王子様のいない間に
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ロクサーヌという女性は、この国で今一番有名な人ではないだろうか。
国王陛下の従兄弟であるホルドウィン公爵の妻であった人だ。
ホルドウィン公爵はこの春、まだ三十の若さで馬車の事故で亡くなった。彼は、愛人を連れていた。
それからの彼女は悲劇の主人公であり、社交界では夫に捨てられた女として、口さがない人々に噂されている。
リルティは勿論、顔は知っていたが、知り合いではない。
ロクサーヌの意図はわからなかったが、このリリアナという侯爵令嬢と話をしていても、多分楽しくはないなと思って、彼女に合わせることにした。
「ロクサーヌ様、私にご用でございますか」
リルティが微笑んで膝を折り、ロクサーヌに向かって礼をすると、ロクサーヌは仲のよい友達にするようにリルティをその場から連れていこうと手をとった。
「ええ、美味しいお茶菓子をもってきたのよ。リルティ様も好きだといいのだけど」
二人が連れだって行こうとすると、リリアナと後ろに控えていた令嬢二人は前を塞いだ。
「まだ、お話はすんでいませんわ。ロクサーヌ様、わたくしそちらの方に忠告がございますの」
「忠告? リルティ様に何かしら?」
ロクサーヌは後ろにリルティを庇うようにして、リリアナに対峙した。
「身分というものをわきまえるべきだと、言いたいのですわ。ジュリアス様はこの国にとって大事な王子様です。そんな大して美しくも身分が高いわけでもない侍女などがその手をとっていいとは思えません」
リリアナにとって、重要なのはジュリアスの気持ちではなく、身分や容姿なのだろう。自分に劣るリルティがジュリアスに手をとられて、ことさら甘やかされているように見えるのがリリアナにとっての屈辱であったようだ。
「そうですわ、リリアナ様というかたがいらっしゃるのに、失礼ですわ」
側にいるリリアナの友人達も同じ考えのようで、頷きあって結束を固めているようだった。彼女達にとって正義はリリアナにあって、リルティにはない。
「ジュリアス様が側にいらっしゃらないから王太子様も何だか寂しそうです」
その上、ライアンの気持ちまでも代行しているつもりなのだろう。
毎日、ライアンはジュリアスと視察に出かけているのに、それを知らないのだろうかとリルティはある意味気の毒に思った。
「それは、ジュリアスにいうべきじゃなくて?」
ロクサーヌは、扇で口元の笑いを隠してそう述べた。
「ジュリアス様はまだお若いもの。遊びたい盛りなのですわ、女がわきまえるべきです」
十歳近くも年下のリリアナに若いとか遊びたい盛りと言われたジュリアスは、情けないを通り越していっそ哀れだとロクサーヌは唇を噛んで笑いを堪えた。
「身分というのなら、貴女方、わたくしを煩わせるべきではないわ。わたくしが誰だかわかっていらっしゃるの? ねぇ、リリアナ様、わたくしは誰?」
「今は亡き公爵の奥方さまです」
「あら、わかってらっしゃったのね。てっきりわたくしを知らないのかと思っていたわ。わたくしはいったわよね? リルティ様はお友達だと。そのお友達を侮辱して、あなた達許されると思って?」
ロクサーヌは、舌戦を緩めなかった。
そこまで言われると思っていなかったのだろう。きっとその愛らしさで多少の無礼は許されてきたのだ。リリアナは侮辱されたと頬を紅潮させる。
反対に取り巻き達は、リリアナがここまで言われることなど今までなかったものだから、青ざめて口を結んだ。
「貴女のためを思っていってるのよ。二年前、侯爵令嬢でさえ、ジュリアス様の子供を身篭ったのにその恋を許されずに、ジュリアス様は外交に出られたのよ。あなたなんか、さっさと捨て……」
「お黙りなさい」
その声の主はロクサーヌではなかった。顔色をなくしたグレイスが高位女官にだけ許された濃い臙脂のドレスを掴んで声を上げたのだった。
「わたくしを誰だと!」
「お黙りなさい」
リリアナは鼻白んで、それを隠すように声を上げたが、同じように硬質な声に阻まれて、言葉を途切れさせた。
「グイレス様……」
リルティは、グレイスのそんな顔をはじめて見た。始終ジュリアスを叱ってはいたが、憤怒をあらわにしたのは見たことがない。
リルティの戸惑った声に、グレイスは頷いた。その顔は安心していいと言っているようだった。
「え、あれ? リルティ?」
明るい声が、リルティを呼んだ。場にそぐわない軽い声だが、明らかにその場に居合わせたものたちはホッとした。
「叔父様……」
葡萄のゼリーを片手にテオは極上の笑みを浮かべた。金の髪は朝日を浴びてキラキラと輝き、その瞳は楽しげだ。何故そんなに嬉しそうなのかリルティは気づいていた。
手にもった葡萄のゼリー。あれは叔父の好みの味だった。きっともう、一つ目は食べたのだろう。
「叔父様、護衛はどうなさったの?」
リルティはあえてゼリーの話題を避けた。
「今日は有給をもらったんだよ。皆と一緒に散策でもしてろってライアン様が。俺の主は優しい人なんだ」
テオは、天使の光臨かと思われるほどの笑顔を振りまいた。
自由にデザートを食べれるのがそれほど嬉しいのかと、リルティは呆れた。
「リル? なんでこんなところで……。もうお友達が出来たの? 良かったね」
テオは、リルティの頭を撫でた。
いくつだと思っているのだろうと、リルティは撫でられながらテオの顔を見た。明らかに子供に対する顔だった――。
「テオ・レイスウィード様? そちらの方とは……」
リリアナの友人が、勇気を振り絞るようにテオに尋ねた。
「リルティは、俺……いや、私の姪っ子です。兄の末娘なんですよ。まだまだお嬢様方のようなおしとやかな貴婦人にはほど遠いですが……」
いつかきっと……とその瞳は語っていた。兄大好きーな病を患っているテオは姪っ子にも夢を見ている。
「テオ様、リルティ様はきっと素敵な方に見初められますわ」
ロクサーヌの言葉に笑顔で頷くテオは、しとやかな貴婦人と呼んだ少女達に幸せのおすそ分けのようなウィンクをしてみせた。
ああ、叔父様もウィンクが出来たのか……とリルティは変なところを感心してしまった。
リリアナは形勢の不利を悟ったのか、それ以上は何も言わずに一礼して去っていった。
テオは唯の男爵の弟ではない。伯爵の血の繋がった正式な後継であり、王太子の側近だった。その顔力は女だけでなく男も誑すといわれるほどの魅力がある。そんな彼が愛してやまない姪がリルティだった。
ただの田舎ものの男爵令嬢で、侍女として働いていると思っていただけに、リリアナ達はリルティを嘲る気力を失ったようだった。
テオは首をかしげ、「あれ? 友達じゃなかったの?」と聞いた。
「そう見えたなら、叔父様、怪我は腕だけじゃなくて頭も打ったんじゃない?」
リルティは思わずそう言った。
「こちらが私のお友達だわ。ロクサーヌ様、ありがとうございました」
「いいえ、私はテオ様への恩を返そうと思っただけなのよ」
ロクサーヌは、そう言ってテオに微笑みかけた。
「恩など……」
「貴方が助けてくれなければ、わたくしはここで笑ってなんかいられませんでしたわ。怪我までして……」
テオの怪我はロクサーヌを助けた時に負ったのだとリルティは聞いた。
「夫がいる時から、ずっと付回されていました。自分だけがわたくしを助けられると信じていたようで……」
男は、不実な夫をもつロクサーヌに「公爵も遊んでいるのだから」と何度も誘いをかけていたらしい。勿論ロクサーヌはそんな男など相手にはしなかった。公爵が死んでからは執拗になっていて、恐怖で眠れない日もあった。
公爵家を継ぐ必要はなかったが、不憫なロクサーヌをこの『王太子様のバカンス』に誘ったのはライアンだったが、その行きがけにロクサーヌの馬車が襲撃されるとは思ってもみなかった。
たまたま(ライアンいわく幸運の神様の愛し子である)テオが、護衛巡回の列から外れて、道に迷っていたときにその襲撃に出くわしたのだった。テオは、近衛の中でも強かったが、それでも苦戦する戦いだった。襲撃者五人を相手に既に供のものは三人動く事ができないほどの怪我を負っていたし、御者は腰を抜かしていた。
たまたま、襲撃者の馬の耳にアブが入り込んで、暴走した。たまたま、テオの横を突っ切った馬はテオの左腕を負傷させたものの三人の男を巻き込んで逃げていったのだった。
右手一本で戦ったが、テオは負けなかった。
そしてロクサーヌは、テオを探しにきた護衛巡回の騎士に護られて、この城館にやってきたのだった。
リルティのことは、ライアンに聞いた。
「テオの姪御をジュリアスが執心なんだが、気にかけてやって欲しい」と言われて、ロクサーヌは頷いた。
テオには、返しきれないほどの恩を感じていた。
「わたくしは、別に結婚相手を探しにきたわけではないの。だから、リルティ様。困ったことがあったら、いつでもわたくしの元にいらっしゃい」
リルティは、色々なことを聞いたせいで困惑しつつも、優しいロクサーヌの言葉にホッと安心するのだった。
ちょっと長くなってしまいました。ロクサーヌさんの件かけてよかったです。