カウンターハックと正義のバグ
冷たいデジタルの光だけが支配するアジトに、無機質なカウントダウンの音だけが響いていた。メインモニターに大写しにされた赤い数字が、一秒ごとに容赦なく生命を削り取っていく。
`ATTACK INITIATION: 00:15:00`
G-7サイバー安全保障会議メインフレームへの攻撃開始まで、あと十五分。世界の運命を決めるタイマーだ。俺の隣では、サイバー防衛隊の桜井美咲が、血の気の失せた顔でモニターを睨みつけている。その唇は固く結ばれ、己の無力さと、目の前の現実を呪っているのが見て取れた。彼女の信じた「正義」は、今や俺の手の内にある違法アクセス記録という一枚のカードの前で、脆くも崩れ去っていた。
「見ているだけか? エリートさん」
俺はキーボードの上で指を踊らせながら、彼女に視線もくれずに言った。モニターに映る俺の瞳には、三年前の裏切り者――ジンへの昏い炎が揺らめいている。
「……あなたを止める」
「無理だな。お前はもう詰んでる」
短い応答に、彼女が息を呑むのが分かった。そうだ、これは単なる防衛戦じゃない。これは俺のショーだ。
俺は指の動きを止め、ホログラム・インターフェースを起動させた。空間に青白い光の設計図が浮かび上がる。ジンの攻撃経路、クロノスのネットワーク構造、その心臓部を貫く一本の赤い矢印。
「これは防御じゃない。カウンターだ」俺は設計図を指でなぞりながら説明する。「ジンの攻撃はただの目くらまし。本命は奴の背後にいるクロノスだ。前章で『カサンドラ・エンジン』が奴らの通信経路を解析したおかげで、面白い脆弱性が見つかった。ジンが使うウイルスは、特定の通信ノードを通過する際にアップデート・チェックを行う。俺はそのノードを既に掌握済みだ。奴が攻撃を開始した瞬間、ウイルスに俺の『トロイの木馬』を注入し、クロノスのコアサーバーへの道を開かせる。奴の攻撃は、俺たちの神風になるというわけだ。名付けて『オペレーション・ショータイム』だ」
その計画の大胆さに、桜井は言葉を失っている。復讐と実利。俺の合理性が導き出した、最高のショーのシナリオだった。
「これは戦争だ」俺は初めて彼女の方を向き、冷徹に告げた。「お前の信じる『正義』ごっこは終わった」
「ふざけないで! そんなことをすれば、世界中が……!」
「ああ、パニックになるだろうな。だが、癌は早期に摘出しなければ手遅れになる。クロノスという癌を放置すれば、この国は確実に死ぬ。それだけのことだ」
俺の言葉に、彼女の瞳が激しく揺れた。しかし、作戦の遂行には、どうしてもパズルのピースが一つ足りない。サイバー防衛隊が持つ、正規のアクセス権限。それを持つのは、目の前の女だけだ。
「取引をしよう、桜井美咲」
俺は彼女の業務用端末に、例の違法アクセス記録を転送した。三回分の、言い逃れのできない証拠。彼女のキャリア、いや、人生そのものを終わらせる爆弾だ。
「俺の片棒を担げ。さすれば、お前の不正の記録は闇に葬ってやる」
「……汚い」
「褒め言葉と受け取っておこう」
彼女は唇を噛み締め、俺を睨みつけた。その瞳には、抵抗と、諦め、そしてわずかな迷いが浮かんでいた。俺は最後の切り札を切る。前章で解析した『Victim_List』を彼女のモニターに表示した。クロノスの非道な実験によって切り捨てられた、中小企業のリスト。その中には、見覚えのある名前があったのかもしれない。あるいは、三年前のラグナロク事件で守れなかった誰かの姿と、そこに並ぶ家族写真が重なったのかもしれない。彼女の強張っていた肩が、微かに震えた。
「お前の信じるガキの正義と、俺が信じる金の合理性。どっちがこの国を救えるか、今ここで賭けてみるか?」
カウントダウンは残り五分を切っていた。モニターの向こうでは、すでに世界の金融市場が混乱を始めている。悲鳴を上げるアナウンサーの声。彼女の正義が守ろうとしたはずの人々の絶望が、そこにはあった。
長い沈黙。
やがて、桜井は顔を上げた。その瞳から、迷いは消えていた。
「……分かったわ。あなたの言う『バグ』に、この国の未来を賭ける」彼女の声は、か細いが、芯があった。「だが、忘れないで。私はあなたを監視している」
監視者から共犯者へ。彼女は自らの手で、境界線を越えた。
`ATTACK INITIATION: 00:00:00`
その瞬間、世界は闇に包まれた。G-7会議の中継映像が途絶え、代わりにピエロの仮面を被ったアバターが画面をジャックする。ジンの下品な笑い声が、世界中のスピーカーから響き渡った。
「ショータイムの始まりだぜ、諸君! まずは手始めに、お前らの大事な金を紙くずにしてやろう!」
各国の証券取引所のシステムが次々とクラッシュしていく。世界中がパニックに陥る阿鼻叫喚の地獄絵図を背景に、俺は静かにキーを叩いた。
「本当のショーは、ここからだ」
コードの奔流が、俺の脳を焼き切らんばかりの速度で駆け巡る。ジンが仕掛けたウイルスは巧妙だった。だが、俺の敵はジンじゃない。その背後で糸を引くクロノスだ。
「桜井、ゲートを開けろ!」
俺の指示に、桜井は一瞬ためらった。彼女のコンソールに、防衛隊本部からの緊急通信を知らせるアラートが点滅していた。かつての仲間からの呼び出しだ。その一瞬の躊躇が、命取りになる。
「今だ!」
俺の怒声に、彼女は覚悟を決めた。震える指で自らのIDとパスワードを打ち込み、エンターキーを叩きつける。サイバー防衛隊が誇る最強の防壁『ユニット731』に、ほんの一瞬、裏口が開かれた。
その刹那を、俺は見逃さない。
ジンのウイルスが防壁を突破する。しかし、そのコードはすでに俺の手で汚染されていた。ジンがG-7のメインフレームに到達した――その時だ。
罠が、発動した。
「なにっ……!?」
ジンのアバターが驚愕の声を上げる。彼のウイルスは、俺が仕込んだ『トロイの木馬』の運び屋にすぎなかった。G-7のサーバーを踏み台に、クロノスの心臓部――厳重に秘匿されたコアサーバーへのゲートウェイが強制的にこじ開けられる。
クロノスの自動防衛システム『ケルベロス』が牙を剥き、俺のアクセスを阻もうとするが、もう遅い。こじ開けたゲートから流れ込むデータの奔流。その中から、一瞬だけ『研究報告書: Dr. Lee』という署名入りのファイルが掠め、次の瞬間には自己消去プロトコルによって霧散した。
「チェックメイトだ、ジン」
次の瞬間、G-7会議場の巨大スクリーンに映し出されていたピエロのアバターが、無数のノイズに掻き消えた。代わりに表示されたのは、巨大なクロノスのロゴ。
直後、全世界にブロードキャストされた。クロノスが行ってきた非合法な金融取引の全記録、タックスヘイブンを利用した巨額の脱税疑惑、日本経済を実験場として弄んでいたことを示す、おびただしい数の機密データ。ジンのサイバーテロは、結果的に黒幕の悪事を全世界に暴露する、壮大な自爆ショーへと成り代わった。
モニターに映るG-7会議の中継映像の中で、世界中の指導者たちが呆然とスクリーンを見上げる前で、ジンはデジタルな断末魔さえ上げることなく、ただ沈黙した。
アジトに、静寂が戻る。冷却ファンの音だけが、やけに大きく聞こえた。俺はコンソールのログを消去しながら、深く息を吐く。達成感も、喜びもない。ただ、深い疲労感だけが残っていた。
ふと、視線を感じる。桜井が俺を見ていた。その視線は、俺がログを消す直前に一瞬だけ開いていた、複数の人権団体やメディアへの匿名転送ウィンドウに向けられていたものだろう。
「……どうして」
「何がだ」
「最後のデータ……被害者のリスト。あれはあなたの復讐にも、お金にもならないはずよ。なぜ、あのリストを人権団体やメディアに?」
その問いに、俺は舌打ちした。被害者たちの顔が、家族の写真が、脳裏をちらついて消えない。合理的な思考の回路に、ノイズが走る。
「……バグだ」
俺は吐き捨てるように言った。
「俺のシステムに混じった、余計なノイズだよ」
忌々しい感情から目を逸らすように、俺はモニターに向き直る。だが、その時だった。プライベートコンソールに、見たこともない暗号化プロトコルで保護された一通のメッセージが届いた。
差出人は『アンナ・ベル』。
メッセージは、ただ一文だけ。
『――面白いショーでした、雨宮零。これであなたも私たちの『ゲーム』のプレイヤーです。歓迎します、"ゼロ"』
最後の単語に、俺は息を呑んだ。"ゼロ"。それは、ラグナロク事件当時に俺が使っていた、古いハッカーネーム。ジンと、俺を裏切った数人しか知らないはずの名前だった。
個人的な復讐劇は、終わった。
世界を裏で操る巨大な悪意との、本当の戦争が始まった。




