第十五話
リビングの外も同じく水浸しだった。だが、かなりの水位があるにも関わらず、ドアはすんなり開いて出ることができた。二階へ続く階段は滝と化している。
その薄暗い水底を動くものがある。
薔薇は一瞬鋭い視線を送るが、大きな魚のような、潜水している人間のような影が近づいてこないのを見てとると、浮草を片腕に抱えたまま、階段の手すりにヒョイと飛び乗った。
そのまま止まらず、続けて階段横の壁に真横に着地、次は斜め上に跳ねて、空中で体を反転させ一気に二階の壁に着地。
スーパーボールか撞球のごとくに跳ね跳び、水にあまり侵食されていない壁から壁に確実に着地して、あっという間に二階の奥へ。最後は重力にしたがいつつも身を捻り、足からドアの前にバシャンと落ちた。
「浮草、生きてる?」
「うん。今回上下動があんまなかったから、生きてる!」
「そら良かった。ここであってる?」
「うん。ここがみり愛さんのお部屋だよ」
二人の前には、一枚のドア。ごく普通の、室内用のドアだ。
「「おじゃましまーす」」
二人は声を揃えて言って、抱き抱えられた浮草がドアノブを捻った。水嵩があるのに、すんなり開いた。
本来はみり愛の好きなものや私物が置かれているだろう室内は、ベッドに迫る水位と壁を覆う黒髪と水草によってもとの状態が全く分からない有り様だった。
壁際のみり愛のベッドだけが、いやに目立って、乾いている。
二人の背後で、お約束のようにドアが閉まるが、玄関と同じくノーリアクションの薔薇は浮草を片腕に抱き上げたまま、ベッドに歩み寄る。水嵩は、膝上に届くぐらいか。ベッドはまるでイカダのように浮いている。
ベッドの中央に仰向けになっているのは、ガリガリに痩せ細ったみり愛だった。目玉だけが異様に力強い光を放ち、薔薇を見ている。
みり愛の両手は腹の上に組まれ、手の中には桐の小箱が握られている。
「どうも。小学校もいっしょだったはずだけど、話すの初めてだね。しかもこれが最後。残念」
全く残念に思ってないのが丸分かりの軽薄な薔薇の言い様に、みり愛のミイラのように萎びた顔が歪む。何か言いたそうだが、舌も干からびているのだろう。何の音も発することはできない。
「どうしちゃったん、これ」
「あの桐の箱、あれがみり愛さんが作った呪物だよ」
「お?」
「なんていうか『わたしのかんがえたさいきょうのじゅぶつ』って呼べばいいかな。オリジナルの、なにかなんだけど、なんか、起動しちゃったんだよね…呪いの道具として。みり愛さんのお母さんが毎日お祈りしてたからかもね」
「あー、これ、あの水晶のブレスレットなの?」
「うん。それと、みり愛さんのお母さんの髪の毛つき頭皮と、一番きれいだったネオンテトラの死骸と……あと、その、みり愛さんの血のついた例のやつが入ってる」
「気持ち悪っ!!!」
薔薇から今日イチ大きい声が出た。
「というか、あたしを呪おうとしてるのに、あたしの要素ゼロじゃない? あたしの名前を書いた紙だのなんだの入ってないの?」
「それね…。そもそも、内容的に、こう、我が身と引き換えにしても呪うみたいな強い覚悟はあるんだけど、これだとみり愛さんのお母さんを呪う感じなんだよね」
「はあ」
「そもそも、誰かを呪いたいなら、藁人形に釘打つほうがちゃんと効果あるから、わざわざオリジナルの呪物なんて作らなくてもいいんだけど、みり愛さん、普通の精神状態じゃなかったからさ」
「飽きてきたから、結論ください」
「あ、ごめん、RTAなの忘れてた。面白いこと考えるなあっていう、おれの感想喋ってた。つまりその、本来呪われるのはみり愛さんのお母さんだったんだけど、コレができたときもうお母さん死んでたから、死霊が呪物に取り込まれて、みり愛さんの一部も使ってるから、みり愛さんの生き霊も取り込まれて、生命力を吸われ続けて……で、このお姿に」
「ほんとにあたしはいつ出てくるの?!」
「……みり愛さんて、本当に良い人だったんだよね。だから、唯一、悔しいとか羨ましいって気持ちを向けたのが、この世に薔薇ちゃんしかいなかったんだと思う。で、呪物を核にして強くなった生き霊のターゲットになった」
「ひたすら意味が分からない……」
「おれも……」
激しく困惑する薔薇に、浮草は心からの同情の眼差しを送る。そう、本当に、ことの起こりから、ここに至るまで、なんでこんなふうになってしまったの?の連続だ。
みり愛の家族に起きた惨事は未然に防げなかったのだろうか。
本当に誰も気付かなかったのか?
隣近所に、騒音は聞こえなかったのか?
長患いの友が、全くの音信不通になって心配にならなかったのか?
病院は日々多くの患者が訪れる上、常に人手不足ゆえに仕方のないことだった……のか?
誰かひとりでも、お節介を焼いていたら。まあ一度余計なお節介が入りはしたが、他にもあったら?
みり愛を取り巻く人々は、どうだろう。クラスの仲の良い友達、水泳クラブの仲間、水泳に関わる大人。みんな、みり愛の母が病に伏し、みり愛が家事と両立していることを知っていた。
みり愛が、頑張りすぎていて、完璧すぎて、見事に隠し通していたのだろうか?
どいつもこいつも、目玉はどうした? 耳は?
なんで、こんなふうに終わらねばならないのか。
しかも薔薇を巻き込んで。
浮草は、自分がだんだん不機嫌になっていくのを自覚しつつ、薔薇を真っ直ぐ見る。彼女の、大きな焦げ茶色の、生命力に満ちた瞳を。
薔薇は片腕で易々と浮草を抱えたまま、上機嫌な顔で見返す。牙をたてるべき相手を見つけて、薔薇は最近の不満が一気に解消されていた。納得も理解も全くできないが、意味も理由もなく襲われるなんてよくあること。対して、浮草の瞳は真っ暗だ。薄暗いこの幽霊屋敷のラスボスの部屋にあってなお、もっとも暗くて黒くて怒っているのは、浮草だ。
「薔薇ちゃん。売られた喧嘩は買うっていうけど、ほんとにこれ買う? 返品してもいいんだよ、こんなの」
「いいや買うね。意味不明すぎるからむしろ買います」
「えええ……変なもの買わないで欲しいなあ…でも仕方ないか。よりによって、薔薇ちゃんに当たったのが、みり愛さんの最大の不運だったね」
浮草から、まるで倦み疲れた徹夜明けのサラリーマンのような溜め息がこぼれる。三徹ぐらいだろうか。
「薔薇ちゃん、買うんなら、箱を潰して。それで全部おしまいになる。分かる? 全部、おしまいになるからね?」
「さっき浮草言ったよね? 「我が身と引き換えにしても呪う」って。そういうことなら、おしまいになるのは、しょうがないよ」
薔薇は、空いている手を伸ばして、みり愛の枯れ枝のような手から桐の小箱を奪い取った。死にかけの虫ほどの抵抗もない。ただ、彼女の目玉だけが、ギラギラ薔薇を見ているのだけは変わらない。
薔薇は片手に浮草、片手に箱を持ち、みり愛を見下ろした。かなり水位が上がっていて、両者の距離は足の長いベッドぐらいの上下の落差になっている。
「飯島さん。あたしも、親殺してるから、本当は友達になれたかもね。でも、飯島さんはあたしの敵になることにしたんだもんね。ざーんねん」
軽い口調だが、なぜか背筋がそそけたつような薔薇の声音に、みり愛の目の色が変わる。話の内容に対してではない。理解できるだけの知性はもう彼女には残っていない。最後に残ったのは原初の感情。それが、反応した。
いま初めてみり愛は、薔薇の両目を真っ向から見たのだ。
大きな焦げ茶色の目。
上機嫌で心底愉快そうにキラキラしている生命力に満ちた両目。
けれど一瞬前まで浮草を見ていたのと、同じ生き物の目ではない。
みり愛の、ほんのわずかに残った記憶から呼び起こされたのは、何気なく見ていた動物系番組のグリズリーだった。その、茶色の目だった。
グリズリーは、巨体ながらも俊足で、映像の中で子鹿を捕まえて顔を血みどろにして食べていた。それが普通。命を奪うのは、生きることと直結した、ごく当たり前の日常。そういう平静で残酷な、最上位捕食者たるグリズリーと全く同じ目が、みり愛を見てい
くしゃパキャリ
薔薇は片手で易々と、桐の小箱を握り潰した。偶然とはいえ超常の呪物と化していた小箱とその中身は、壊れた途端に闇色の粉となってサラサラと消えていく。
同時に、みり愛のかすかに残っていた生命の灯火も、あっさりと消えた。
パッと部屋が明るくなった。
明かりがついたわけではない。渦巻く怨念が消えて、普通の家に戻ったのだ。部屋はもちろん乾いていて、水草も熱帯魚の死骸もなく、薔薇と浮草の服や体も濡れていない。
ベッドの上には、仰向けに横たわる少女。川森中学が誇る若きアスリートの、亡骸。
「あれ? ミイラじゃなくなったね」
「あの姿は、みり愛さんの魂の姿だよ。呪物と生き霊の自分に生命力を全部奪われちゃったんだ。普通に生き霊が出ちゃうだけなら、死んだりしないんだけど」
「なんか、割りとカジュアルに生き霊って出ちゃうんだっけ?」
「うん。塵みたいに弱いやつなら、誰かを憎めば誰でも出しちゃう。実害を出せるほど強いのは滅多にないけど…たくさんの人に憎まれたら…塵も積もればなんとやら、で、不幸になることもあったり、なかったり」
「ふーん。で、どうするのこの後」
「え? 帰ろ?」
「通報とかしたら、100%警察沙汰だもんね…隼にバレる。帰ろう!」
「うん! 帰ろ帰ろ!」
二人は、手首の赤い糸をほどいて仕舞い、飯島家を出ると、近所のコンビニでアイスを買って食べながら帰った。
この小説は、過去の拙作140字小説のマルチバースであり、一部の登場人物を共有しています
薔薇はそのひとり
140字小説の世界線では仲の良い親がいますが、この世界線では違います
元々、そういう設定だったのですが、旧Twitterに投稿する際に仲良し親子に変更になりました。消えた温もりもありません。この世界線で、原点に戻った、ということになります




