正義という名のバグ
サーバールームの静寂を破ったのは、鋭く突き刺さる声だった。
「あなたのやっていることは、ただのサイバーテロよ! 正義の名を騙らないで!」
振り返ると、サイバー防衛隊の桜井美咲が仁王立ちになっていた。その手は自身のコンソールに置かれ、瞳には純粋な怒りと、わずかな焦りが滲んでいる。監視役としては上出来なのだろう。だが、俺の仕事にとってはただのノイズだ。
俺はキーボードから指を離さず、彼女に視線だけを向けた。
「仕事の邪魔だ。黙って見てろよ、お嬢さん」
「黙って見ていられるわけがないでしょう! あなたが今やろうとしているのは、国家インフラへの無差別攻撃。明白な犯罪行為よ」
正論だな。だが、その正論がこの国を救えなかったから、俺がいる。
俺の意識は、先ほど見つけたデジタル署名に囚われていた。**3年**前、俺を裏切った男の痕跡。国家予算の**0.1%**、千億円以上が動くはずの金儲けの仕事は、いつの間にか個人的な復讐へと変質していた。アドレナリンが思考を加速させる。
「ならば、力ずくで止めることね」桜井は決然と言い放ち、自身のコンソールを操作し始めた。「サイバー防衛隊の権限において、このアジトへの物理回線を遮断する」
大胆な手だ。だが、甘すぎる。手付金の**5億**を注ぎ込んだこの城を、そう簡単に落とせると思うな。
俺はエンターキーを叩いた。刹那、桜井の目の前のモニターが明滅し、一つのウィンドウがポップアップする。そこに表示されたのは、彼女自身のアクセスログだった。
『SERVER-731: Access Denied. Override Code: M-Sakurai_2525』
『Unauthorized Access: Logged (3 times)』
桜井の息を呑む音が、やけに大きく響いた。
「その口でよく言う。お前の『正義』も、ずいぶんと都合のいいOSで動いているらしいな」
俺の追跡を振り切るため、彼女が少なくとも三度、違法なアクセス権限を行使した記録だ。正義の番人が、自ら法を犯している。その矛盾こそが、彼女のアキレス腱だった。
「これは……職務上必要な措置で……」
「詭弁だな。俺を捕まえるためなら手段は選ばない、か。俺と何が違う?」
桜井の唇が震え、言葉を失う。彼女の行動は、これで完全に無力化された。違法アクセスが公になれば、彼女のキャリアは終わる。そのリスクを背負ってまで、俺を止めることはできない。だが、この切り札にもコストはかかる。奴が残したネットワークの隠し機能『シャドウ・リード』を使ったことで、俺のアクセス痕跡もまた、奴の監視システムに刻まれたはずだ。追跡されるリスクは上がったが、今は目の前のタスクが優先だ。
俺は再びモニターに向き直り、癒着企業ネットワークの深層解析を再開した。邪魔者は排除した。あとは、**3年**前の亡霊を追い詰めるだけだ。
奴のデジタル署名を追跡すると、奇妙な痕跡に行き当たった。ネットワークの基盤に、見慣れないプロトコルが使われている。量子暗号通信……? こんなものが、ただの癒着ネットワークに使われているはずがない。
解析を進めるにつれ、背筋に冷たいものが走った。このプロトコルは、多国籍企業『クロノス』が特許を持つ次世代技術だ。なぜ、こんなものが。
思考のピースが組み上がっていく。この癒着ネットワークは、単なる国内の腐敗構造ではない。クロノスによる、日本経済を支配するための巨大な実験場だ。奴らはこの国を食い物にしている。そして、あの裏切り者は、その手先として動いている。
解析のコードを打ち込む指に力がこもる。さらに深層へ。俺は秘匿ツール『カサンドラ・エンジン』をクロノスのコアシステムに直結させた。脳を焼くような、神経が千切れるような負荷が頭蓋骨の奥を劈く。情報の奔流に意識が掻き乱され、視界が歪む。数秒の眩暈の後、神経を研ぎ澄まし、強制的に意識をクリアにする。これが、深層へとダイブするための代償だ。
不意に、モニタの隅に『Project: GENESIS』という文字列が浮かび上がった。だが、俺がカーソルを合わせるより早く、それはノイズに紛れて消えた。気のせいか?
カサンドラ・エンジンによる接続が深まるにつれ、過去の記憶の断片がフラッシュバックとして脳裏をよぎり始める。
さらにデータの海を深く潜っていくと、あるファイル群にぶつかった。暗号化レベルは低い。意図的に隠されていない、ゴミデータ置き場のような場所だ。いや、違うな。これはクロノスのAIによる定期監査用のバックアップデータだ。下手に触れれば、こちらの存在を感知されるリスクがある。
ファイル名は『Victim_List』。
興味本位で開くと、そこには膨大なリストが並んでいた。不正融資によって倒産に追い込まれた中小企業。理由もなく補助金を打ち切られ、廃業した町工場の名前。
「非効率な連中が淘汰されただけだろ」
俺は冷笑した。弱者は食われる。それが資本主義のルールだ。俺自身、そうやって生き延びてきた。
リストをスクロールする指が、不意に止まった。
添付されていた一枚の写真。古びた町工場の前で、作業着姿の父親と、少し疲れた顔の母親、そして小さな娘が笑っている。背景にあるのは、錆びついた旋盤機。俺の親父が、昔、同じような機械を自慢げに話していたのを思い出した。
病んだ母親と、なけなしの金と共に崩壊していった無力な父親。あの頃の記憶が、不意にフラッシュバックする。カサンドラ・エンジンが引き起こす脳への負荷が、その鮮明さを増幅させている。
一瞬、キーを打つ指が、止まった。
非効率なのは、システムだ。人間じゃない。
喉の奥に、何かが詰まったような感覚。俺は小さく舌打ちして、無理やり思考を断ち切った。
「……何を見ているの?」
いつの間にか背後に立っていた桜井が、静かに問いかけた。俺の僅かな動揺を、この女は見逃さなかった。
苛立ちがこみ上げる。俺は自分の内面を覗かれるのが何より嫌いだ。動揺を隠すように、俺はコンソールを叩いた。
被害者リストのデータ、そして、あの家族写真が、桜井の目の前の巨大モニターに大写しになる。
「これが、あんたの言う正しさ(・・)が守れなかった現実だ」
冷たい声が出た。自分でも驚くほどに。
「見て見ぬふりか? それとも、これも『必要な犠牲』とやらで処理するのか?」
モニターに映る家族の笑顔が、無言で桜井の正義を問い詰める。彼女は言葉を失い、モニターに映る家族の笑顔を食い入るように見つめた。その瞳の奥には、雨宮の言葉に対する反発と、しかし否定できない現実の重みが混じり合っていた。彼女の信じる正義と、その現実との間に、深い亀裂が走る予感がよぎったが、まだその意味を理解しきれていなかった。
俺は彼女から視線を外し、解析の最終段階へと移行した。感傷に浸っている暇はない。
裏切り者の痕跡は、クロノスのサーバーを経由していた。奴はクロノスを踏み台にして、どこへ向かおうとしている?
追跡プログラムが、ついに奴の最終目的地を割り出した。
『Target: G-7 Cyber Security Conference Mainframe』
G-7……サイバー安全保障会議だと?
奴が仕掛けたバックドアのコードを解析する。そのソースコードの片隅に、見覚えのあるコメントアウトを見つけた。
『// For a good time, call Zero. He's always broke.』
(楽しみたいなら零に電話しろ。奴はいつも金欠だ)
**3年**前、俺たちがよく使っていた内輪のジョーク。俺にしか分からないはずの、悪趣味なサイン。
奴だ。ジン。俺を裏切った男。
奴は、日本の国際的信用を叩き潰すつもりだ。個人的な復讐は、いつの間にか国家レベルの危機介入へと姿を変えていた。
モニターに映る侵入経路のログを見つめながら、俺の口角が吊り上がるのが分かった。
「上等だ。復讐の舞台が国際会議(G-7)とはな。金にはならんが、最高のショーを見せてやる」
不敵な笑みがこぼれる。
これはもう、ただのデバッグじゃない。世界を揺るがすサイバー戦争の始まりだった。




