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 地平線が、咆えていた。

 それ以外に言いようがない。

 轟音は音ではなく圧力として大気を揺さぶり、草を薙ぎ、防衛線の最後方に控えていた伝令の少年の鼓膜を肉の内側から押し広げた。少年は声を上げようとして、声が出ないことに気づいた。咽喉が、恐怖で石になっていた。


 魔物の大群は、地平の端から端までを埋め尽くしていた。

 数えることなど意味をなさない。あの群れに個体の概念はない。押し寄せる黒い波濤、あるいは大陸そのものが牙を剥いて立ち上がったかのような、そういう種類の脅威だった。翼を持つものは空を塗り潰し、四肢を持つものは大地を踏み鳴らし、這うものは泥の中から這い出て、歯を持つすべてのものが、人間の方向を向いていた。


 太陽が、かすかに翳った。

 空の黒さは翼持つ魔物の群れが成したものだったが、防衛線の誰一人として上を見る余裕などなかった。前を向くことだけで精いっぱいだった。前を向き、武器を握り、隣の人間が死んでも足を止めないことだけを考えていた。


 人間の軍勢は、崩れかけていた。

 正確に言えば、何度も崩れ、何度も立て直し、その繰り返しの中でじわじわと、岸を削る波のように後退を続けていた。既に三つの防衛線を放棄している。後退するたびに守るべき国土が削れ、逃げるべき民間人が逃げ切れなくなる。最終防衛線まであと二本。それを破られた先に待つものを、この場にいる誰もが知っていた。知りながら、剣を振るっていた。


 最前列の一角が、崩れた。

 崩れた、というより、抉られたという方が正確だろう。人間三人を横に並べたほどの幅がある魔物が体当たりをかまし、盾を持った重装歩兵の隊列が岩に当たった木の枝のようにはじけ飛んだ。隙間に後続の魔物が雪崩れ込み、剣士たちが迎え撃つが、数が違いすぎる。一体を仕留めるあいだに三体が突破し、突破した三体を追うあいだにまた十体が——


「穴を塞げ! 左翼が抜けた、第二隊は左翼へ!」


 声が走った。

 人の声とは思えないほど透き通り、それでいて嵐の中でも届くような声だった。防衛線の後方、小高い丘の上に立つ人影が右手を天に翳している。魔術師の礼装——錬成された魔力繊維で織られた外套が風に煽られ、その手の甲で魔術紋が蒼白く燃えていた。防衛線全体を見通せる位置に立ち、視野を術で拡張しながら指揮を執る、この軍の頭脳だった。


「第四隊は中央の圧力を受け持て、押し返す必要はない、ただ動かすな! 右翼は十字陣を展開しろ、今すぐだ!」


 矢継ぎ早の指示が、崩れかけた防衛線に骨格を与える。しかし指揮官の眼には見えていた。どれだけ骨格を組み直しても、削れていく人間の数が、補充できる速度を超えている。このままでは——

 眼を閉じる。脳裏に広がる術式の演算が、最悪の結果を弾き出す前に、指揮官はそれを断ち切った。

 演算など、今は要らない。


「持ちこたえろ」


 誰に向けるでもなく、低く言う。

 それから指揮官は懐から取り出した小さな水晶板を握り締め、正確な時刻を確認した。連絡が来たのは十分前だ。術式転送の誤差を計算に入れても——


「……百五十秒だ」


 今度は全軍に届く声で言った。


「勇者の到着まで、あと百五十秒だ。何としてでも持ちこたえろ!」


 その声が防衛線全体を駆け抜けた瞬間、何かが変わった。

 諦めかけていた兵士の足が、止まった。崩れかけていた隊列が、わずかに締まった。百五十秒という言葉が、数字という形を持った希望として人々の胸に刺さった。終わりまであと百五十秒ではない。始まりまで、あと百五十秒だ。

 後方から別の声が上がった。


「ありったけの魔力瓶を用意しろ! 残量を問うな、開けろ、今すぐ全部開けろ!」


 補給部隊の長だった。魔力を結晶化して瓶詰めにした回復薬——通常は戦闘不能になった術師の回復のために温存されるものを、今この瞬間、戦闘継続中の術師たちに片端から回せという命令だった。

 命令の意味を、術師たちは理解した。

 術式の安全圏など無視しろということだ。魔力切れで倒れるまで撃ち続け、倒れたら瓶で補給し、また撃て。人間の限界を魔力瓶という消耗品で底上げする、使い捨ての戦法だ。自分たちが使い捨てにされることを理解したうえで、術師たちは詠唱を再開した。

 ただし百五十秒のあいだだけ。百五十秒さえ耐えれば、勇者が来る。


 炎の塊が空から降った。

 術師たちの放った火球が魔物の密集地帯に着弾し、直径十メートルほどの地面を一瞬で赤くする。しかし魔物の群れはそれを意に介さない。燃えながら前進するものすらいた。それが、この大群の恐怖だった。個体がいかに強力な術を受けようと、群れは止まらない。水に石を投げても川は流れ続けるように、個体の損耗は全体の意思に届かなかった。

 それでも、術師たちは撃ち続けた。

 地上では歩兵と魔物の混戦が続いていた。剣が振るわれ、爪が振るわれ、盾が砕け、骨が砕けた。人間の血と、魔物の体液と、踏み荒らされた泥が混ざり合い、戦場の地面はもはや大地としての体裁を保っていなかった。汚泥だった。人間と魔物の争いが積み重なり溶けて出来上がった、得体の知れない汚泥だった。


 一人の兵士が膝をついた。三十分以上、休みなく剣を振り続けた腕が、もう限界に近かった。視界が揺れる。隣の戦友が叫んでいるが、言葉が聞き取れない。前から迫る影が、ひどく遠く見えた。

 肌がぞわりと粟立った。

 死の予感ではない。別の何かだ。空気が、変わった。鼻の奥を刺すような、言いようのない匂い——いや、匂いではない、頭の奥で何かが軋むような、魔力が大気ごと歪む直前の気配だった。

 兵士は本能的に顔を上げた。

 空を見た。


 空に、人がいた。


 雲より高い場所に、一人の人間が浮かんでいた。

 それが人間であると認識するまでに、奇妙な時間がかかった。あの高さに人間がいるという事実を、脳が処理するのを拒んだからだ。鳥でも、術式で飛ぶ魔術師でもない。術式の光がない。翼がない。補助具がない。ただ在る、という様子で、成層圏のほとりに浮かんでいた。

 大気圏の縁に立つその人影は、小さかった。

 地上から見上げれば点にしか見えないはずの距離にいた。それでも、なぜか見えた。輪郭が、見えた。一糸乱れぬ静けさで両腕を広げ、地上を見下ろす、その姿が、なぜか焼き付くように見えた。

 魔物の群れの動きが、ほんの一瞬、揺らいだ。

 それは錯覚ではなかった。あれほど止まるものがなかった魔物の大群が、上空の一点に向けて、何かを感じた。何を感じたのかは分からない。ただ感じた。膨大な数の生き物が共有した、その感覚が、大群をほんの一瞬だけ停滞させた。


 ——その一瞬が、合図だった。


 上空から声が降りた。

 距離にして数キロメートル。肉声が届く距離ではない。しかし届いた。大気を媒介にしたのでも、術式で増幅したのでもない。ただ声が、届いた。雨が降るように、光が満ちるように、あたりまえの現象として降り注いだ。


我は在りて(エヘイェ・アシェル)在る者(エヘイェ)


 言葉の意味を、その場の誰もが理解した。人間も、魔物も、言語を持たないはずの生き物も含めて、その意味を受け取った。


「ゆえに、汝らは灰となる」


 空気の匂いが消えた。大気そのものが変質した。あの高さから降り注ぐ何かによって、この戦場の大気が書き換えられていく感覚があった。術師たちの顔が蒼白になった。彼らは術を扱う者として、魔力の気配を人より敏感に感じ取れる。今感じているのは魔力ではなかった。魔力の、さらに上位にある何かだった。名前のない何かだった。


 人影が、手を向けた。

 地上に向けて。


 すべてのものに向けて。




 ――熱線(フレア)




 光が、生まれた。


 大気圏のほとりから一条の光が走ったとき、見ていた者の多くが、その瞬間の記憶を後に語れなくなった。目が焼けたからではない。認識が追いつかなかったからだ。人間の目と脳は、あの種の現象を処理するための器官を持っていなかった。


 熱線は、直線だった。


 宇宙の法則が決めたように完璧な直線を描き、大気圏から地上へ、一秒にも満たない時間で到達した。地上に触れた瞬間、熱線は広がった。一点から波紋が広がるように、しかし波よりも速く、音よりも速く、人間の恐怖が次の行動に変換されるよりも速く、広がった。


 大地が、灼けた。灼けた、という言葉では足りないが、他の言葉がない。大地が灼け、大気が燃え、魔物が——消えた。燃えたのでも、爆ぜたのでも、砕けたのでもない。消えた。あれほどの密度で地平を埋め尽くしていた魔物の大群が、熱線の触れたところから順に、消えた。物体が消える前の一瞬だけ輪郭を描き、それから灰になり、灰すら空気に溶けた。

 音は、一拍遅れてやってきた。音というものを通り越して、衝撃として来た。立っていた者が足を踏ん張り、膝をついていた兵士は地に伏した。鼓膜の奥が痺れた。しかし誰も死ななかった。熱線は魔物だけを選んで灼いていた。人間の立っていた足元の土は、焦げてすらいなかった。

 それが、最も恐ろしかった。

 無差別でないということ。選んでいるということ。あの高さから、あの速さで、あれほどの熱量を解き放ちながら、なお選別できるということ。戦場に残った人間たちは、しばらく誰も動かなかった。勝利を実感するより先に、別の種類の恐怖が、足を根付かせていた。


 沈黙が、満ちた。

 魔物の轟音が消えた戦場に、風の音だけが戻った。焦げた土の匂いと、灰の匂い。煙が薄く漂い、視界の端で消えていく。地平線は、再び地平線として姿を現した。もう黒い波濤はない。もう翼の群れが太陽を翳らせることはない。

 上空に目を向ける者がいた。

 人影は、まだそこにいた。動いていなかった。あれほどの術を行使した後にも、呼吸の乱れすら感じさせない静けさで、ただ在った。地上を見下ろしていた。

 見下ろしている、と感じた。

 見守っているのか、観察しているのか、あるいは全く別の何かをしているのか、地上からは分からなかった。ただ、視線があった。実際に視線が届くはずのない距離に、視線があった。


 指揮官は水晶板を握ったまま、長いあいだ上空を見ていた。

 演算しようとして、やめた。あの現象を術式の枠組みで理解しようとすることが、そもそも間違いだと気づいた。魔術師として二十年以上を生きてきた指揮官の知識は、あの一撃の前では地面に引かれた線のようなものだった。意味はある。しかしあの高さから見れば、見えるかどうかも分からない。


 味方だ、と分かっていた。

 だから生きている。だから地は焦げていない。だから魔物は消えて、人間は残った。

 それでも。

 脂汗が、頬を伝った。

 傍らに立っていた副官が、かすれた声で言った。


「……これが、勇者か」


 誰も答えなかった。

 答える言葉を、持っていなかった。

 上空の人影は動かない。地上がどのような反応をしようと、関心がないとでも言うように、あるいは関心を持つことがそもそも思い至らないとでも言うように、ただそこに在り続けた。星が地上の騒ぎを気にしないように。太陽が人の事情を問わず昇るように。

 在りて在る者、という言葉の意味を、今になって全員が理解した。

 それは名乗りではなかった。存在の様式の、宣言。

 

 それから勇者は地上に降りることもなく、礼を受けることもなく、ただ空の向こうへ消えた。

 翌日、魔王が動いた。

 あれほどの力を見せられて、なお。

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