桜鯛の鱗
午睡を楽しんでいたら電話に起こされた。
「……もしもし」
欠伸を噛み殺して受話器を上げると、馴染みの湊さんだった。
『亮ちゃん、もしかして寝てたかい? 起こして悪かったね』
「いえ、ちょうど起きたところでした」
背筋を伸ばして受け答える。たとえ見られていなくても、しっかりとした態度を取ること。父によく言われたことだった。
『それでね、急なんだけどさ……』
畳の上に置いてあったメモ帳にペンを走らせた。
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5/12 20:30
湊さん 2名
桜 鯛
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「らっしゃい!」
東雲亮は腹の底から声を出した。
「こんばんは」
五十絡みの男性が暖簾をくぐった。後ろから二十歳くらいの楚々とした女性が続いた。
「お待ちしておりました。湊様」
「昼間は悪かったね。ああ、彼女を紹介するよ」
「はじめまして、さつきと申します」
物腰と似て、声もしっとりと落ち着いていた。
「東雲亮です」
亮は名刺を差し出した。細い指に触れそうになり、どきりとする。
「彼が東雲寿しの若社長だ。親父さんの頃からの付き合いで、もうかれこれ……」
「僕が生まれた年ですから、二十七年になりますね」
「そんなになるか」
亮の助け船に湊は気をよくした。顔が少し赤く、ほろ酔い加減に見えた。前の店で飲んで来たことが窺える。
「お飲み物は、ビールになさいますか」
「そうだな」
さつきも頷いた。
「例のもの、頼むよ」
「かしこまりました。まずは、おつまみになります」
亮は、薄い桃色の小鉢を二人の前に置いた。
「桜鯛の鱗です」
「鱗?」
さつきの目が丸くなった。
「そう、鱗だ。食べてごらん」
おそるおそるといった感じて、さつきの口元に箸が運ばれる。
「あ、美味しい!」
ぱりっとした歯ごたえと、ごま油の香り、ほのかな魚の味わいが口の中に広がる。
「こいつがビールに合うんだ」
湊が嬉しそうにコップを傾けた。
「鱗って、食べられるのね」
「意外だろ」
「ええ、知らなかったわ」
素直に頷いた彼女は十代の少女のように可愛らしい。見守る湊の顔もほころんでいた。
「鯛は捨てるところがないくらい、食べられる部位が多いのです。鱗もそのひとつです」
お客の笑顔を見ることが、板前である亮の楽しみである。喜んでもらえるのが何よりも嬉しい。
亮は冷蔵庫から桜鯛の半身を取りだした。下処理は済ませてある。何日か前から庫内で熟成させていた。
半身をざるに乗せ、皮目の上にさらしをかぶせた。そこに熱湯を回し掛け、すぐに氷水に浸ける。熱が逃げたところで、やや厚めに切っていく。熱で縮んだ皮目が反り返り、見た目にも美しい桜色のお造りが完成する。
「桜鯛のお造りです」
「綺麗。中はレアなのね」
「うん、ちょうどいい塩梅だね。親父さんと遜色ない」
亮は深々とお辞儀した。父の味を知る常連さんにそう言ってもらえると胸を張れる。認められた証拠だ。
頃合いを見計らって、料理を出していった。桜鯛の昆布締め、白子焼き。シャリを小さめに握った寿司。汁物は潮汁だ。
「もしかして、みんな鯛のお料理なの?」
「はい。湊様からご依頼を受けまして、鯛尽くしにさせていただきました」
「めで鯛って言うじゃないか」
言うかもしれないと思っていたことを湊が口にしたことで、亮は冷や冷やした。オヤジギャグで興が冷めては目も当てられない。
「まあ」
さつきは口元に手を当てて笑った。亮は心の広い彼女に好感を抱いた。
「ところで、お祝いとおっしゃってましたが、なんのお祝いだったんですか。卒業祝いとか、就職祝いにしては、時期がずれていますよね」
「結婚祝いだよ。言ってなかったっけ?」
「えっ」
亮の心の中に芽生え始めていた淡い感情が急にしぼんだ。
「……おめでとうございます」
落胆を表に出さないように苦慮して、お祝いの言葉を述べる。
「ありがとう」
さつきは頬を染めていた。
「そうだ、お酒をもらおうかな。亮ちゃんも一緒に祝ってくれよ」
「もちろんです」
こういうときのために取っておいた大吟醸の封を切った。
「それじゃ、俺たちの門出に乾杯!」
亮は酒を吹き出しそうになった。
「どうした、亮ちゃん」
「今、なんと?」
聞き間違いに違いない。
「俺たちの門出か?」
「娘さんが結婚するんです……よね」
まさかと思う。
「何言ってんの。俺に娘がいたら隠し子だよ」
そうだ。湊さんは独身のはずだ。
「結婚するのは俺とさつき。最初に言わなかったかい? 彼女を紹介するって。今日、籍も入れてきたんだよ」
「あらためまして、湊……さつきです」
恥ずかしそうに彼女は言った。
親子ほども年の離れた男女で恋愛が成立することに、亮は目から鱗が落ちる思いだった。