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第十二話

「また優勝できなかったの」


 全国大会以外のあらゆるレースのトロフィーが並ぶ家のリビングで、みり愛の母はみり愛を(なじ)った。(けな)した。叱った。怒鳴った。徐々にヒートアップしていく母は、もはや水泳とは無関係の自分の病の辛さを訴え、わめいて、泣いて、暴れて、みり愛のトロフィーを壁に投げつけて、騒ぐだけ騒いで寝室に飛び込む。扉を閉めながら、いつもの捨てぜりふを吐いて。



「お母さんは病気なんだから、大事にしてよ!」



 薔薇は素朴な疑問を口にした。

「飯島さんのおかーさん、相当あらぶってるけど、その病気って、水泳に関係してるの?」

「全然ないよ」

「ヒュー、言いがかりー。おとーさんは?」

「見て見ぬふり。普通に忙しいみたいだけど。だから家事はみり愛さんがしてたんだよ」

「んー、ツーアウト」

 スポーツと家事の両立。その上、みり愛は三年生だ。高校受験が控えている。高校の方からスカウトの話がきていたとはいえ、未知の強豪校へ行くことになるのだ。どれほどのストレスを、彼女はひとりで背負っていたのか。

「で、薔薇ちゃんがなんで関わってくるかなんだけど」

「やっとか」

「中一の最初のプールの授業なんて覚えてないよね」

「えっ?! 三年前?! うん?……なんにも……え、いや、何にもしてないと思うけど…えっ、なんかやっちゃった…?」

「その時、みり愛さん、薔薇ちゃんに負けたらしくて」

「…………………わからん」

 そもそも、中学のプールの授業はゆるいというか、水遊びだ。一、二回、講師がきて着衣水泳や水難事故の救助方法を教えてくれるが、レースのようなことはしない。各々の泳力にあわせて雑なグループに別れてパチャパチャやるだけだ。だからこっそりクラスメイト以外が混じってることもあるが、それはまた別の話。

「うん…たぶん、本当になんにもしてない。プールにいるひとたちも、薔薇ちゃんがつい本気出したら覚えてるだろうし……だから、こう、アスリートの勘みたいなもので、薔薇ちゃんが本気で泳いでないと気付いた、とか、なんかの拍子に競争っぽくなってそこで負けた、とか、なんかそういう…みり愛さんだけしか分からない何かがあったとしか」

「えええ」

 用務員さんの述懐が、浮草の脳裏をよぎる。

「長年ここで子どもを見てるけどねえ、子どもの思考回路って、直情的でもあるし複雑怪奇でもありますからねえ……ちょうど、()()()()()()に、あの子の目に止まっちゃったんでしょうよ、薔薇ちゃんは。『間が悪い』ってやつですよ。少しなにかが違えば、別の子が、例えばバスケットボールクラブのあの凄い子が恨まれたのかもしれませんよ」

 そう。本当に、そこは浮草にも分からない。無礼を承知で、飯島みり愛の心を、おもいっきり覗いた浮草だが、そのあたりの記憶はまるでグシャグシャに塗り潰したかのようで、よく「みえ」なかった。周りの期待と称賛が嬉しいけど重くて、母親に病が心配で怒られるのが悲しくて、父親はなんにもしてくれなくて、たったひとりで頑張っていたみり愛は、グシャグシャに潰れてしまったのだ。

「誰も知らなかったってことは、誰にも悪口言わなかったってことなんだよ」

「あー。それは、スリーアウトだね」

 悪口は良くない。でも、不満は言った方が良いのだ。人生の不遇や誰かにされた理不尽は、人に聞いてもらった方が良いのだ。ただ単純に相手を貶めるのは良くないことだが、それが重い恨みや本物の憎しみに変わる前に、悩みや愚痴として外に吐き出さないといけない。

 たぶん、みり愛には、笑って悪口を言える人がいなかったのだ。水泳で負ける悔しさを、家庭内の不和を話せる相手がいなかった。

 水泳の練習と家事と、学業、ぜんぶ、みり愛はちゃんとやった。

 やってしまった。

 だから、周囲はみり愛を褒め称えた。

 飯島みり愛は、強い人だと勘違いした。


 知らなかった。


 本当は、普通の女の子だったのに。


 飯島みり愛がどれほど、孤独で、苦しんでいるか、人間は誰も知らなかった。


 誰も、みり愛に寄り添ってはくれなかった。


「でもね、そもそもみり愛さんのお父さんがちゃんと家族に向き合えてれば、こうはならなかったかも。お母さんの体の具合がよくなれば、こうはならなかったかも。みり愛さんが、もっともっと強くて、潰れなければ、こうはならなかったかも」

 誰かひとりでも、みり愛の味方をしてくれたら。悩みを恨みを悔しさをいっしょに背負ってくれたら。

 あるいはみり愛がひとりでも戦い続ける、フィクションのヒーローたちのように不屈で無敵だったら。

 でも、そうはならなかったのだ。

 だから、こうなった。

「アッハハ、そりゃ無理だ。だってこの世に、助けに来てくれる正義の味方なんていないんだから」

 乾ききった大笑いが薔薇の喉から放たれた。

 薔薇の言うとおりだ。


 あの時、ひとりでも助けに来てくれる誰かがいたら。


 飛んできてくれる正義の味方がいたら。


 変わる運命がある。

 助かる命がある。

 救われる心がある。


 現実はそうじゃない。

 運命は悪い方へ進んでしまう。

 命は助からず、潰える。

 心は救われず、壊れる。


 現実には、駆けつけてくれる正義の味方はいない。薔薇だって、偶然強く生まれたから今回は無傷で済んだだけだし、寄り添ってくれる家族と友達がいたから、ひとりで苦しむこともなかった。ひとりで背負わず済んだ。偶然、そうなっただけ。

「悪いことが重なって、その中にあたしもサンドされちゃったと。そして恨み募って生き霊が爆誕したと」

「うん。でも、薔薇ちゃん効かないからね……薔薇ちゃんが不幸になったら、もしかすると少し気が楽になったかもだけど…別にそれで、優勝できるわけないし、お母さんの病気は治らないし」

 人の不幸は蜜の味。薔薇が不幸になる姿は、もしかしたら、みり愛の孤独と苦しみを少しは癒したかもしれない。が、なんの解決にもならない。原因は薔薇にはないのだから、当たり前だ。

「ところで、死霊は?」

「みり愛さんのお母さんだよ」

「うおっ。まじか………」

「まだ四十九日も経ってない」

「亡くなったのは病気でってことだよね? そんなに悪くなっちゃったの?」

「ああ、それはね」

 浮草が立ち止まる。

 薔薇と浮草の前には、リフォームされた一軒の家。表札には「飯島」とある。

 見上げて、浮草は変わらぬ口調で言った。



「みり愛さんが殺したんだよ」

「正義の味方はいない」は、私の創作すべてに通じるテーマなのだと思います

飯島みり愛は被害者です

その母親も、病に苦しむ被害者です

父親も、アスリートとして頑張る娘と病気の妻を支えるためのお金を得るため必死で働いていただけです

ですが、結果的に彼女は、ひとりで苦しみ、追い詰められてしまいました

そして、してはいけない選択をしてしまったのです

正義の味方がいたら、防げたのかもしれませんね

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