鎖国病棟 ―閉ざされた日本の医療ミステリー―【前編】
本作はフィクションです。登場する人物・団体・出来事はすべて架空であり、現実のものとは関係ありません。
ただし現代社会における医療・政治・情報操作の課題を題材としています。
読者の皆さまと共に真実とは何かを考えるきっかけになれば幸いです。
プロローグ 閉ざされた国
雨粒が、灰色のアスファルトに無数の斑点を描いていた。新宿の雑踏の中で、矢上亮は立ち止まり、スマートフォンの画面を見つめる。通知欄には数百件を超えるメッセージが並び、その多くは罵声か、あるいは「陰謀論者」というレッテルだった。だが、ごく少数の声が彼を支えていた。
――「あなたのおかげで救われた」
――「真実を伝えてくれてありがとう」
彼は深く息を吸い、再び歩き出した。十年以上、権力の影を追い、数々の社会不正を暴いてきた。だが、今回ばかりは空気が違う。ワクチン政策をめぐる沈黙と圧力は、日本全体を覆う巨大な壁のようであり、その前に立つ自分はあまりにも小さい存在に思えた。
世界はすでに方向を変えていた。欧米の多くの国々は「危険性」を認め、製薬会社や政府要人が法廷で追及されている。だが、日本だけは違う。まるで鎖国のように、外部の警告を遮断し、同じ言葉を繰り返す――「安全で効果的」。その裏で、矢上の取材に応じた遺族たちは涙ながらに告白した。突然失われた命、副作用に苦しむ人々、それでも声をあげられない医師や看護師。
矢上は夜ごと記録映像を見返す。無機質な会見で、政治家や官僚が並んで口にする「問題はない」という言葉。そのたびに彼の胸には焦燥が募った。記者として、父親として、一人の人間として――黙っていることは罪だ。
やがて、一本の内部メールが匿名で届く。
「もし真実を知りたいなら、これを追え」
画面に映し出されたのは、厚労省の極秘データファイルだった。そこには、公式発表とはかけ離れた数値が並んでいた。
雨はますます強くなる。ネオンが滲む街を背に、矢上は拳を固めた。
「この国は、病棟のように閉ざされている。ならば、俺が扉を開ける」
その言葉は、自らに誓う呪文のようでもあった。
――闇の中に光を射す。それが、矢上亮の戦いの始まりだった。
第1章 孤高の告発者
第1節 孤立する声
夜のスタジオは静まり返っていた。築三十年の雑居ビルの一室、蛍光灯の白い光だけが机の上を照らす。矢上亮は、配信が終わったばかりのパソコン画面をぼんやりと眺めていた。チャット欄には怒涛のようなコメントが流れている。「陰謀論者」「反社会的人物」「消えろ」。だがその中に、ほんの数行だけ温かな言葉が混じっていた。「助けてくれてありがとう」「あなたの声で救われた」。その短い文が、心に重く沈んでいた疲労をわずかに和らげてくれる。
矢上は元来、権力に迎合することを嫌った。大手新聞社に勤めていた頃、政権寄りの記事を求められるたびに反発し、やがて独立した。フリーとなった今、彼に残されたのは小さな事務所と、かろうじて繋がっている視聴者たちだけだ。孤独は日常の一部であり、だがその孤独こそが矢上を動かす燃料でもあった。
配信のテーマは、日本がいまだ推進し続けるワクチン政策の異常さだ。欧米では危険性が公式に認定され、製薬会社や政治家が次々と責任を問われている。それにもかかわらず、日本は「安全で効果的」と繰り返すばかりで、国内の犠牲者は数え切れない。矢上はその矛盾を告発する映像を流した。厚労省の会見映像を切り取り、死亡例の数値と照らし合わせた独自調査。だが、表に出した瞬間から「デマだ」と罵倒されることも覚悟していた。
机の上には、古びたノートが一冊置かれている。そこには遺族や副作用に苦しむ人々から寄せられた証言が手書きで記されていた。「母を返して」「弟はまだ二十歳だった」。行ごとに涙の跡が滲んでいる。彼らは記者会見を開く力もなく、裁判を起こす資金もない。ただ矢上に「真実を伝えてほしい」と願いを託した。
携帯が震えた。見知らぬ番号。数秒間、矢上は応答をためらったが、結局スピーカーボタンを押した。
「……あなたの番組を見ています。危険です、気をつけて」
掠れた声の相手はそれだけ告げて、すぐに切れた。
矢上は無意識に窓の外を見やった。ネオン街の向こうに、黒い影が立ち尽くしている気がした。背筋に冷たい汗が流れる。誰かが自分を監視している――そんな妄想では片づけられない直感があった。
彼は深く息を吐き、ノートパソコンを閉じた。
「いいさ、どうせもう戻れない」
孤独な戦いは始まったばかりだった。
第2節 被害者の声
翌朝、矢上亮は郊外の小さな喫茶店に向かった。古びた木製のドアを開けると、奥の席に一人の女性が待っていた。年齢は四十代半ばほど、目の下には深い隈が刻まれている。矢上は軽く会釈し、向かいに腰を下ろした。
「……弟が、急に倒れたんです」
彼女は手を震わせながら、古びた封筒を差し出した。中には病院の診断書と、弟が笑顔で写る写真。まだ二十歳そこそこ、制服姿の若者がそこにはいた。診断書には「原因不明の心停止」とだけ記されている。
「接種して三日後でした。病院は関係はないと言い張って……。でも、健康そのものでした」
矢上は静かにペンを走らせた。彼女の声は震えていたが、その震えの奥に怒りが宿っていた。彼女は裁判も記者会見も望んでいない。ただ「弟の死を無駄にしたくない」と願っていた。
午後には、別の遺族が矢上の事務所を訪れた。今度は高齢の男性だった。妻を亡くし、手元に残ったのは白い骨壺と、厚労省からの形式的な補償書類。
「偶発的な出来事と片づけられました。何十年連れ添った人を失ったのに、数字の一つでしかないんです」
男の目からは涙が溢れ、声は途中で途切れた。矢上は言葉を挟まず、ただ深く頭を下げた。記者としての冷静さを保とうとしながらも、胸の奥に焼けつくような痛みが広がっていく。
その夜、矢上はノートを開き、被害者たちの証言を書き留めた。手帳の紙面は、無数の悲しみで埋まっていく。ページをめくるごとに、社会が見ようとしない現実が浮かび上がる。
「声を拾うのは俺しかいない」
呟いたその声は、自分に言い聞かせる決意のようでもあった。だが同時に、彼の胸には不安も広がっていた。これだけの声が存在するのに、なぜ社会は動かないのか――。
窓の外では、遠く救急車のサイレンが響いていた。
第3節 初の内部告発
深夜、矢上亮のメールに一通のメッセージが届いた。差出人は匿名、件名にはただ「警告」とだけ記されていた。本文には短い文章と共に、暗号化されたファイルが添付されている。
――「あなたを信じています。ですが、これ以上は危険です。資料を確認してください」
矢上は思わず息を呑んだ。ファイルを解凍すると、そこには病院の内部文書のコピーが収められていた。接種後に死亡したとされる患者の症例リスト、非公開とされていた副作用報告、そして「要報告」とマークされながらも外部に出されていない記録。日付はつい数週間前のものだった。
「……隠していたのか」
声に出すと、重苦しい空気が部屋を覆った。矢上は即座にプリントアウトし、手帳に挟み込む。これが公表されれば、厚労省や医療機関の責任は避けられない。だが、送り主の身元を明かすわけにはいかない。
翌日、矢上は指定された駅前の喫茶店に向かった。店内の片隅に、白衣姿の若い医師が座っていた。彼は落ち着きなく指先を震わせ、矢上が近づくと小さな声で言った。
「……見ていただけましたか」
「君が送ったのか」
「はい。でも、もう時間がありません。上からの圧力が強すぎて……。昨日も同僚が突然転勤させられました。私も長くは持たない」
矢上は真剣な眼差しで彼を見つめた。医師は声を震わせながらも、最後に言葉を絞り出した。
「これは医療じゃない。ただの実験です。国民を、患者を守るために、どうか真実を公にしてください」
その瞬間、店の外でスーツ姿の二人組が立ち止まるのが窓越しに見えた。矢上と医師は思わず視線を交わす。緊張が走る。
矢上は深くうなずき、手元の資料を鞄に滑り込ませた。
「必ず守る。君の声も、患者の声も」
医師は安堵の笑みを浮かべたが、その影は一瞬で消えた。出口に消えていく背中を見送りながら、矢上は胸の奥に強い確信を抱いた。
――ついに、内部が動き始めた。
第2章 沈黙する病院
第1節 若手医師の葛藤
大学附属病院の白い廊下は、どこまでも無機質に続いていた。矢上亮は面会許可を取りつけ、内部告発を示唆した若手医師との接触を試みていた。案内された小会議室に入ると、そこには白衣の青年が待っていた。年齢は三十前後、額に浮かぶ汗が緊張を物語っていた。
「……本当に、記録を見たんですね」
医師は椅子に腰を下ろし、声を潜めた。彼の名は仮に「宮本」としておく。矢上はうなずき、持参した資料を机に置いた。
「あなたが送ってくれたデータは確かに確認しました。だが、どうしてあなたが?」
宮本は唇を噛み、しばし沈黙した後、ぽつりと漏らした。
「患者の死が……もう見過ごせないんです」
彼は、つい先週の症例を語り始めた。接種後に急変した若い女性。救命処置を施したが助からず、カルテには「基礎疾患の影響」と記されていた。しかし宮本は断言した。
「彼女は健康そのものでした。記録を書き換えろと命じたのは上司です。もし拒めば、私のキャリアは終わる。……でも、これじゃ私は加害者だ」
矢上は無言でペンを走らせる。宮本の目は揺れていた。医師として患者を守りたい気持ちと、組織の命令に従わざるを得ない現実。その狭間で、彼の精神は削られていた。
「私たち若手はわかっているんです。でも、誰も声を出せない。出した瞬間に飛ばされるか、医局で干される。だから……こうして、あなたに託すしかないんです」
その声は掠れ、涙を堪えるように震えていた。矢上は資料を閉じ、静かに彼の方へ身を乗り出した。
「宮本先生、あなたの勇気は無駄にしません。必ず社会に届けます」
会話が終わりかけたとき、廊下から足音が近づいた。ドアの前で一瞬止まり、また遠ざかっていく。二人は息を潜め、互いの視線を交わした。
宮本は震える手でペンを握り、メモ用紙にひとつの言葉を書いた。
――「次は看護師です」
矢上は頷いた。沈黙する病院の奥底で、声なき抵抗が広がり始めているのを確かに感じていた。
第2節 看護師の声なき抵抗
病院の裏手にある職員用の休憩室は、夜になると人気が途絶える。蛍光灯がちらつく薄暗い室内で、矢上亮はひとりの女性看護師と向き合っていた。二十代後半、名札には「佐伯」とある。彼女は緊張した面持ちで、カップのコーヒーに手を伸ばしたが、ほとんど口をつけなかった。
「……先生から聞きました。あなたは記者の矢上さんですね」
矢上が頷くと、佐伯は周囲を気にしながら声を潜めた。
「正直、怖いんです。でも、もう見ていられなくて」
彼女が語ったのは、病棟で繰り返される「矛盾」だった。接種直後に容体が急変した患者。家族が「ワクチンが原因ではないか」と詰め寄っても、医師たちは口を揃えて「偶然です」と答える。看護師である佐伯は、記録係としてカルテの修正に立ち会わされることもあった。
「本当は接種後に発症と書いてあったのに、上司が既往症による悪化に書き換えろって……。私、震える手でその指示に従いました」
彼女の瞳に涙が浮かんだ。
「患者さんの目を、家族の泣き顔を、全部見てきたんです。それをなかったことにするのが、どれほど残酷か……。でも、拒否したらすぐに辞めさせられる。看護師は医師より立場が弱いんです」
矢上は胸の奥が痛んだ。記者として冷静に話を聞こうと努めながらも、佐伯の苦悩は鋭く突き刺さった。
「だから、せめて……」
佐伯はポケットから小さなUSBを取り出した。
「ナースステーションの記録を少しだけコピーしました。全部は無理でしたけど、せめてこれを」
矢上は深く礼を言い、それを受け取った。USBの重みが、手の中で異様に増して感じられた。
別れ際、佐伯は小さく囁いた。
「どうか、誰かを救ってください。私にはもう、これしかできませんから」
休憩室を出ると、病院の廊下は静まり返っていた。だが矢上には、見えない監視の視線が背後にまとわりつくような感覚があった。沈黙の中で、声なき抵抗は確かに広がり始めている。
第3節 初の内部告発の代償
翌日の朝刊には小さな記事が載っていた。「大学病院の医師、不明のまま失踪」。名前は伏せられていたが、矢上亮には誰のことかすぐに分かった。数日前、資料を渡してくれた若手医師――宮本だ。
電話をかけても、もう繋がらない。病院に問い合わせても「一身上の都合」としか答えない。矢上の背筋に冷たいものが走った。あの夜、喫茶店で感じた監視の影が現実となって迫ってきている。
夕方、事務所に駆け込んできたのは看護師の佐伯だった。顔は蒼白で、息を荒げている。
「……矢上さん、私、もう病院にいられません」
彼女は涙を浮かべながら言った。
「上司に呼び出されて、余計なことはするなって脅されました。私がUSBを渡したのを、誰かが知っているんです」
矢上は深く息を吐き、机に拳を置いた。被害者の声を拾うだけでなく、今度は証言者自身を守らねばならない状況に追い込まれた。だが、記者にできることは限られている。彼は佐伯を落ち着かせ、しばらく身を隠すよう助言した。
夜になり、矢上はUSBのデータを解析した。そこには、接種直後に搬送され急変した患者のカルテがいくつも並んでいた。だが、公式報告書には一件として記されていない。削除されたログの痕跡まで残されていた。
「これは……完全な隠蔽だ」
矢上は独り言のように呟き、ノートに大きく赤字で「証拠」と書き込んだ。
だが、背後で物音がした気がして振り返る。窓の外、街灯の下に黒い車が停まっている。誰も降りてこない。だが、その存在だけで胸が圧迫される。
「もう後戻りはできない」
ペンを握る手に力がこもった。内部告発は始まった。だが、それは同時に、誰かの命を危険に晒すことを意味していた。矢上は初めて、自分の取材が「国家規模の闇」と真正面からぶつかることを痛感していた。
第3章 権力の影
第1節 高野の記者会見
都心のホテル宴会場。天井から吊るされたシャンデリアが煌めき、記者たちのフラッシュが絶え間なく光を放っていた。演台に立つのは、元ワクチン担当大臣・高野。背広の襟は乱れひとつなく、表情には余裕すら漂っている。
「ワクチンは安全であり、国民の健康を守るために不可欠です」
高野の声はよく通り、まるで演説のようだった。だが矢上亮の耳には、その言葉が空虚に響いた。観客席の記者クラブは、彼の言葉に合わせて頷く者も多い。質問も形式的で、突っ込んだ内容は避けられていた。
矢上は最後列から鋭く手を挙げた。
「高野大臣。あなたが在任中に交わした製薬会社との契約金額について、なぜ詳細が非公開なのですか?」
一瞬、会場がざわめいた。高野はわずかに眉を動かし、しかしすぐに笑みを浮かべた。
「契約は適切な手続きを経て行われました。公開できないのは安全保障上の理由です」
模範解答のような言葉。だが矢上は食い下がった。
「では、なぜあなたの関連政治団体に、ある企業から多額の寄付金が流れているのか。国民はそれを知る権利があります」
フラッシュが一斉に瞬いた。空気が張り詰め、他の記者たちが一斉に矢上を振り返る。高野は数秒黙り、そして声を低めた。
「あなたは根拠のない中傷をしている。そんな無責任な言論は国を混乱させるだけだ」
その言葉と同時に、会場の警備員が矢上に近づいてきた。取材資格を持つはずなのに、まるで排除するかのような動き。矢上は冷たい視線を浴びながらも、手帳に一行だけ書きつけた。
――「金の流れは必ず暴け」
会見後、矢上はホテルのロビーに出た。背後から声をかけられる。
「無駄ですよ。相手は鉄壁です」
振り返ると、スーツ姿の中年男性が立っていた。名を名乗らず、名刺も差し出さない。だがその瞳には、警告と諦めが入り混じっていた。
「それでもやるしかない」
矢上は短く答え、ロビーを後にした。
夜の街に出ると、冷たい風が頬を打った。高野の言葉と態度は、むしろ矢上の決意を固める燃料になっていた。
第2節 次期総理候補・石葉の暗躍
霞ヶ関の夜は、昼間の喧噪とは別世界のように静かだった。矢上亮は、信頼できる元官僚の案内で、とある議員会館の一室に足を踏み入れた。薄暗い照明の下、資料が束ねられた段ボール箱が机の上に置かれている。
「これは全部、石葉の政治資金に関する内部資料だ」
元官僚は低い声で言い、震える指先で封を切った。矢上が覗き込むと、そこには海外の財団からの多額の送金記録が並んでいた。名目は「医療支援」「途上国ワクチン供給」。だが、その資金の一部が国内の企業を経由し、最終的に石葉の関連団体に流れ込んでいる。
「これじゃ……支援じゃなく、裏金だ」
矢上の声が漏れた。
石葉は国会で「国民の命を守る政治」を掲げ、次期総理候補として人気を集めている。しかし、その裏で国際的製薬財団と密接に結びつき、日本を「モデルケース」として利用している可能性が浮かび上がった。
その夜遅く、矢上は都心の高級ホテル前で石葉本人を目撃した。黒塗りの車から降り立ち、外国人の実業家と握手を交わしている。笑顔の奥に、冷徹な計算が覗いていた。記者団はそこにおらず、矢上だけが遠くからカメラを構えた。
シャッター音が響いた瞬間、石葉の視線がこちらを射抜いた。わずかに目を細め、口角を上げる。まるで「好きに撮れ、どうせ潰す」と告げるかのような笑みだった。
矢上は心臓が跳ねるのを感じながらも、シャッターを切り続けた。証拠を残すこと。それが唯一の盾だった。
事務所に戻ると、匿名のメールが届いていた。
――「石葉には近づくな。命が惜しければ」
矢上はしばらく画面を見つめ、深く息を吐いた。恐怖が全身を包む。だが同時に、体の奥で炎のような衝動が燃え始めていた。
「ならば、なおさら暴くしかない」
石葉という巨大な影。その暗躍を追うことが、次の戦いの舞台になるのは間違いなかった。
第3節 矢上への脅迫
深夜、矢上亮の事務所に電話が鳴り響いた。番号は非通知。受話器を取ると、電子的に歪められた低い声が耳を打った。
「矢上亮。お前は一線を越えた。石葉の名を記事にするな。二度とだ」
言葉は短く、無機質だった。だが最後に付け加えられた一文が、矢上の心臓を掴んだ。
「お前の家族の住所も、行動もすべて把握している」
通話は一方的に切れた。受話器を握る手が汗で濡れている。静まり返った部屋の中、窓の外を覗くと、街灯の下に黒い車が停まっていた。昼間ホテル前で石葉を撮影した時と同じ型だ。
翌朝、ポストに一通の封筒が投げ込まれていた。中には矢上の娘が通う学校の写真が数枚。裏には赤いインクで「次はない」と書かれていた。
矢上は机に突っ伏し、深く息を吐いた。恐怖が喉を締め付ける。記者としての使命感と、一人の父親としての本能的な不安が激しく衝突する。
そのとき、スマートフォンに新しい通知が届いた。匿名の差出人からだった。
――「恐れるな。あなたが沈黙すれば、犠牲はさらに増える」
短い文章。しかし、まるで背中を押す灯火のように胸に響いた。矢上は震える手で娘の写真を机の引き出しにしまい、取材ノートを開いた。
「俺が止まれば、誰も止められない」
その言葉は、恐怖に飲み込まれそうな自分を奮い立たせる呪文だった。
窓の外では、再び黒い車が静かに動き出す。矢上はそれを見送りながら、次なる戦いの舞台が「情報」と「暴力」の両方に及ぶことを悟った。
第4章 偽りの声
第1節 インフルエンサー・堀田の煽動
都内のテレビ局スタジオ。煌々とした照明の下、番組は生放送の真っ最中だった。画面の中央で堂々と語っていたのは、実業家であり有名インフルエンサーの堀田。トレードマークの派手なスーツと軽妙な口調で、彼は視聴者の心を掴んでいた。
「ワクチンが危険だ? そんなのは全部デマです。世界の専門家も安全だと認めている。陰謀論をばらまく輩に騙されちゃいけませんよ」
観客席から笑いが漏れる。司会者も追従するように頷き、番組はあたかも「正しい意見を広めている」という雰囲気で進行していく。
矢上亮は小さな事務所のテレビで、その光景を無言で見つめていた。堀田の口からは矢上を暗に指すような言葉が次々と飛び出す。
「一部の自称ジャーナリストが隠蔽だなんて騒いでるけど、証拠は一つも出てきてない。国を混乱させるだけのアホですよ」
矢上の胸に怒りがこみ上げた。証拠はある。だが、公開すれば内部告発者の命が危険に晒される。選択は常に「真実」か「安全」かの二択で迫られる。
番組終了後、堀田はSNSに投稿を連投した。
〈ワクチンは安全。騒いでるのは売名ジャーナリストだけ〉
数分で数万のリツイートが積み重なり、矢上を批判するコメントでタイムラインは埋まっていく。
その一方で、矢上のもとに一通の匿名メッセージが届いた。
――「堀田には資金源があります。知りたければ動いてください」
画面には、一枚の入金記録の断片が添付されていた。スポンサー企業名は消されていたが、桁外れの金額だけは残っていた。
矢上は拳を握った。堀田の背後にいるものを暴かない限り、世論は操作され続ける。テレビの光に照らされる偽りの声が、真実をかき消していく現実に、彼の決意はさらに強く燃え上がっていた。
第2節 メディアの情報操作
翌朝、主要新聞各紙の一面には「デマ拡散ジャーナリスト」と大きく見出しが躍っていた。記事の中では矢上亮の名前こそ伏せられていたが、「無責任なフリー記者」「根拠のない告発」といった表現が繰り返され、誰を指しているかは明白だった。
テレビ局も足並みを揃えた。ワイドショーではコメンテーターが笑い混じりにこう語る。
「社会不安を煽って再生数を稼ぐ手口ですね。まるで炎上商法」
隣に座る医師役の専門家も頷き、
「科学的に立証されていない話を広めることは、国民の健康を害します」
と断じた。
矢上の事務所には無言電話が続き、SNSには中傷が溢れた。取材のために足を運んだ喫茶店でも、店主が露骨に眉をひそめる。「もう来ないでくれ」と小声で言われたとき、胸の奥が鈍く痛んだ。
しかし、すべてが敵に回ったわけではなかった。匿名の視聴者から届くメールの中には、こんな声もあった。
――「母を亡くしました。テレビは何も報じてくれない。でも、あなたの配信を信じます」
――「病院で働いています。現場は違います。あなたの言葉は届いています」
矢上はそれを一枚一枚プリントし、事務所の壁に貼り付けた。罵倒の嵐に押し潰されそうになるたび、そこに記された文字を見返した。
夜、一本の電話が鳴った。受話器の向こうで囁く声が言った。
「あなたを救えるのはメディアではありません。真実を持つ者同士が繋がることです。近いうちに会いましょう」
矢上は受話器を握りしめた。
世論は操作され、メディアは真実を覆い隠す。しかし、その壁を破ろうとする小さな力が確かに存在していた。
第3節 小さな突破口
重苦しい日々が続いていた。テレビも新聞も、SNSも、矢上亮を「デマ拡散者」として扱う。事務所の扉には中傷のビラが貼られ、近所の視線も冷たくなっていく。孤立という言葉が、現実の形を持って迫っていた。
ある晩、矢上が配信を終えた直後、メールボックスに一通の招待状が届いた。送り主は匿名、市民グループを名乗っていた。文面にはこう記されていた。
――「あなたの言葉を信じている人がいます。小さな集まりですが、ぜひ話を聞かせてください」
半信半疑のまま足を運んだのは、都内の古い公民館だった。集会室の椅子には十数人が座り、矢上を迎えた。年配の女性、学生らしき若者、そして病院勤務の看護師らしい人物も混じっていた。皆、緊張した面持ちで彼を見つめている。
「テレビは嘘ばかり。でも、矢上さんの配信を見て救われました」
最前列の女性が涙を浮かべて言った。彼女は数か月前に息子を失っていた。声は震えていたが、その言葉は確かな力を持っていた。
別の若者が続いた。
「僕の友人も接種後に倒れました。学校では誰も信じてくれませんでした。でも、ここなら言える」
矢上は胸の奥に熱いものを感じた。十数人にすぎない。だが、その小さな輪の中に、国中の沈黙を破る可能性が宿っている気がした。
「ありがとうございます。私は一人ではないんですね」
矢上がそう口にすると、会場には拍手が広がった。小さな集まりは、静かな希望の炎のように灯っていた。
その夜、矢上は事務所に戻り、壁に貼った「支援の声」の横に新しい言葉を書き加えた。
――「突破口は、市民の中にある」
孤立は完全ではなかった。確かに誰かが耳を傾け、共に立ち上がろうとしていた。矢上は次の一歩を踏み出す決意を固めた。
第5章 封じられた記録
第1節 極秘ファイル入手
午前零時を過ぎた頃、矢上亮のパソコンに一通の暗号化メールが届いた。件名は空白、添付ファイルは一つ。送信元は不明だが、矢上には心当たりがあった。あの匿名の内部告発者だ。
「……また来たか」
震える指でファイルを解凍すると、膨大なデータが展開された。タイトルには「厚労省内部報告(機密扱い)」と記されている。そこには公式発表とは桁違いの数値が並んでいた。接種後に死亡した症例、重篤な副作用の報告件数。外に出された統計の数倍に達している。
さらに、製薬会社とのやり取りを示すメールの記録まで含まれていた。ある文面にはこう記されていた。
――「副作用の増加については既往症に分類し、報告対象から外すこと」
――「マスコミ対応は偶発的で統一すること」
矢上の背中に冷たい汗が流れた。これは単なる医療の過誤ではない。組織的な隠蔽だ。
深夜の事務所で、矢上は思わず椅子を蹴り立ち上がった。手にした紙束を見つめ、吐き出すように呟いた。
「……これだ。これが証拠だ」
だが同時に、胸の奥を不安が締め付けた。このファイルを公開すれば、内部告発者の身元が割れる危険がある。彼らを守る術はあるのか。矢上の頭は熱と冷気に同時に支配された。
窓の外を覗くと、暗闇に一台の車が停まっていた。ヘッドライトを消し、静かにエンジン音だけを響かせている。まるで彼の動きを監視しているかのようだった。
矢上はファイルを複製し、複数の隠しサーバーに保存した。証拠を失わせないための最低限の備えだ。
「ここからが本当の戦いだ」
声に出した瞬間、恐怖がわずかに和らいだ。極秘ファイルの存在は、巨大な闇に対抗するための唯一の剣。矢上はその刃を決して手放さないと心に誓った。
第2節 ハッカーとの共闘
矢上亮は深夜の地下カフェにいた。店内の照明は薄暗く、壁際のテーブルにはノートパソコンを広げた若者が座っていた。フードを目深にかぶり、画面の光に照らされた横顔はまだ二十代に見える。
「……あんたが矢上さん?」
若者は低い声で問いかけた。
「そうだ。君がカイトか」
矢上が答えると、青年は無言で頷いた。彼はネットの匿名掲示板で出会った協力者だ。政府や企業のシステムに精通し、裏では影のハッカーと呼ばれていた。
矢上は鞄からUSBを取り出し、机に置いた。
「これは厚労省の内部記録だ。もしこれが改ざんされれば、真実は闇に葬られる。安全な形で世に出すには、君の力が必要だ」
カイトはファイルを覗き込み、口笛を吹いた。
「こりゃ……マジで爆弾だな。公式発表の三倍以上の死亡例? しかも削除ログまで残ってる。完全に黒だ」
矢上の背筋に緊張が走る。カイトの言葉が事実を裏付けていた。
「だが、発表すれば必ず潰される。サーバーも、アカウントも、あんた自身もな」
カイトは指を忙しく動かしながら、画面に次々と数字の羅列を映し出した。
「俺がやれるのは二つ。まず、このファイルを複数の匿名サーバーに拡散させる。次に、もし本丸が消されても復元できる仕組みを作る」
矢上は深く頷いた。
「それでいい。真実を生かすことが第一だ」
カイトはキーボードを叩きながら苦笑した。
「ただし、あんたを狙う連中は甘くない。ついさっきも、俺の端末に政府系のIPから侵入を試みる動きがあった。もう目をつけられてる」
その言葉に矢上は拳を固めた。恐怖と同時に、燃えるような使命感が込み上げてくる。
「構わない。俺はもう覚悟している」
カイトは一瞬目を上げ、矢上の瞳を見つめた。そして小さく笑った。
「……いいね。記者ってのはそうでなくちゃ」
キーボードを叩く音が、夜の静寂に響いた。矢上とカイト、立場も世代も違う二人の共闘が、封じられた記録を白日の下に晒すための第一歩となった。
第3節 仲間の死
その知らせは、突然だった。
矢上亮の携帯に、午前五時の着信音が響いた。画面に表示されたのは、カイトと繋がりのある別のハンドルネーム。眠気を押し殺して応答すると、途切れ途切れの声が耳を打った。
「……カイトが……事故で……」
言葉の全てを聞き取る前に、通話は切れた。矢上は反射的にニュースサイトを開いた。そこには「若い男性、バイク事故で死亡」という小さな記事が載っていた。写真はなかったが、年齢も特徴もカイトに一致していた。
「……嘘だろ」
手が震えた。彼はつい昨夜、「記者ってのはそうでなくちゃ」と笑っていたばかりだった。その笑みを思い出すほどに、喉の奥が締め付けられる。
だが、矢上の直感は別の答えを告げていた。事故ではない。カイトは確実に狙われた。極秘ファイルを複製し、匿名サーバーに拡散しようとした矢先に起きた「偶然の事故」。あまりに出来すぎていた。
事務所に戻ると、矢上のパソコン画面に赤い警告文が浮かんでいた。
――「次はお前だ」
矢上は息を呑んだ。背後に冷たい風が流れた気がした。窓の外、街灯の下に黒い影が立ち尽くしている。誰なのかは見えない。だが、確実に見張られている。
机の上に残されたUSBを握りしめ、矢上は目を閉じた。仲間を失った怒りと恐怖が、胸の奥で渦を巻く。だがその渦の中心にあるのは、揺るぎない決意だった。
「必ず……世に出す」
呟いた声は震えていたが、確かな熱を帯びていた。
仲間の死は、矢上にとって重すぎる代償だった。しかし同時に、それは逃げ場を断ち切る合図でもあった。闇は動いた。ならば自分も進むしかない――矢上はそう覚悟した。
第6章 法廷の攻防
第1節 集団訴訟の開始
東京地方裁判所の玄関前には、朝から長蛇の列ができていた。報道陣のカメラが並び、フラッシュが絶え間なく焚かれている。その中央に立っていたのは、ワクチン接種後に家族を失った遺族たちだった。胸には故人の写真を抱き、黒い喪服に身を包んだ姿は、沈黙の抗議そのものだった。
「本日、国と製薬会社を相手取り、集団訴訟を提起します」
弁護団の代表がマイクの前に立ち、静かに言葉を告げた。傍らに並ぶ遺族たちの目は涙で赤く染まっていたが、その奥には強い光が宿っていた。
記者席にいた矢上亮は、手帳を握りしめた。ついにここまで来た――そう実感した。彼が拾い集めた声と証拠の数々が、法廷という舞台で形を持ち始めていた。
法廷内は異様な緊張感に包まれていた。裁判官が入廷し、弁護団が訴状を読み上げる。「国と製薬会社は副作用の危険を認識しながら接種を推進し、結果として多数の死傷者を生んだ」と。被告席に座るのは厚労省の代表と製薬会社の弁護士団。無表情の仮面の下に潜むのは、絶対に敗北を許さない気迫だった。
原告の一人、若い母親が証言台に立った。彼女は震える声で、息子を失った日のことを語った。
「健康そのものだったのに、接種して三日後に突然……。病院は偶然と片づけました。でも、私は母親です。息子の命が数字にされて消されるなんて、耐えられません」
法廷の空気が重く沈む。弁護団の弁護士が畳みかけるように問う。
「被告は、こうした事例が数多く報告されていたことを把握していたのではありませんか?」
被告側の弁護士は冷静に答えた。
「関連性は科学的に立証されていません。あくまで偶発的な症状です」
そのやり取りを聞きながら、矢上の胸には怒りがこみ上げた。だが同時に、これが始まりにすぎないことも理解していた。法廷は真実を覆い隠す場にもなり得る。必要なのは、揺るぎない証拠と、声を失った人々の代弁者だ。
裁判が一時休廷に入ったとき、遺族の一人が矢上に声をかけた。
「ここまで来られたのは、あなたのおかげです。でも、どうか……最後まで一緒にいてください」
矢上は深くうなずいた。
「もちろんです。私も、引き返すつもりはありません」
法廷の外には再び報道陣が押し寄せていた。だが矢上には、群衆の騒ぎよりも、胸に刻まれた一言が強く響いていた。
――「これは国民全体の裁きだ」
第2節 医師の証言
法廷に再び緊張が走った。証言台に立ったのは、大学病院に勤める内科医・宮本。矢上亮がかつて接触した、あの若手医師だった。彼の存在が失踪と報じられて以来、行方は掴めなかったが、弁護団の尽力によって証人として出廷が実現したのだ。
宮本は蒼白な顔で証言台に立ち、深く一礼した。声は震えていたが、その瞳は真剣そのものだった。
「私は、接種後に急変した患者を数多く見てきました。しかし、その記録は上司の指示で既往症による悪化と書き換えられました」
傍聴席にざわめきが走る。裁判官が静粛を求める槌を打つ。
「書き換えは一度きりではありません。繰り返し行われ、私を含む若手医師たちは従わざるを得ませんでした。拒めば、医局から追放されるのは目に見えていたからです」
弁護団の弁護士が前に出た。
「つまり、医師たちは危険性を知りつつ、命令に従い続けたと?」
宮本は唇を噛み、やがて頷いた。
「はい……。私は、その沈黙によって患者を守れなかった。医師として最大の罪だと思っています」
会場の空気が一気に重くなる。遺族席からすすり泣きが漏れた。
被告側の弁護士が反論に立ち上がった。
「証言は感情的です。科学的な因果関係は証明されていない。あなたは医師として思い込みで発言しているのでは?」
宮本の肩が小さく震えた。しかし、矢上と視線が合った瞬間、彼の表情に力が戻った。
「思い込みではありません。カルテは嘘をつきません。ただし、嘘をついたのは私たち人間です」
その言葉は、法廷の空気を切り裂いた。
裁判官の表情もわずかに揺れ、傍聴席は静まり返った。矢上は心の中で呟いた。
――「沈黙の壁に、ひびが入った」
第3節 検察の動き
法廷の扉が再び開き、検察官が入廷した。黒いスーツに身を包んだ女性検察官・杉浦。冷静な眼差しと抑揚のない声が、傍聴席の空気を一変させた。
「証人・宮本医師の証言を受け、検察は新たな調査に着手しました」
その一言で場内はざわついた。これまで検察は「業務上過失致死」の線で静観していた。だが今、彼らは「故意性」を視野に入れ始めたのだ。
杉浦検察官は分厚いファイルを開き、裁判官に提出した。そこには、厚労省と製薬会社の間で交わされたメール記録の写しが綴られていた。
――「副作用の増加については偶発の一言で統一」
――「死亡例は基礎疾患によるものとして処理」
文面は短いが、隠蔽の意図を明確に示していた。
「これらは一部ですが、検察が押収した内部データです。国と企業は副作用を認識しながら、報告を改ざんしていました」
弁護団の席からため息が漏れ、遺族席からすすり泣きが広がる。被告側の弁護士たちは慌ただしく資料をめくり、視線を交わした。
裁判官が眉をひそめて問いかける。
「検察は、殺人罪の適用を検討していると理解してよろしいか」
杉浦検察官は一瞬だけ沈黙し、やがて頷いた。
「はい。重大な判断になりますが、故意に近い組織的行為が疑われます」
その言葉に法廷全体が凍りついた。
傍聴席の後方に座っていた矢上亮は、ペンを握る手に力を込めた。ついに、国家権力の一角が闇に切り込む姿を目の当たりにしたのだ。
「これで、後戻りはできない」
胸の奥で呟いたその瞬間、彼は再び自分の役割を確認した。記録し、伝え、社会に残すこと。それが仲間の死に報いる唯一の方法だった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
第6章までで、矢上は仲間を失いながらも極秘データを掴み、ついに法廷の場にまで持ち込むことができました。
ですが、まだ闇は深く、国内外からの圧力と内部崩壊が交錯する局面が待ち受けています。
次章以降では、国際的圧力や市民の蜂起が物語を一気に動かしていきます。
ぜひ引き続きお付き合いいただければ嬉しいです。