬢のリルティとは王城で知り合い、ジュリアスが一目ぼれしたのがなれ初めだという。
ジュリアスは何と侯爵家の子息らしい。何故そんな人が自分の婚約者なんだろうかと、いくら考えてもわからない。どう考えても身分違いだ。
考えてもわからないのには理由がある。
リルティには、記憶がなかった。
リルティ・レイスウィード。それが自分の名前であることもわからなかった。
激しく痛む身体が治っても記憶は戻らなかった。覚えてはいないのだが、勤めていた王城で王女様を庇って怪我をしたらしい。そのときに頭を打って、記憶が遠くなったのだという。いつ治るのかは、神様だけが知っているらしい。
王城で身体を癒している間に、静養先が決まり、婚約者であるジュリアスが心配してついてくることになっていた。ジュリアスの他には叔父であるテオ、ジュリアスの乳母であるグレイス、婚約者に仕えているという人たちが、一緒にこの町に来たのは二週間ほど前のことだった。
「リルティ様?」
庭の東屋でお茶をいただいていたのだけれど、想いに耽っていたのをグレイスが咎める。
「グレイス、そんな怖い顔しないで」
「怖い顔をしていましたか? そんなに思いつめたように考え事をしていたら、また具合が悪くなりますよ。一緒にお祭りに行くのを楽しみにしているジュリアス様ががっかりされますよ」
何だかとても気恥ずかしい。
「はい、わかっているわ。ジュリアスは、とても心配症よね」
「それも無理はありません。リルティ様を見つけたとき、本当に酷い有様で、覚悟されたとおっしゃっていましたもの」
そういわれると、リルティは何もいえなくなる。
目が醒めたときも、その後もジュリアスは親身になってくれた。身体をいたわり、記憶をなくした私が混乱するのを横で支えてくれた。
彼が目を醒ますたびに本当に嬉しそうに「リル」と呼ぶから、リルティは落ち着くことが出来たといっても過言ではなかった。不安を払拭するほどの温かさをジュリアスは注いでくれた。
「リルティ様、お顔が赤いですわ。少しお熱でも出されましたか?」
真面目な顔でおちょくってくるグレイスに憮然とした表情を作ると、フフフと笑われてしまった。
「赤くなんてなってないわ」
頬を押さえても熱くない。グレイスはリルティをからかうためにそう言ったのだ。
「失礼しました。リルティ様がジュリアス様のことを想ってくれていると思うと嬉しくて」
ジュリアスの乳母であるグレイスが本当に嬉しそうにいうから、リルティは否定せずに今度こそ真っ赤になったのだった。
***
「アンナ、お帰りなさい。町はどうだった?」
帰ってきたアンナ達に話を聞きたくて、帰宅後に来てくれるように頼んでいたので、部屋を訪れたアンナに抱きつく。
「まぁまぁリルティ様、子供のようですわ。そういうことはジュリアス様にして差し上げないと。リルティ様にこれをお土産に買ってきましたわ」
抱きつかれたアンナは苦笑しながらもいそいそと包みをグレイスに手渡した。
「何を買ってきてくれたの? まぁショコラ?」
「リルティ様は大分お痩せになりましたからね。しっかりとお肉をつけないと!」
元の自分の体型を知らないが、それは結構ぽっちゃりさんではないだろうかとリルティは思っていた。ぼんやりしていると皆が皆、リルティを太らせようと食べ物を与えてくるのだ。
「ジュリアス様は痩せた女性は嫌いなのかしら?」
そういうと、グレイスもアンナも首が飛んでいくんじゃないだろうかと思えるほどに横に振って、「リルティ様だったら、痩せてても太っていても」と声を揃えていう。まるでリルティなら何でもいいかのような答えに、リルティは少したじろいだ。
「魔法にかかってお年を召してしまっても、猫に変えられてしまっても、ジュリアス様はリルティ様を諦めたりがっかりされたりしませんわ」
昨日リルティが読んでいた本が、魔法に掛かったお姫様を王子様が助けるお話だったのを知っているからだろう。
「そうね、アンナだってトーマスはそういうと思うわ」
仲のいい夫婦である二人を揶揄すると、アンナがコホンと咳払いをした。
「どちらでお召し上がりになりますか?」
リルティは、部屋で三人で食べましょうと提案した。アンナもグレイスも嬉しそうにお茶の用意をして、リルティは刺繍の道具を片付けた。
ジュリアスの家紋である百合の花を彼のシャツに刺していたのだ。
何故かしら、とても幸せすぎて怖い――。
そういったら、ジュリアスは笑うだろうかとリルティは明日会える婚約者の顔を思い出して少しだけ頬を染めるのだった。
ちょっと間が開いてしまいました。夏ばてから一転、季節の変わり目で体調不良です。ストレスかなぁと思いつつ、激しい肩こりと頭痛やらでヤバイです。久振りに更新できてよかったです。毎日PVを見ながら、早く書かなきゃと焦っておりましたが、私の好きな感じになってきて書いていて楽しいです。
記憶がないので、敬称はいらないと言われ、グレイスにもアンナにもジュリアスにも呼び捨てです(笑)。お楽しみいただけると嬉しいです。