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金さえ積めば、この国をデバッグしてやってもいいが? ~守銭奴ハッカーの国家再起動~  作者: おぷっち


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偽りの勝利とデッドマンズ・スイッチ

無数のアラート音が、俺の城に葬送曲のように鳴り響いていた。壁一面を埋め尽くすマルチモニターには、世界の終わりを告げる赤い滝がいくつも流れる。ニューヨーク、ロンドン、東京――あらゆる金融市場のチャートが、揃いも揃って垂直落下を描いていた。クロノスという巨大な癌細胞を摘出した結果、世界経済という患者は危篤状態に陥った。株価指数は底なしの奈落へと落ち込み、為替レートは制御不能な暴落を続ける。ニュースチャンネルはパニックに陥った投資家たちの怒号と、破産宣告の報せを繰り返し流していた。


「これが……あなたの望んだ結果なんですか」


隣に立つ桜井美咲の声は、微かに震えていた。サイバー防衛隊のエリートである彼女の顔は、モニターの赤い光に照らされ青白く見える。その瞳には、目の前の惨状に対する深い困惑と、俺の行動が招いた結果への悲痛な問いかけが入り混じっていた。前章で協力し、僅かに芽生えた連帯感は、この世界規模の混乱を前にして、ひどく揺らいでいる。


「一つの巨大なバグを取り除いただけだ。システムが正常に動く過程で、多少のフリーズはつきものだろ」


俺は嘯きながら、冷めきったコーヒーを口に運んだ。だが、その声に3年前の復讐を遂げた高揚感は欠片もない。残ったのは、後始末の面倒さと、奇妙な空虚感だけだった。ジンを叩き潰し、クロノスを白日の下に晒した。だが、その達成感は、モニターに映る世界の悲鳴にかき消され、まるで意味をなさなかった。システムは、想像以上に脆く、複雑に絡み合っていたのだ。


けたたましいアラート音とは異質な、静かだが鋭い受信音がコンソールに響いた。暗号化された、最高レベルの秘匿通信。発信元は不明。前章で受け取った、あの不気味なメッセージと同じプロトコルだ。


俺がエンターキーを叩くと、モニターの中央に一行のテキストが浮かび上がった。


『ゲームの始まりよ、ゼロ』


心臓の奥が冷たくなる。ゼロ。ラグナロク事件で俺が使っていた、とうの昔に捨てたはずのハッカーネーム。同時に、桜井美咲が俺のハッキング手法を見て口走った「あなたのようなやり方で……多くの仲間が…」という、彼女が個人的な喪失を経験したことを暗示する言葉が、今、鮮明に脳裏をよぎった。送信者は、アンナ・ベル。その名前が、俺の脳裏に警鐘を鳴らす。テキストは即座に新たな情報に切り替わる。それは、複雑に暗号化されたプログラムコードの断片だった。


「なんだ、これは……」


俺は眉をひそめ、猛烈な速度でキーボードを叩き始める。指先がコードの森を駆け巡り、その構造を解き明かしていく。数秒後、俺は動きを止め、乾いた唇を舐めた。


「デッドマンズ・スイッチ……か。悪趣味な置き土産だな」

「デッドマンズ・スイッチ?」


訝しげに問い返す桜井に、俺はモニターを指し示す。

「クロノスが崩壊した場合に自動で発動するプログラムだ。奴らが世界中で買い支えていた日本国債、関連企業の株式、その他諸々の金融資産……そのすべてを、市場に一斉放出する」


俺の言葉に、桜井は息を呑んだ。顔色がさらに青ざめていく。

「そんなことをすれば……日本は、本当にデフォルトします!」

「ああ。俺の『勝利』は、こいつを発動させるための引き金に過ぎなかったわけだ。見事に踊らされたな」


自嘲気味に呟く。怒りよりも先に、技術者としての純粋な屈辱が込み上げてきた。ジンも、クロノスも、その先の破滅さえも、すべてはアンナ・ベルとやらの掌の上だったというのか。俺は無意識に、手のひらを強く握りしめていた。過去の裏切りの痛みが、手のひらの爪痕を通して微かに蘇る。


俺は即座に、総理大臣・鷹司早紀へのホットラインを繋いだ。モニターに映る彼女の顔は、官邸の執務室からだろうか、いつも通りの能面だった。瞳の奥にわずかな疲労の色が見えるが、それ以外は一切の感情を読み取れない。その冷徹な決意は、国家の命運を背負う者の孤独を思わせる。

「雨宮さん。ご苦労様でした。クロノスは事実上、機能不全に陥ったとの報告を受けています」

「呑気な挨拶はいい。それより、厄介な置き土産が見つかった」


俺はデッドマンズ・スイッチの存在と、そのロジックを簡潔に伝えた。数秒後には日本売りが始まり、国家破綻は避けられない、と。

しかし、鷹司の表情は一切変わらない。彼女は静かに頷くと、こう言った。


「想定内です」


その言葉に、俺は一瞬思考が停止した。

「……なんだと?」

「本当のデバッグはここからですよ、雨宮さん。この国の『バグ』は、あなたが思っているより根深い」

鷹司は淡々と、まるで天気の話でもするかのように続けた。その冷徹な声には、微かな絶望の影が宿っているように見えた。

「この『日本売り』に対抗するため、かねてより準備していた極秘プロジェクトを発動します。コードネームは『GENESIS』」


モニターに、極秘扱いの資料が表示される。その内容は、俺の想像を遥かに超えていた。

国民の個人・法人の金融資産を、一時的に国家管理下に置く。全ての取引を停止させ、強制的に市場の暴落を食い止める。それは、資本主義の根幹を揺るがし、民主主義国家の体をなさない、独裁にも等しい非情な計画だった。国民の財産権を一時的に剥奪し、国家が全てを統制する。その言葉の羅列は、寒気がするほどに合理的で、そして恐ろしい。鷹司が語る『GENESIS』は、単なる経済対策ではなく、国民を管理するためのシステムである可能性を匂わせる専門用語が随所に散りばめられていた。


「ふざけるな。国民を人質に取る気か」

「国が滅べば、国民の資産など紙切れになるだけです。これは、国家を救うための合理的な外科手術ですよ」


鷹司の瞳には、微塵の揺らぎもなかった。彼女にとって、国民とは国家というシステムを維持するためのリソースの一つに過ぎない。その冷徹な合理性に、俺は強い不信と嫌悪感を覚えた。金のために動いてきた俺が言うのもなんだが、こいつのやり方は一線を越えている。


「協力はできん。国家予算の0.1パーセントを積まれようが、俺はハッカーであって独裁者の片棒を担ぐ趣味はない」

俺が通信を切ろうとした、その時。


ドォン、という鈍い衝撃音と共に、アジトのビルが微かに揺れた。外から響いてくる、大勢の人間の怒号。

俺は即座に外部監視カメラの映像に切り替える。そこに映し出された光景に、思わず舌打ちした。


ビルの周囲を、数千人規模のデモ隊が埋め尽くしていた。クロノス崩壊による世界経済の混乱は、日本経済にも甚大な影響を与え、多くの国民が失業や資産の目減りに苦しんでいた。その怒りが、ネット上の扇動で瞬く間に集結したのだろう。拡声器を握り、群衆を扇動しているのは、保守派のリーダー、黒田健だ。以前から反政府勢力「大和の心」を組織し、世論の不満を煽り続けていた彼の活動が、この機に乗じて爆発したのだ。

『諸君!このアジトの場所は、ある憂国の士からのタレコミによって判明した!この未曾有の経済混乱は、鷹司政権と、それに雇われた国賊ハッカーが招いた国難である!』

プラカードには『雨宮零を断罪せよ』『売国奴を許すな』といった文字が踊っている。怒り狂う人々の顔は、モニター越しでもその熱気が伝わってくるほどだった。


「……リークされたか」

誰だ。このアジトの場所を知る者は限られている。鷹司か?それとも、アンナ・ベルか。アンナ・ベルからのメッセージと、この物理的包囲。もしや、これも彼女の『ゲーム』の一環か。俺は顔をしかめる。サイバー空間の戦いが、最も面倒な物理的、かつ感情的な領域にまで侵食してきた。ロジックの通じない、非合理な人間の激情。俺が最も苦手とする敵だ。


四面楚歌。まさにこの状況を言うのだろう。

モニターの中では冷徹な独裁者が協力を迫り、外では狂信的な愛国者たちが包囲網を狭めている。

俺は苛立ち紛れに、隣で唇を噛み締めている桜井に言った。


「お前も逃げた方が合理的だ。これはもう、あんたの監視任務の範疇を超えている」

それは、俺なりの最後の警告であり、不器用な配慮のつもりだった。桜井の顔から、微かに血の気が引いた。雨宮の言葉が、胸の奥に重く響いたようだった。彼女の瞳の奥に、深い悲しみの色が揺れる。


「逃げるわけには、いきません」


桜井の声は、静かだったが、その奥には張り詰めた意志が感じられた。微かに震える声が、彼女の動揺を物語っていた。彼女は雨宮をまっすぐ見据え、その瞳の奥には、抑えきれない悲しみがにじんでいた。

「私は……この目で見てきました。3年前のオペレーション・ラグナロクで、あなたのようなやり方で暴走したシステムのせいで、私の婚約者だった先輩は、死んだんです!」


婚約者。その言葉が、俺の思考に深く突き刺さる。桜井の表情が、モニターの赤い光の中でわずかに揺らいだ。

彼女の瞳から、透明な雫が静かに溢れ、一筋、頬を伝った。唇を固く噛み締め、声は一層震えを増した。


「だからこそ、もう二度とあんな悲劇を繰り返させない!暴走する『力』は誰かが止めなければならない……それが国家でも、あなたでも!」


その悲痛な覚悟は、ナイフとなって俺の胸を抉った。彼女の瞳の奥に、かつて理想を語り合い、俺が裏切られた仲間たちの姿が重なって見えた。正義を信じ、システムを信じ、そのシステムに殺された者たちの幻影が、俺の心を揺さぶる。


俺は何も答えられなかった。

ただ、無言でモニターに映る暴落する株価のチャートを、じっと見つめることしかできなかった。俺の脳裏には、桜井の涙と、過去の裏切りの記憶が交錯していた。


その沈黙を破るように、俺のプライベートコンソールに、再びアンナ・ベルからのメッセージがポップアップした。外の怒号も、鷹司からの催促も、すべてを嘲笑うかのような、残酷なほど優雅なフォントで。


『ゲームの次のステージへようこそ。最初の課題は「国民の信頼」よ、ゼロ』


物理的な包囲網。鷹司からは非情な国家プロジェクトへの協力を迫られ、そしてアンナ・ベルからは皮肉なメッセージが届く。サイバーとリアルの両面から完全に追い詰められた。手付金の5億も、これから入るはずの報酬も、このアジトでは何の役にも立たない。金では解決できない問題が、俺の目の前に巨大な壁としてそびえ立っていた。次の一手をどう打つか、究極の選択を迫られる。

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