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第六話

「おはよう、幸広」

「おはようございます、鶺鴒さん」

 昼食時、それが鶺鴒のいつもの起床時刻だ。防人家に併設する「雑貨屋さん」の主なお客様は夜に来る。基本的に営業時間は日が沈んでから登るまでとなる。

 幸広にとっては昼食、鶺鴒にとっては朝食がテーブルに並ぶ。

 いただきます、のあとに鶺鴒が続けた。

「薔薇は今朝も夢見が悪かったみたいだね」

「そうですね。でも夜中に起きたわけじゃなかったので、この前と違って元気一杯でしたけど」

「それは、幸広が心配して、厚切りベーコンなんていう超豪華モーニング作ったお陰だと思うよ」

「……肉に反応しないのは、ちょっとおかしいので」

「うちの妹、そんなに肉に反応する?」

「しますよ。気付いてないんですか」

 今日のランチは卵と挽き肉の餡掛け丼。とても美味だ。薔薇は今ごろ、朝のベーコンを挟んだサンドイッチを食べているはず。

「もしかすると、「あの日の水」が帰ってきたのかもね」

「え? なんですか?」

「薔薇の悪い夢のきっかけだよ。ああ、本当にただの悪い夢なんだけどね。オレもたまに見るし」

 行儀が悪くならぬよう、口の中のものをしっかり飲み込んで、鶺鴒は言う。

「水というのはね、世界をめぐっていて、どこにでも繋がってるんだよ」

 ピッチャーから冷たい緑茶をそそぎ、鶺鴒は続ける。

「この水もそう。お茶になる前、水道管を通ってくる前は川の水だったはず。その前は森や山や、アスファルトに沁みた水。その前は雨で、雨雲は海で生まれる。オレたちが日々生活に使った水は、下水を流れて川から海へ出ていくよね?」

 幸広は自分のグラスのオレンジジュースを見る。ジュースの水分、オレンジの果汁、オレンジの実を育んだ木が吸い上げた水。そしてこの後、食器を洗うために使う水道水。

「もしかすると、最初に悪夢を見た日、薔薇は触れたのかもしれない」

 鶺鴒はグラスに浮き上がる結露を指先で撫でて水滴を作る。

「あの日の、冷たいシャワーの水の一滴が、世界をめぐって帰ってきて、触れたり飲んだりしたのかもね」

「じゃあやっぱり…」

「いや。きっかけに過ぎないよ。犬に噛まれて大怪我した人は、小型犬だって怖がるだろ? 理性で安全だと分かってても。それと同じ。「あの日の水」が触れたことで、薔薇の体が思い出して、脳が夢として再現したんだよ。ひどいことをされてたからね…そりゃあ怖いし、忘れないよ」

 鶺鴒は穏やかな口調のまま、目を伏せる。

 幸広は七歳のときから、この防人家に住んでいる。だから薔薇からも鶺鴒からも、今は家を出た隼からも、少しずつ昔のことーーこの家に来る前の生活を聞いている。

 簡単に言えば、両親から虐待されていたのだ。

 詳しい内容など、訪ねられるわけがない。だが、本人たちが何かの拍子に、それぞれの語り方でーー薔薇は厭に明るくあっさり話すーーーいくつかのエピソードだけで充分だった。幸広自身、特殊な育ちの事情があり人間的な常識が薄いが、それでも、分かった。今もまだ色々と学んでいる最中だが、吐き気がするような醜悪な所業であることは理解できている。

 鶺鴒は、薔薇よりも七つ年上だ。だから幼かった薔薇よりも鮮明に覚えているはずだ。薔薇が生まれる前のことも覚えている。ひどいことも、そうでなかったわずかな日々も。

「ごめん、幸広。そんな顔しないで。今はきみのお陰で毎日美味しいごはんが食べられる」

「あっ、いや、でも……料理は元々、薔薇が教えてくれたし」

「今やすっかり師匠を超えたよねえ。どころか師匠は完全に胃袋つかまれちゃって」

 暗い顔になっていた幸広に、鶺鴒は軽い調子で場の空気を追い払う。両親は既にこの世にいない。死後のことすらも、鶺鴒は知っている。だから、鶺鴒にとっては、辛いが過去のことだ。

「うーん…だから、それよりも…」

「学校のトイレの話ですか? あとプール。つまりは薔薇とは関係ない、怪奇現象ってことなんですよね?」

「そうそれ。あんまりこっちからわざわざ関わりにいきたくないというか、「みない」のはマナーというか基本ルールなんだけど……浮草がイライラしてる」

「…なるほど?」

「浮草、短気じゃないか、わりと」

「そうですね」

 穏やかにニコニコ笑っているが実は早い段階で怒っているーー鶺鴒さんにそっくりですよね、とは幸広の胸の内だけで呟かれた。

「無視し続ければ自然消滅すると思うんだけど…でもたしかに妙な感じではある」

「オレや薔薇が「みえない」界隈の話してますよね今」

「あ、ごめん、そう。つい隼とかと話してる感じになっちゃったな」

「すいません、みえなくて」

「その方が、人生平和だから良いんだよ……というか食事時に変な話ばっかりしちゃったね、ごめん」

「いいえ、いいですよ」

 幸広は何を今さらというように眉を下げた。

「それがうちの日常じゃないですか」

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