三重包囲網と逆転のアルゴリズム
俺の城が、揺れていた。
物理的な意味で、だ。床を、壁を、重低音が震わせている。それは、この廃ビルを取り囲む数千人の怒りが共鳴して生まれる地響き。モニターに映る無数のサーバー群が、悲鳴を上げるように微かな振動音を立てていた。
「国賊、雨宮を差し出せ!」「日本を売るな!」
くぐもった怒号が、防音壁を뚫って思考に突き刺さる。非効率なノイズだ。
視線を正面の巨大スクリーンに戻す。そこには、もっと雄弁な絶望が描かれていた。垂直に近い角度で奈落へと突き進む、真っ赤なチャート。日本円と主要株価指数が、雪崩を打って暴落していく。クロノスが仕掛けた「デッドマンズ・スイッチ」が正常に作動している証拠だ。
サイバーとリアル、二重の包囲網。まさにチェックメイト寸前の盤面。冷静を装ってコンソールを操作する俺の指先は、しかし、コンマ数ミリ単位で震えていた。
「雨宮さん……」
背後から聞こえた声に、俺は振り返らない。桜井美咲。前章までの悲嘆に濡れた瞳はそこにはなく、今はただ硬質な決意だけを宿して、俺の背中をじっと見つめている。婚約者を失った過去を告白し、何かを振り切った女の強さが、その佇まいにはあった。
その時、プライベート回線を示すアラートが鳴った。モニターの隅に、鷹司早紀の涼やかな顔が映し出される。国家の存亡がかかったこの状況でも、彼女の表情は能面のように変わらない。
『雨宮さん。最後の機会です』
冷徹な声がスピーカーから響く。
『プロジェクト「GENESIS」に協力なさい。それが、あなたとこの国が生き残る唯一の道です』
俺は鼻で笑ってやった。
「あんたの言う『道』は、国民の全金融資産を人質に取る独裁への一本道だろ。非効率な上に、新たなバグを生むだけだ。却下だな」
『……そうですか』
鷹司の瞳が、すっと細められる。その奥に、冷たい絶望の色が過ったのを俺は見逃さなかった。彼女もまた、崖っぷちにいる。
『ならば国民と共に沈みなさい。私は、この国を沈ませるわけにはいかない。たとえ、どれほどの泥を被ろうとも』
その言葉を最後に、通信は一方的に断ち切られた。
国家権力からの完全な絶縁宣言。これで、俺は公式に国家の敵となったわけだ。上等じゃないか。
「……本当に、見捨てるんですか」
桜井が俺の隣に並び、暴落を続けるチャートを睨みつけながら言った。その声には、非難よりも純粋な問いの色が濃い。
「見捨てる? 違うな。俺はただ、俺の仕事を遂行するだけだ」
「仕事……? あなたの仕事は、金儲けでしょう」
「ああ。だが、俺には美学もある」
俺はコンソールを叩き、新たなウィンドウを開いた。複雑な数式とアルゴリズムが、画面を埋め尽くしていく。
「俺の仕事はシステムのバグを修正し、最適化することだ。国家デフォルトなんていう致命的なバグは、俺の美学に反する」
嘯きながら、俺の脳裏には三年前の光景がフラッシュバックしていた。暴走するコード、麻痺するインフラ、そして俺を裏切ったジンの嘲笑。オペレーション・ラグナロク。あの時、俺はシステムを止められなかった。
過去の過ちを繰り返すのは、俺の性に合わない。それだけだ。
桜井が息を呑むのが分かった。
「まさか……あなた、この状況をどうにかするつもりなんですか」
「正気でこの国が救えるか。バグにはバグをぶつける。システムの脆弱性を突くのが、俺のやり方だ」
俺は指を止め、彼女の方を向いた。
「デッドマンズ・スイッチは、クロノスが保有する日本関連資産の投げ売りをトリガーに、世界中のAI取引アルゴリズムに追随売りをさせて市場を暴落させる仕組みだ。つまり、集団心理をプログラムで再現しているに過ぎない」
「……」
「ならば、その心理自体をハックしてやればいい」
俺がモニターに映し出したのは、市場の裏をかくための、神をも恐れぬ設計図だった。
「デッドマンズ・スイッチの『日本を売らせる』ロジックを逆ハックする。市場のAIアルゴリズムに、この暴落が『史上最大の買いシグナル』であると誤認させる偽情報を超々短期で断続的に流し込む。AIがAIを騙し、疑心暗鬼に陥ったところで、本命の買い注文を叩き込む。史上空前の『買い』を誘発させ、売り圧力を根こそぎ食い尽くす」
「市場を……ハッキングする……?」
桜井は絶句した。サイバー防衛隊のエリートである彼女の常識と倫理観が、俺の計画を拒絶しているのが見て取れた。当然の反応だ。これは世界の金融史に前例のない、禁じ手中の禁じ手なのだから。
計画の実行には、アジトの全サーバーリソースを注ぎ込んでも、なおギリギリの膨大な計算能力が必要になる。失敗すれば、市場の混乱を加速させ、デフォルトを確定させるだけだ。
まさに狂気の沙汰。
だが、狂わなければこの状況は覆せない。
その時だった。ビルを揺るがす振動が、一段と激しくなった。
「おい! 連中、地下の配電盤室に回り込んだぞ!」
モニターの片隅に表示された監視カメラの映像に、黒田健がデモ隊を煽動し、太いケーブルに手をかけようとしている姿が映し出された。アジトの生命線である非常用電源ケーブル。あれを切られたら、すべてが終わる。
タイムリミットだ。
黒田の背後で、彼の息がかかったハッカーがノートPCを開いているのが見えた。アジトのネットワークに対し、断続的なDDoS攻撃を仕掛けてきている。物理攻撃とサイバー攻撃の連携。素人にしては上出来だ。
俺は桜井を真っ直ぐに見据えた。
初めて、他人に何かを託す。それも、俺が最も信用ならないと思っていた女に。
「桜井」
俺の声は、自分でも驚くほど冷静だった。
「時間を稼げ」
「え……?」
「お前の信じる『正義』とやらで、あの連中を止めてみせろ。俺がこの国のバグを修正するまで、五分でいい」
頭は下げない。だが、その言葉には俺がこれまで誰にも見せたことのない、明確な信頼が込められていたはずだ。俺にはできない。人の心を動かすなんて、非合理的な芸当は。だが、この女なら。
桜井は一瞬、目を見開いた。彼女の頬を、一筋の涙が伝う。しかし、それは悲しみの涙ではなかった。
彼女は強く頷くと、俺に背を向け、アジトの扉へと向かった。
「……承知しました」
覚悟を決めたその背中を見送り、俺は再びコンソールに向き直る。
扉が開かれ、怒号の渦の中へ彼女が一人で飛び込んでいくのが分かった。
俺はモニターに映る桜井の姿を横目で見ながら、指を走らせる。彼女が単身で暴徒の前に立つ。拡声器を握る黒田の手を振り払い、それを奪い取った。ノイズ混じりに、彼女の悲痛な声が響き渡る。
「皆さん、目を覚ましてください! 本当の敵は、中にいる人間じゃない!」
その声は震えていた。だが、芯には鋼の強さがあった。
「私たちを憎しみ合わせ、この国を内側から壊そうとしている見えない敵だ!」
絶叫。
その瞬間、デモ隊の怒号の波に、明らかな動揺が走った。何人かが足を止め、顔を見合わせる。黒田の扇動によって一つの色に染まっていた群衆に、初めて別の色が混じった瞬間だった。
俺は、タイピングする指を一瞬だけ止めた。
モニターの中で、たった一人で世界に立ち向かう彼女の姿を、今まで見せたことのない複雑な表情で凝視する。
非合理だ。だが、悪くない。
最後のコードを打ち込もうとした、その時。
プライベートコンソールの隅に、暗号化されたメッセージがポップアップした。
送信者は、アンナ・ベル。
『そのアルゴリズム、懐かしいわね、ゼロ。ラグナロクの時とそっくりじゃない』
俺の指が、凍りついた。
全身の血が逆流する感覚。
この逆転の一手が、俺の最大のトラウマと地続きだったという事実。
そして、俺の全てが、まだ彼女の掌の上で踊らされているに過ぎないという、戦慄すべき可能性。
絶望の淵で掴んだはずの光が、奈落への道標だったと告げられていた。




