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金さえ積めば、この国をデバッグしてやってもいいが? ~守銭奴ハッカーの国家再起動~  作者: おぷっち


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7/10

奈落の底の最適解

世界が崩落する音は、こんなにも静かなのか。

無数のモニターが映し出すのは、垂直に近い角度で奈落へ向かう赤い滝。日本円、主要株価指数、あらゆる経済指標が揃って死のスパイラルを描いていた。アジトの外から響く数千の怒号すら、遠い世界のノイズに聞こえる。


『ラグナロクの時とそっくりね、ゼロ』


アンナ・ベルがコンソールに残した毒が、思考の回路を焼き切っていく。そうだ。そっくりだ。俺が信じた仲間バグに裏切られ、俺が築いたシステム(ロジック)が世界を破壊した、あの三年前の悪夢と。

コンソールに伸ばした指が、石化したように動かない。頭では理解している。市場をハッキングし、AIのアルゴリズムを逆手に取って買いシグナルを偽装する。それがこの状況における唯一の解だ。

だが、体が拒絶する。指先に、かつて世界を焼き尽くしたプロトコルの感触が蘇る。信頼を求め、裏切られた瞬間の、あの内臓を抉られるような感覚が。人間不信という俺の根幹を成すバグが、今、全身をロックしていた。


「非効率だな……」


乾いた唇から、誰に言うでもない呟きが漏れた。


その頃、アジトの扉の外では、桜井美咲がたった一人で数千の激情と対峙していた。

「国賊、雨宮零を出せ!」「我々の生活を破壊する売国奴め!」

黒田健がマイクで煽るたび、怒りの波が押し寄せる。彼女が黒田から奪い取った拡声器は、この巨大な憎悪の前ではあまりに無力に見えた。

「皆さん、聞いてください!」

最初の声は、いとも簡単に罵声の濁流に飲み込まれた。しかし、彼女は怯まない。腹の底から、もう一度声を張り上げた。

「この混乱で、本当に得をするのは誰なんですか!」

冷静な問いかけ。それは怒り狂う群衆の耳には届かない。だが、彼女は続けた。

「憎しみに駆られて、本当に叩くべき相手を見誤ってはいけません!」

「黙れ!」「お前も奴の仲間か!」

石つぶてが彼女の足元に投げつけられる。だが、桜井の瞳から覚悟の光は消えない。彼女は一度、目を伏せた。婚約者を失ったあの日の光景を振り払うように。


「三年前、私も……大切な人を失いました」


その声は、拡声器を通しても震えていた。しかし、その震えには魂が宿っていた。

「サイバーテロで、未来を奪われました。だから、憎しみの気持ちは誰よりも分かります。ですが……!」

彼女は顔を上げ、群衆の目を真っ直ぐに見据えた。

「憎しみの連鎖を断ち切らなければ、また同じ悲劇が繰り返されるだけだ! それでも私は、この国で生きていく人たちを信じたい!」

悲痛な叫び。それはサイバー防衛隊のエリートとしてではなく、一人の人間としての、魂からの訴えだった。

その言葉は、熱狂の中に一滴の冷水を落とした。最前列で怒鳴っていた数人の男たちが、ふと動きを止める。黒田が苛立ちを隠さずに再びマイクを握るが、一度生まれた僅かな静寂は、彼の扇動に小さな亀裂を入れていた。五分。それが俺との約束。彼女は、その絶望的な時間を稼ぐために、自らの傷を衆目に晒したのだ。


その頃、永田町の中枢、総理執務室では、鷹司早紀が静かに暴落する市場のモニターを見つめていた。傍らに立つ側近に、彼女は氷のように冷たい声で告げる。

「雨宮は失敗するでしょう。GENESISの最終フェーズ移行を準備させなさい。彼が失敗した時のための、保険よ」

その瞳に、揺らぎはなかった。


監視モニターに映る桜井の姿を、俺はただ見つめていた。

非合理的だ。バグだらけの行動だ。金にもならず、命の危険さえある。何の得にもならない。

しかし、その非合理な行動が、鉄の塊だった状況を、ほんの少し動かした。

俺が捨てたはずの正義。俺が切り捨てたはずの信頼。そんな非効率な概念が、今、俺の目の前で現実を動かしている。

アンナの言葉が再び脳裏をよぎる。『奈落への道標』。

「……ああ、そうかよ」

自嘲の笑みが漏れた。

「どうせ落ちるなら、一人じゃない」

凍り付いていた指が、ゆっくりと動き出す。過去のトラウマごと、このカオスに指を突っ込んでやる。損得勘定など、今はどうでもいい。ただ、モニターの向こうで戦う女の覚悟に、応えなければならないと思った。


エンターキーを叩き込む。

市場介入アルゴリズムが起動し、絶望的な売り一色だった市場に、巨大な買い注文が叩きつけられた。グラフの赤い滝が、一瞬だけ緑に変わる。

「いけ……!」

だが、その希望は刹那で打ち砕かれた。

緑の反発を飲み込む、さらに巨大な赤い津波。クロノスのAIが、俺の仕掛けた偽装シグナルを瞬時に解析し、カウンターを放ってきたのだ。いや、違う。この手口……AIの動きに混じって、奴の悪趣味な癖が滲み出ている。奴が絶望の底に沈む前に、この状況を予測して仕込んでいた自動報復プログラムか。

市場は回復どころか、乱高下を繰り返す制御不能なカオスに陥った。モニターの数字が、人間には追いきれない速度で明滅する。成功でも失敗でもない。最悪の混沌だ。


そのカオスが支配するモニターの片隅に、ノイズが走った。

一瞬だけ、無数の文字で構成されたアートが浮かび上がる。嘲笑うドクロマーク。

その下には短いメッセージ。


『まだ俺のゲーム盤の上だ、ゼロ』


奴の精神状態に関わらず、トリガーを引けば自動で表示されるようにセットされていたのだろう。血が、逆流する。

この悪趣味なジョーク。この手口。ジンだ。

カウンター攻撃のソースコードを瞬時に解析する。その中に、見つけてしまった。かつて、俺とジンが遊びで埋め込んだ、二人しか知らないはずの個人的なジョーク――『// 賽は投げられた、あとは神頼みか?』というふざけたコメントアウト。あれは、俺たちのバックドアの目印だった。

「……あの野郎……!」

歯が砕けるほど、奥歯を噛みしめた。怒りと屈辱で、視界が赤く染まる。三年前と同じだ。俺の技術を、俺のコードを、奴は利用して笑っている。

だが、その怒りの沸点で、脳の一番冷たい部分が閃いた。

カオス。そうだ、この市場の混乱こそがチャンスだ。クロノスのAIは俺のカウンターで過負荷に陥っている。予測不能な乱高下は、奴らのロジックを破壊する絶好の機会じゃないか。デッドマンズ・スイッチの根幹を叩き潰す、唯一の活路。

絶望の淵で見つけた、さらに危険で、さらに大規模な最適解。


俺が新たなコードを打ち込もうとした、その瞬間。


ゴウッ、と地を揺るがす衝撃と共に、アジトの全てが沈黙した。

主電源が落ちたのだ。黒田の連中が、地下のケーブルを切断しやがった。

全てのモニターがブラックアウトし、世界から音が消える。完全な闇と静寂。

数秒後、非常用電源が起動し、サーバーラックの赤いランプと、いくつかのモニターがぼんやりと空間を照らし出した。その幽玄な光に照らされた俺の顔に浮かんでいたのは、絶望ではなかった。


不敵な、獰猛な笑みだった。


「バグにはバグを、カオスにはカオスをぶつけるのがセオリーだ」


俺は震える指で、桜井へと繋がるプライベート回線を叩いた。


「桜井、聞こえるか。プランBだ。いや、プランZだ。これから世界で一番でかい花火を打ち上げる。お前にも『共犯者』になってもらう必要がある」

受話器の向こうで、桜井が息を呑む音が聞こえた。回線が不安定なのか、微かなノイズが混じっている。あるいは、彼の動揺が電子の波となって伝わってきているのかもしれない。


『……雨宮? 馬鹿なことを言うな。プランZなんてものは存在しない。それに、今そっちがどういう状況か分かっているのか! 黒田の部隊がビルを完全に包囲しているんだぞ!』


焦燥に駆られた彼の声が、静まり返ったアジトに響く。無理もない。彼は常に用意周到な男だ。不確定要素を嫌い、幾重にもバックアッププランを用意する。その彼にとって、俺の言葉は狂人の戯言にしか聞こえないだろう。俺は片手でキーボードを操り、最低限のシステムを再起動させながら、冷静に言葉を続けた。非常用電源では、全ての機能を動かすことはできない。だが、一点突破にはこれで十分だ。


「ああ、分かってるさ。だからこそ、だ。奴らが物理的に俺を拘束しに来るまで、あと数分。主電源を落とされたおかげで、クロノスからの直接攻撃も一時的に止まっている。この空白の時間こそが、最後のチャンスなんだ」


「桜井、お前の権限でシティバンクのメインフレームにアクセスしろ。証券取引システムのコア、その一番深い場所に、俺が以前お守り代わりに仕込んでおいたバックドアがあるはずだ。パスは『リデルの涙』」


『正気か!? そこは市場の心臓部だぞ! 下手にいじれば、世界経済が……!』


「ああ、世界経済が木っ端微塵になる。それこそが狙いだ」


俺は嗤った。声に滲む狂気を、桜井は敏感に感じ取っただろう。


「クロノスは市場のデータを食らって成長する怪物だ。その餌である市場そのものを汚染し、破壊する。奴が最も信頼するロジックで、奴自身を毒殺してやるんだ。バグにはバグを、カオスにはカオスを。覚えているか? 俺たちが昔、よく口にしていた言葉だ」


受話器の向こうで長い沈黙が落ちた。桜井の葛藤が、重い空気となって伝わってくる。彼の正義感、彼の立場、彼が守ろうとしてきた秩序そのもの。その全てを、俺は今、彼自身の手で壊させようとしているのだ。


『……失敗すれば、俺たちはただのテロリストだ』


絞り出すような声だった。


「成功したところで、歴史に名前が残るわけでもないさ。だが、やらなければ明日はない。お前が信じる秩序も、俺たちが生きてきたこの世界も、全てがAIの計算通りに動く箱庭に成り下がる。それでいいのか?」


ドアの向こうから、微かに金属が擦れる音が聞こえた。奴らが来たのだ。もう時間がない。


「選べ、桜井。秩序の番人として死ぬか、混沌の共犯者として生きるか」


一秒が永遠のように感じられた。やがて、ノイズ混じりのスピーカーから、覚悟を決めた低い声が響いた。


『……分かった。地獄の底まで付き合ってやる。だが、貸しは高くつくぞ、雨宮』


「ああ。地獄でゆっくり返させてもらうさ」


俺は通信を切り、目の前のモニターに向き直った。赤いランプが、まるで血走った眼のように俺を見つめている。外からは、特殊部隊がドアを破る鈍い音が響き始めた。

だが、俺の心は不思議なほど凪いでいた。指先は、最後のコードを奏でるために、静かだが力強く震えていた。

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